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SONGSコミュの第148回 デイヴィッド・フォスター

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  ※誤字脱字、かなりあります。 後日 訂正します。

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マイケル・ジャクソン「アース・ソング」
「THIS IS IT」で、マイケルが強いメッセージを込めた「アース・ソング」は
1995年に世界中で大ヒットしました。
この曲をマイケルと共に作り上げたのが音楽プロデューサーの
デイヴィッド・フォスターです。

 マイケルともっと仕事がしたかったと悔やんでします。
 彼がこんない早く亡くなるとは想像もしていませんでした。
 マイケルとは素晴らしい音楽を作りだす事ができましたからね。

デイヴィッド・フォスターは、これまでにグラミー賞を15回獲得。
彼が手がけたレコードは全世界で5億枚を売り上げ、アメリカを代表するヒット
メーカーです。
2年前からは彼がプロデュースしたアーティストたちと「フォスター&フレンズ」
というコンサートを世界各地で開催してきました。

10月には実に16年ぶりに日本でコンサートが行われます。
そして9月にはデイヴィッド・フォスターがプロデュースしてきた70年代の
名曲を集めたアルバムが発表されました。
「SONGS」今夜は40年にわたり世界的なヒット曲をうみだしてきたスーパー・プ
ロデューサー、デイヴィッド・フォスターの名曲の数々とその曲の陰に隠された
苦難の道のりを描いていきます。

デイヴィッドは1949年、アメリカとの国境に程近いカナダ・バンクーバ島で生
まれました。4歳の時、クラシックピアノを始めました。
絶対音感を持つ天才少年として評判でした。
20歳の時に結成したバンドのメンバーと共に渡米。プロデビューを果たします。
しかし、ヒットが続かず、1年後にバンドは解散。
デイヴィッドは初めてアメリカの音楽界の厳しさを知りました。

デイヴィッドは一人でアメリカに残り音楽活動を続けました。
スタジオミュージシャンとしてたぐい稀なピアノ演奏の腕を買われ、
ジョージ・ハリスンなど高名なアーティストからも声ががかることになりました。
しかし、将来に対する不安も抱えていました。

 私よりも年上のスタジオミュージシャンたちは仕事がどんどんなくなっていった
 んです。それを目の当たりにして、いつかこのままじゃ食べていかれなくなるか
 もしれないと毎日不安でした。
 それで、プロデューサーを目指したです。でも、プロデューサーになってすぐの
 年収はたった5000ドル。手がけた3枚のアルバムオはどれも売れませんでし
 た。私は初めて音楽をやめようかと真剣に悩んでいました。

しかし、そんなデイビィッドにチャンスが訪れます。
ブラックミュージックを代表する人気バンドのアースウインド&ファイアに直接
自作の曲を売り込む機会を得たのです。リーダーのモーリス・ホワイトは
デイヴィッドの作った曲を気に入ってくれて一緒にアルバムを制作することになりま
した。しかし、レコーディングの最中デイヴィッドはメンバーから冗談めかしてこん
な事を言われます。
「うちはR&Bのグループだ。お前のようなカナダから来た白人の若造と演奏して
いるなんて知られたくないんだよ。」デイヴィッドは笑い飛ばしましたが、アメリカ
社会でプロディーサーを続けていく事の難しさを肌で感じました。

デイヴィッドが作曲した「アフター・ザ・ラブ・ハズ・ゴーン」は1979年のグラ
ミー賞、最優秀R&Bソングを獲得します。
プロデューサー・デイヴィッド・フォスターの名が初めてアメリカの音楽界に知れ渡
りました。

グラミー賞受賞を機にデイヴィッドのもとにはたくさんの仕事が舞い込んできました。
プロデューサーとして忙しい毎日が続きます。
そんな時デイヴィッドは尊敬する先輩プロデューサー、クインシー・ジョーンズと出
会います。当時、クインシーはマイケル・ジャクソンのプロデューサーとして数多く
のヒットを世に放っていました。
急激に売れっ子プロデューサーとなってデイヴィッドは数多くのアーティストを手が
けるあまり、一つ一つの作品に手間をかけることができなくなっていました。
そんな姿勢をクインシーに厳しくとがめられたのです。

 クインシーは、僕のアルバムを手にとってこう言いました。
 「ここに何て書いてある?プロデューサーはデイヴィッド・フォスターと書いてあ
  るだろ。全ての作品に100%以上の力を注ぎ込めないのなら君はカナダに帰れ。
  妥協する人間はプロデューサーと呼ばれる資格はないんだ。」
 その日以来、僕は一切妥協というものをしなくなりました。

