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世界奉仕者の新集団コミュの天使たちとの対話 / 続けて読むことが出来ます

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文章が長いので こちらにコピペいたしました

http://141.txt-nifty.com/141/2014/01/no1-1dd8.html

http://141.txt-nifty.com/141/2014/01/no2-e356.html

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http://mixi.jp/view_community.pl?id=5196119 より

ミクシーのコミュ
日々の糧 / 天使たちとの対話 より

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お読みになる皆さんへ(注1)

 ここに記録された素晴らしい出来事は、1943年と1944年の第二次世界大戦の後期に、人智を超えた高い存在から教えを受けたハンガリーに住む4人の友人たちの実話です。

ナチスがハンガリーを席巻し、政治的な緊張と恐怖が最高潮に達したとき、ギッタ、リリ、ハンナ、そしてリリの夫のジョセフは突然「不思議な力」に接し、この驚くべき邂逅(かいこう)は88回の対話の形を取り、17ヶ月に及びました。その後彼らのうち3人はナチの強制収容所で亡くなりましたが、唯一の生存者ギッタ・マラスは、ハンナを通して語れた(彼らが天使としてよんでいた存在たちの)言葉の貴重な記録とともに地下にもぐり、数年後、鉄のカーテンを通り抜けフランスへと出国しました。

1967年、この「対話」がハンガリー語からドイツ語、フランス語へと翻訳されてゆく過程で、その存在がラジオ記者クロード・メットラの注目を引き、ラジオフランスで90分に及ぶインタビューにより初めて公に知られ、1976年「天使たちとの対話」初版が出版されました。

いと高き存在に蒔かれた言葉の種は、33年間土に中に眠り続け、その固い殻を破って地表に芽を出したのです。長い歳月を尊い犠牲を経て、今この芽は豊かな果実をつけようとしています。

「明るい光で満たされるが、楽しいことはいっさいない。
反対に、私の内面のもっとも暗い部分が容赦なくはっきりと照らし出されるため、ごまかさない自分自身を見つめざるを得ない」

とギッタは述べています。
混迷する今だからこそ、その光はさらに強く輝き始めたといっても過言ではありません。

つたない翻訳ですが、どうぞ心を開いてお読みいただき、皆さまの内なる世界に光が当てられ、新たなる対話が生まれますよう願ってやりません。

訳者一同

・・・・・・・
Talking with Angels
 天使たちとの対話

 筆記者 ギッタ・マラス

〜1943年から1944年にかけて、ナチス統治下ハンガリーにおいて、
 4人の若者たちが実際に遭遇した17ヶ月に及ぶ対話記録〜


序文(ロバート・ヒンショーによる序文)


 『天使たちとの対話』の、この英語版での出版は実現するまでに長い時間を要しました。ここに延べられた素晴らしいできごとは、第2次世界対戦期、1943年と1944年にハンガリーで起きたことです。


 生活状況が悪化し、やがては、生き残りの見込みまでもが危うくなってきた時、親密な関係にあった4人の友人たちは、後に彼らが天使だと知ったある力(フォース)に突然、遭遇しました。この驚くべき邂逅(かいこう)は17ヶ月続きました。この『天使たちとの対話』は後に出版されることになるハンガリー語で書かれた記録原本の最初の全文訳です。友人の3人はやがてナチスの強制収容所で亡くなりました。そして唯一の生存者であったギッタ・マラスには貴重な記録とともに地下にもぐり、7人の家族(両親、兄弟とその妻、そして子供たち)を支えることに専念しなければなりませんでした。戦争中その家族は豊かな生活から貧困へと転落しました。人生の節目節目で状況が一変するのは、ギッタには常のことでした。

戦後の共産主義体制のハンガリーで生き残るための苦闘は、15年以上続くことになりました。ついに新たな出発への機会が訪れたときーその時、もう両親は亡くなり、甥や姪は成人していましたーギッタはシーツにしっかり包んだ大切な数冊の黒いノートを小さなスーツケースに入れて、鉄のカーテンを通り抜け、フランスへ出国することができました。


 1960年、パリで53歳にして新たな生活が始まりました。ギッタは舞台装置およびグラフィックデザイナーとしてかなりの評価を再び確立したのです。そして、ハンガリーから同じく移住していた敬愛する男性ラシと出会い結婚しました。彼女は夫や数人の親しい友人の助けを借り、この対話記録をハンガリー語、ドイツ語に続き、彼女にとっては第三言語であるフランス語へ翻訳するという困難な仕事を始めました。

