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SONGSコミュの第264回 テレサ・テン

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ほぼ音声入力のままですので校正のちほどです。

語り:守本アナウンサー>テレサ・テン。「つぐない」「愛人」そして「別れの予感」
1980年代に日本で数多くのヒット曲を発表しました。テレサは香港やシンガポール、タイ
そしてマレーシアなどで活躍。テレサは20世紀のアジアを代表する女性歌手の1人です。
95年、テレサ42歳の若さで突然この世を去りました。
「SONGS」テレサテン。20世紀後半、激動のアジア情勢のもとで夢を追い続けた歌姫の人
生に迫ります。

1949年、中国での内戦に敗れた蒋介石は台湾に渡り、50万を超える人々が移住。
そこには、テレサ・テンの両親の姿もありました。
1953年、テレサテンは台湾で生まれました。父は軍人、三人の兄と弟という男兄弟に囲まれ
て育ちました。小さい頃から歌うことが大好きだったテレサは、10歳のときラジオ局主催の
コンテストで優勝。天才少女として注目を集めます。その歌唱力が認められ14歳の時、プロ
歌手としてレコードデビュー。2年後、主演映画が製作されテレサは台湾のスターになりま
す。その後、シンガポールやマレーシアでも火がつき国境を越えて人気を集めました。
18歳、香港でもレコードをリリース。アジアのトップスターとなりました。
アジアで広く活躍していたテレサに日本でいち早く注目した人物がいます。舟木稔さん。
当時勤めていたレコード会社でテレサをデビューさせるために奔走しました。舟木さんは何
度も台湾や香港へ足を運びテレサのや両親を説得。ついに日本でのデビューが実現しました。

74年テレサは日本での歌手デビューを果たします。この時21歳。期待の新人歌手として注目
されました。二枚目のシングル「空港」。テレサは日本での人気を得るため大人っぽい歌謡曲
に挑戦しました。テレサは「空港」で数多くの新人賞受賞。日本でもトップスターの仲間入り
を果たします。77年に出演したテレビ番組の貴重な映像です。

るんるん空港

「空港」がヒットし日本での歌手活動が軌道に乗ったテレサ。香港拠点に台湾や日本などアジ
ア各地を行き来する多忙な日々を送っていました。そんな矢先の79年2月大きな事件が起きま
す。アジア各国をスムーズに移動するため不正に入手したインドネシアのパスポートで日本入
国したことが発覚。国外退去を命じられます。台湾当局はテレサの身柄を強く要求しました。
しかし、舟木さんはその要請には応えずある決断を下しました。

 アメリカ留学。 18歳から歌い続けてきたテレサにとって全てが初めて経験する貴重な時間で
した。テレサの兄、長富さん。テレサとともにアメリカへ渡り一緒に暮らしていました。

  テレサはアメリカで化粧もせずにいつもジーンズ姿でした。スポーツや買い物を楽しみ
  ながら気楽に過ごしていましたね。プレッシャーを忘れてとにかくリラックスしていま
  したよ。

アメリカで様々な音楽活動にも触れたテレサは歌詞として表現の幅を広げていきました。
1980年、台湾に戻ることを許されたテレサはアジアでの歌手活動を再開します。
83年、テレサは香港でデビュー15周年を記念したコンサートを行い10万人を動員。この頃
アジア各地でその人気は頂点に達していました。

しかし、日本ではパスポート事件以来テレサの存在は忘れられつつありました。
「もう一度日本で歌いたい。」テレサは新しいレコード会社と契約を結び再出発します。
テレサの新曲を作り上げたのは新進気鋭の作曲家三木たかしさんと作詞家荒木とよひささんで
した。荒木さんはテレサが話す日本語に特別な魅力を感じていました。
そして、84年に発表したのは「つぐない」。荒木さんはこの曲で悲しみを背負った切ない女心
をテレサの歌声で表現しました。「つぐない」は有線放送を通じてじわじわと人気に火がつき
やがて大ヒット。テレサこの年の日本有線大賞など数多くの音楽賞受賞。カムバックを果たし
ます。

 本当にありそうな恋の姿。誰でも実感として理解できる別れを描きたかったという荒木とよ
 ひささんはこの歌の中にひとつの女性の理想上を託したのでしょうか?
 憎しみのない恋の終わり方を歌って「つぐない」テレサテンさんです。

るんるんつぐない

つぐないの翌年に発表した「愛人」も大ヒット。テレサの人気は不動のものとなります。
そしてテレサは念願だった紅白歌合戦に初出場を果たします。
「つぐない」「愛人」と大ヒット曲を世に送った三木さんと荒木さん。次の作品に模索してい
ました。そして完成したのは「時の流れに身をまかせ」。荒木さんは多くの人に共感される曲
を目指して歌詞を書き上げました。

テレサにはある夢がありました。
それは、子供の頃から歌手活動を支えてくれた両親の故郷中国で歌う事でした。中国の人々も
テレサの歌声は愛されていました。特に支持されたのはテレサが歌うこの名曲でした。
1930年代に中国で流行した「何日君再来」。テレサこの曲をカバーし彼女の代表曲となりま
した。ところが、中国政府はテレサが歌うラブソングは退廃的な音楽だとして放送やレコード
の販売はもちろん個人的に聴くことも禁じました。
 
現代中国文化の研究者立松昇一さん。中国でのテレサの音楽について調べてきました。

それでも中国では何とかしてテレサの音楽を聴きたいという人が後を絶ちませんでした。
その情報はテレサ本人の耳にも伝わってきました。自分の歌声を待っている人たちのために
中国で歌いたいという気持ちがより一層高まっていました。
85年、改革・解放路線を進める中国でテレサの音楽が事実上解禁。中国での支持が再燃しま
す。そしていよいよテレサの夢が実現に向けて動き出しました。
このころ中国からコンサートをやってほしいというオファーがたくさん届くようになりまし
た。実は言うと90年に中国でコンサートを開催することになっていたんです。

しかし89年、北京で天安門事件がおきます。民主化を求める市民を軍が鎮圧。テレサの中国で
のコンサートは中止。テレサはあと1歩のところで夢をかなえることができませんでした。
当時テレサはその心境を次のように語っています。


失意の中テレサは単身パリに移り住みます。パリに渡って3年。中国への思いをより深めてい
たテレサは中国で広く愛されてる名曲「夜来香」を新たにレコーディングしました。
しかし、この頃テレサは喘息を患い次第に体調崩していきます。
90年、テレサは体調不安を抱えながら懸命に「夜来香」を歌いました。これが日本での最後の
テレビ出演となりました。
るんるん夜来香

95年5月8日。テレサは休養先のタイで急死します。享年42。アジアの歌姫テレサテンの訃報
は世界中を駆け巡るました。

今年5月、中国・北京であるコンサートが開かれました。テレサテン生誕60周年を記念して
中国や台湾の人気歌手が集まりかつてテレサが歌った名曲を蘇らせました。
「中国で歌いたい」というテレサの大きな夢が若い歌手によって実現したのです。

 テレサにとって心残りだったのは中国で歌えなかったことでした。今回ようやく私たちが
 彼女を連れて行くことができたんです。

14歳で歌手デビューして以来アジアの歌姫として愛されてきたテレサテン。時代に翻弄され
ながらも夢を追い続けた彼女の歌声は今でも多くの人の心に響いています。
「時の流れに身をまかせ」テレサが愛した彼女の最大のヒット曲。国境越えて愛される名曲
です。

るんるん時の流れに身をまかせ

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