プロデューサーとして仕事を始めて5年。デイヴィッドは憧れのロックバンドだった
シカゴのプロデュースを担当することになります。
シカゴは1969年にデビュー。ヒット曲が出ずスランプに陥っていました。
デイヴィッドはそんな彼らに妥協をする事なく厳しい態度で臨みました。

 彼らが書いてきた新曲13曲を聴かせてもらいました。
 でもその全てが最悪だったんです。その時クインシーのアドバイスが頭をよぎり、
 私はきっぱりと一から曲を作り直しましょうと言ったんです。
 その後1年間来る日も来る日も彼らのもとに通い、曲作りを続けました。

そうして完成したアルバムは全米250万枚の大ヒット。
「素直になれなくて」はシカゴの代表曲となりました。
今夜はデイヴィッドとシカゴのボーカリストだったピーター・セララが2008年に
共演した時のパフォーマンスをご覧ください。


1988年、デイヴィッドは松田聖子さんのプロデュースを手がけます。
新しいアルバムを制作するため松田聖子さんが依頼しました。
デイヴィッドと聖子さんはロサンゼルスのスタジオで数カ月にわたってレコーディン
グを行ないました。その間に聖子さんはでデイヴィッドの音楽に対する厳しさに身を
もって感じました。

 音楽に対する例えば何でしょうかね。自分の子供と同じように育てていくっていう
 か、作り出していくっていったらいいんでしょうか。情熱っていうか完成させるた
 めの一生懸命な感じっていうか、妥協しないっていうか。
 何かこう厳しかったけど、それはただただ厳しいんじゃなく優しさがある厳しさっ
 て言ったらいいんでしょうか。だから、私は本当にいい経験をさせていただいたし。
 ついこの間も何十年ぶりにデイヴィッドさんにお会いして、あの時の話をまた一緒に
 させて頂けて、デイヴィッドの前に出ると直立不動になってしまうんですけど今でも。
 「はい!」みたな感じになっちゃって(笑

 聖子との仕事はとても楽しかったです。
 日本のアーティストがアメリカの音楽を吸収し独自の音楽を生み出すという事は
 とても素晴らしいことだと思います。聖子はその先駆けだったのです。

1988年、デイヴィッドは地元カナダのカルガリーで行われた冬季オリンピックの
テーマソングを手がけます。同じ年それまでの功績が認めれ、カナダ総督より名誉あ
る勲章が授与されました。デイヴィッドはカナダの英雄となりした。
しかし、この後、デイヴィッドは深刻なスランプに苦しむことになります。ヒット曲
を飛ばし続けなければいけないというプレッシャーに加え、家庭での問題も重なり数
年間にわたり、満足のいく曲づくりができなくなってしまいます。
そんな苦しみの中でデイヴィッドは地元カナダに天才的な歌声を持った少女がいると
いう噂を聞き駆けつけました。セリーヌ・デュオンです。

 初めてセリーヌに出会ったのはモントリオールの野外イベントでした。彼女はまだ
 英語が話せませんでした。しかし。彼女が歌いだした瞬間周りの物が何も見えなく
 なって彼女の歌声しが耳に入ってこなくなったんです。

デイヴィッドは同じカナダ出身のセリーヌをスターにしたいとレコーディングを開始。
90年には全米デビュー盤となるアルバム「ユニゾン」をプロデュースします。
しかし、ヒットしませんでした。

ちょうどその時期にデイヴィッドは同じようにヒットが出せずにスランプに苦しんでい
たシンガーのナタリー・コールから新作のプロデュースを依頼されます。
ナタリーは今は亡き父で偉大なシンガーであるナット・キング・コールと自分が
デュエットできなかと相談に来たのです。デイヴィッドはすぐこの依頼を受けました。

 亡くなってしまったお父さんとでデュエットするというアイデアを聞いてとても 
 すばらしいと思いました。私もナット・キング・コールの大ファンだったからです。
 私たちは「とにかく一緒に美しい音楽を作りましょう」という純粋な気持ちで作業
 を進めていったんです。

デイヴィッドは、父であるナット・キング・コールが過去に録音した声のみ取り出し
娘であるナタリーと共演させるアイデアを思いつきました。
この父と娘の共演は大きな感動を呼び、800万枚の大ヒットとなりました。