これらの友人のひとりを通して、対話の存在がフランスの著名なラジオジャーナリスド、クロート・メットラの注目を引くことになりました。彼は対話をよんだ後、ギッタに毎週全国放送されていた彼の番組「生きている人々と神々」に主演を依頼しました。最初のその有名な90分のインタヴューは、1976年4月22日、ラジオフランスにより生中継され、対話が公に知られるようになる端緒となりました。


 ギッタは、対話をすべての人の手に届くようにすることが、彼女の使命の一つであると長い間思っていましたし、対話が、それに加わった元の4人だけでなく、もっと多くの人にとって重要であることは分かっていましたが、他の人々に提供する手段がありませんでした。それが今、ついに公開の場を手にしたのです。

ラジオフランスには彼女の感動的なメッセージに対する反響の手紙が殺到しました。ある日クロード・メットラはそれらは大きな束にまとめ、小さいながら名のあるパリの出版社オーピエール・モンテーニュへ乗り込みました。ギッタの原稿はすぐに受け入れられ、出版に向けて推敲や準備がなされ、1976年の後半、『天使たちとの対話』として出版されました。実質的な広告をしなかったにも関わらず、本はたちまち評判になり、国中のラジオや新聞で書評され、論じられました。

フランス人は鋭い知性と懐疑的な合理主義で知らせているにもかかわらず、どこの国よりもまずフランスで初の大成功をおさめ、圧倒的な反響で迎えられたことを述べるのは、興味深いことです。たぶんこれは秘教的なことを扱うほかの多くの出版物に比して、この記録が率直で実際的な正確をもっていたからでしょう。


 ギッタは自分自身は表舞台に出ないことに決めました。ラジオ出演後、当然ながら殺到した講演依頼の全てを断り、比較的無名のまま普通の日常生活を送り続けました。ギッタが注目の的にならないように心がけたのは、生来の内気な性格だけからではありませんでした。人々が自らの希望や恐怖や崇拝の念を彼女個人に転嫁したり、彼女を一種の「グル」にしたいと望んだりしがちであることに、非常な嫌悪をおぼえていたのです。

真のメッセージとは、誰もが対話記録の言葉との間に個人的なつながりを見つけ、そのつながりを

自分自身で体験すること

だと確信していました。こうした理由から、ギッタと他の3人の写真も本には公表されませんでした。


 1973年、ギッタと夫はパリを退き、フランスの田舎ドルドーニュ地方に小さな農家を自ら改築して移り住みました。ラシがその土地の材料を使って自分で家具を作りました。ついに都会から遠く離れ、子供時代のように再び自然の近くに住んだギッタは、何年にもわたり質素な生活を送り、『天使たちとの対話』に関して寄せられたたくさんの手紙に返事を書きました。彼女にとって自らのエネルギーを対話集の外国版の仕事に捧げることは、大きな喜びでした。


 1983年、引退後の静かな生活は思いがけない講演依頼を受けた時終わりました。その依頼は、天使たちの体験を学生達に話してもらいたいという、チューリッヒのユング研究所からのものでした。戦争後何年も続いたブタペストの困難な日々、ユングの書物に深く感銘を受け、後には自伝に述べられた彼の内なるガイド、フィレモンとの対話に大いに慰められたギッタは、この招待を断ることはできないと感じました。

彼女は電車でチューリッヒまでの長い旅をし、活気に満ちた二晩を過ごしました。対話の体験について語った後、その講演に魅了された会場いっぱいの聴衆とのディスカッションが行われました。


 チューリッヒでの非常に大きな反響から、結局、ギッタは対話記録のほかに、対話に関する個人的な経験をもっと多く明らかにすべき時期が来たと確信しました。そしてそれ以後の数年間、フランス、スイス、オランダ、ドイツ、オーストリア、ベルギーへと、広く講演旅行をし、ワークショップを開きました。


 さらにギッタは読者との文通や、後には講演での出会いについてかなり個人的な題材を本にする仕事にエネルギーを注ぐ適切な時期だと感じるようになりました。その結果、Die Engle erlebt(”天使達の体験”)がドイツ語とフランス語版で、1983年の後半に出され(その後、他の言語での翻訳が出され)ました。2番目にWeltenmorgen(”明け初める世界”)、続いてSprung ins Unbekannte(”未知への飛躍”)が出版され、その中で対話が最初に出版されて以来ずっと彼女に寄せられた多くの質問に、さらに個人的に答えました。


本書、英語版作成の作業は1984年に始まりました。英語の抄訳は1979年に少数出版されましたが、間もなく絶版となりました。熟考のうえ、最初に立ち返って原本の手書きのハンガリー語を基にして、一語一語ギッタとともに注意深く仕儀とをすることが決められていました。これは困難で時間のかかる行程でしたが、大変やり甲斐のあるものでした。ハンナが心の耳で聞いたものをハンガリー語表現しましたが、今この翻訳で、対話は英語へとさらに一歩先に踏み出したのです。


 ヴィラーツェル、アインジーデルン、そしてギッタの住むジラルデルでの多くの研究会や、これらの会合の合間を縫ってほとんど毎日(読者との)文通を手がけながら、4年という歳月を経て新しい英語版はゆっくりと断片に光があてられ、翻訳の過程で疑問がわいた点には説明の注が付け加えられました。


 ギッタの献身的な夫ラシが1982年になくなった後、彼女はジラルデルの小さな農家に一人で住み続けました。その後1988年、ちょどこの本の最後の校正刷りが印刷されようとしている時、彼女は命にかかわる事故に遭いました。奇跡的に命は助かりましたが、両腕を骨折してしまいました。この命拾いは自分の地上での仕事がまだ完成していないことを示していると、彼女は思いました。


 回復した後、ギッタは近くにも若い友人達がいるフランス北東部の小さな農家に移り住みました。彼女はこの小さな「隠れ家」で、何よりも大切だった独立した生活を続けましたが、以前の南部の家で時には持てた、ほぼ完全な隠遁(いんとん)生活は望めませんでした。年齢を重ねるにつれて講演の依頼は減っていきましたが、ますます多くなる聴衆のために、時折TGV(高速列車)でパリに行き、天使に関する様々な企画や広範囲な文通の仕事をやり続けました。1992年5月、彼女は亡くなりました。


 なぜ、『天使たちとの対話』は、これほど人の心を掴み、感動させたのでしょうか。私にとってその重要な一部は、これら4人の普通の若者達がだれも宗教的な教育を受けていないにもかかわらず、彼らが日常生活に当然のこととして「天使たち」の出現を受け入れたことです。この光り輝く神秘的なできごとが、まさに彼らの人生の最も暗い時に起きたことは、本当に意味深いことです。つまり心を開いてさえいれば、出口がないように思われる時に、新しい道や変容への可能性が立ち現れることを示しています。


 天使達はギッタや友人達に地上の生活は全体の一部に過ぎないことを教え、そして今も私達にそう教え続けています。一旦これに気づけば、死は恐れるべきものではありません。天使達が



として教えていること、つまり、前進することや、教義に捉われないことに気づく時、永遠に繰り返されることが永遠なのではなく、

永遠に新しいこと

が永遠なのだと私達は知ります。天使達は次のように告げています。

私達が担う光が多ければ多いほど、私達の気づきが多くなり、それだけ自らの「頂点」、つまり自分自身の天使に出会う地点に近づきます。これと同時に、私達個人を導いている天使も、上から降りてこの同じ地点で私達に会おうと努力しています。ですから、たとえたどる道が個々でどれほど違っていても、私達はその努力を一人でしているのではありません。私達がこのことを体験するのに、個々がどのような道を通るのかが重要なのではなく、

私達が個々の独自の道でこれを体験すること

が重要なのです。これこそがこの本の示唆するものであり、神髄なのだと私には思われます。


 ギッタはいみじくも自分はこのテキストの著者ではなく「単なる」

筆記者

であると、しばしば主張しました。対話を他の人々のために役立つのにすることが、自分の仕事だと彼女は考えていたのです。死の間際に対話についてどのように思うか尋ねられた時、ギッタはこう答えています。


 「それらの言葉は天使によって蒔かれた種に似ています。それは33年間土の中で眠っていました。パリでフランス語版の『対話』が出版された1976年、種はようやく初めて表面の硬い殻を破って芽を出しました。そしてそこから野火、いえ

光の炎

のように世に広まりました。今は新しきもの、人類の春が来たのです。そしてこれらの言葉はすべての人にとって、真に現実的な可能性を表しています。」


天使達は言いました。

私達がお互いに話をすることよりも、自然なことがほかにあるでしょうか。

本書が多くの新しい対話を生む手助けになりますように・・・・


ヴィラツェル、1988、1992、
1997年11月 改定 ロバート・ヒンショー

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