 この曲はまず一番に、ナタリーお母さんに聴いてもらったんです。
 本当に心を込めて作り上げた事が報われた瞬間でした。

デイヴィッドはこのアルバムで5年ぶりにグラミー賞を獲得。
長いスランプからカムバックを果たしました。

「アンフォゲッタブル」の成功で自分の曲でなくても多くの人の心に届く作品を作る
ことができる。デイヴィッドはプロデューサーとして新たなスタイルを見つけだしま
した。そして92年、友人のケビン・コスナーからの映画「ボディ・カード」のテー
マソングの依頼を受けます。
ケビンは70年代のあるカントリーの曲をホイットニー・ヒューストンでカバーさせ
たいと考えていました。
「オールウェイズ・ラブ・ユー」この曲を聴いた瞬間、デイヴィッドはオーケストラの
壮大なアレンジ、そして、ホイットニーが高らかに歌い上げるイメージを思い浮かべ
ました。

 当時のホイットニー・ヒューストンは、地球上で最高のシンガーだと言っても過言
 ではありません。私は彼女が歌いやすい環境を作っただけですよ。

オールウェイズ・ラブ・ユーは。当時初めての全米チャートで14週連続1位という
新記録を達成。グラミー賞も受賞しました。
デイヴィッドにとっても最大のヒット作品となりました。

翌93年プロデューサーとして絶頂期を迎えたデイヴィッドは、トップアーティスト
たちを招きクリスマスアルバムを作成。
デビューまもないセリーヌ・デュオンもこのレコーディングに参加しました。
同じ年デイヴィッドはセリーヌ・ディオンの曲「パワーオブラブ」をプロデュース。
セリーヌはこの曲で初めて全米1位を獲得します。

96年にはこの曲が収録されたアルバムがグラミー賞を受賞。
デイヴィッドは見出したセリーヌがついにその才能を大きく開花させます、

 セリーヌは私がどんなに難しい注文をしてもこなせる素晴らしいシンガーです。
 私はいつもセリーヌのような実力のあるシンガーたちと仕事がしたいと思ってい
 ます。私がプロデュースすることで、90%ある力をさらに10%引き上げたい。
 そして偉大なシンガーに育てたい。それこそが私の生きがいなのです。

プロデューサー・デイヴィッド・フォスター。大ヒットの陰でアーティストたちを支え
世界中の人を感動させる作品をつくりあげてきました。

今夜最後にお送りするのはセリーヌ・デュオンとの共演です。
同じカナダ出身でデイヴィッドが発掘し共に歩んできた二人の貴重なコラボレーションを
たっぷりとご覧ください。

コメント(4)

インタビュー以外は既出映像…ではありましたが、とても30分では振り返ることのできないのは最初からわかっておりましたので…(^^ゞ

個人的には、「スルー・ザ・ファイア」も、ゆっくり聴きたかったなぁ〜と思いました(^^♪
http://www.youtube.com/watch?v=ymuWb8xtCsc

>>妥協する人間はプロデューサーと呼ばれる資格はないんだ。

どんな仕事でも…当てはまる…当たり前のことなのでしょうが…
…クインシー・ジョーンズから…直接言われたなんて…電球


「人との出会い」と「自分を信じる気持ちの大切さ」を改めて感じた30分間でした(^^)v
on-the-roadさん
 自分は、彼の名前をこの前の聖子さんのSONGSで初めて知りました。
 曲はほとんど知っていますが、プロデューサーまでは気にとめていません
 でした。Mr.デイヴィッド・・ごめんなさいって感じです。

 シカゴはずっと「長い夜」のイメージがあったので
 「素直になれなくて」が発表された時には、その曲調の違いにとても驚き
 ました。もちろんとてもイイ曲だなという意味でです。
 その影でこんなドラマがあったなんて今回初めて知りました。
 プロデューサーの力って大きいのだなと改めて感じました。

 ご紹介のChaka Khan・・名前は聴いたことがあるというくらいの感じで
 それもごめんなさいですね。
 いろんなアーティストのプロデュースをしているのですね。
 「アース・ソング」もそうだったのかと、初めて知って驚きました。

 ほんとい新しい発見、驚きの30分間でした(^^
ご無沙汰しております。


この回のSONGSは観たかったですねぇー。
放送があるのは知っていたのですが、そのまま日付が過ぎてしまってました(苦笑


90年代のアメリカンポップスのヒット作は、ほとんど彼のプロデュースだと言っていいほど多数ありますからね。
ぼくも青春時代はお世話になりましたから!
良き思い出です☆
dai. さん
 コメントありがとうございます。
 今回の放送では、今まで自分は、いかに表面的なSingerたちばかりを見ていたの
 だろうかと思い知らされました。
 今更ながらですが、プロデューサーの存在の大きさを知ることができ、とても
 素晴らしい30分間でした。

 dai.さんは、実際にセリーヌ・デュオンのコンサートにも行かれたんですもんね。
 彼女の生歌、いつか自分も聴きに行きたいと思っています(^^

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