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メキシコ現代美術シーンコミュのメキシコ美術・点鬼簿

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 メキシコ美術の批評&評論界では、長老格が健在で、若手があまり目立たない。もちろん存在しているし、地道に活動してはいるけれど。

 そんな若手のなかにOlivier Debroise(オリビエル・デブロイズ)がいる。
 そのオリビエル氏、一昨晩、心筋梗塞で急死したという。
 1952年生まれ、それこそ働き盛り(若手といって語弊があっただろうか?)。

 このひと、かつての普及版レクテュラス・メヒカナス・シリーズでは、ディエゴ・リベラのパリはモンパルナス時代のことを扱った著書もあり、著述家、キュレーター、美術評論家、はては小説家としてもいくつか作品を刊行している。
 
 UNAMの美術関係の要職もこなし、カリフォルニア大学で今季から美術講座を受け持つことになっていて、その打ち合わせで米国から戻ってきた翌日のことであった。
 そう、周囲は働きすぎであったともいう。

 それほどこのひとに留意してきたわけではないので、出生がエルサレムにて、そして国籍がフランスというのも意外であった。
 母親と姉はバルセロナ在住。

 なんとも早すぎる死。。。(他人のことは言ってられないかもしれないが)


http://www.jornada.unam.mx/2008/05/08/index.php?section=cultura&article=a03n1cul

コメント(10)

 レメディオス・バロを陰に陽に支えてきたWalter Gruenが九十四歳で亡くなる。

 このひとは、1952年から死の1963年までバロの伴侶であり、しかも文化プロモーターの役をこなしてきた。

 バロ自身の姪との著作権継承問題が一時は世間の注目を集めはしたが、2000年にバロの計39点の作品をメキシコ人民に贈呈したことによって(管理はメキシコ近代美術館)名声をえた。

 このウオルター・グルエン氏は数奇な生をたどってきたのを今回、あらためて知る。

 もともとオーストリア人であるが、ユダヤ人でもあり、医学を修めてはいたものの、ナチスドイツのオーストリア併合にて出国、それ以前に知り合った同窓の女性を最初の妻にする。

 スペインの人民戦線にかかわるが逮捕され、ゲシュタポの手にも落ち、ドイツの強制収容所(ダッソー等)におくられる。
 
 本人はあまり語りたくなかったことだとはいうものの、奇跡的に収容所から戻り、フランスを経由して、メキシコに渡る。

 メキシコに渡った時点では、メキシコのことはBruno Travenの本のことぐらいしか知らなかったという。

 メキシコシティに到着して、しばらくしてレメディオス・バロを知るが、バロはベネズエラに去る。

 そんななか、ベラクルスの事故にて妻を溺死で喪う。

 シティにてグルエン氏は、自動車タイヤの営業に従事し、その一方で上司を説得し、オフィスの一角にてクラシック音楽のレコードを販売しはじめる。

 このマルゴリン・ホールとは、メキシコのクラシック音楽普及史において、欠かすことのできないもの。

 バロはやがてベネズエラから戻り、グルエン氏と親しさをまし、ついには伴侶となる。

 グルエン氏は、バロが絵画制作以外のことで身をやつさないように、公私にわたって尽くし、バロの多産な制作はグルエン氏なしでは語れないという。

 バロの死後、グルエン氏は三人目の奥さんとむすばれる。
 しかし、一人娘をのちに交通事故で喪う。
 
 メキシコへのバロの絵画の贈呈は、この一人娘の名がつけられたコレクションになっている。


http://www.jornada.unam.mx/2008/11/01/index.php?section=cultura&article=a05n1cul

http://www.jornada.unam.mx/2008/11/02/index.php?section=opinion&article=a05a1cul
 Fany Rabelが八十六歳にて死去。
 ディエゴ・リベラやフリーダの弟子であり、いわゆる「Los Fridos」のひとり。
 ポーランドにて生まれ、16歳の年にメキシコに家族とともに到着、ユダヤ系の家系。
 苦学しながら絵を学んだらしい。
 1945年にはじめて個展を開いたときには、フリーダが紹介テキストを綴った。

 メキシコのつらい状況の子どもたちを好んで描いた。
 またメキシコシティの荒廃化をも描いた。

 ディエゴ・リベラがソカロの前の国立宮殿の壁画を制作したときに助手として働き、シケイロスとも働いた。
 人類学博物館のRonda en el tiempoも制作。

 うえの絵は、1.太陽、陰、孤独、2.農民、3.子ども
 スペインはバレンシア生まれ、1951年にメキシコを訪れて以来、メキシコに帰化し、美しい絵画を一心に描き続けたVicente Gandia(ビセンテ・ガンディア)がクエルナバカの自宅にて昨日、74歳で死去。

 作品はニューヨーク近代美術館をはじめ世界各地で展示され、画業のみに専念した画家であった。

 写真は、1.Bodegón con fondo vegetal,2.Agapanthus、3. Still life with table and flowers

http://www.jornada.unam.mx/2009/03/07/index.php?section=cultura&article=a05n2cul
あのディエゴリベラの、未認知の娘、亡くなる。
名はMarika、舞踏家であり、女優でもあったそうで、一月十四日に九十歳で亡くなる。
母親はロシア出身のキュビズム画家Marevna Vorobieff。
Marikaは当時Angelina Beloffを奥さんにしていて、Marevnaのほうは、スーチンと交わりを保っていた模様で、そのためかディエゴに認知されず。
ディエゴとこの娘とのあいだには、いろいろ複雑な話があった模様。


La bailarina y actriz fue procreada por el pintor y su colega rusa Marevna Vorobieff

Murió Marika, hija no reconocida de Diego Rivera
De la Redacción

Periódico La Jornada
Miércoles 3 de febrero de 2010, p. 3
Sin haber sido reconocida por Diego Rivera como su hija, la bailarina y actriz Marika falleció en Londres a los 90 años de edad el pasado 14 de enero, informó su hijo David Phillips.

Marika, hija del muralista mexicano y de la pintora cubista de origen ruso Marevna Vorobieff, nació en París en 1919, cuando en ese momento el pintor estaba casado con Angelina Beloff.

La madre de Marika es considerada la primera mujer cubista y entre sus obras más destacadas figura el mural que pintó en 1962, Homenaje a mis amigos de París, en el que aparecen la misma Marika, Rivera, el pintor Chaim Soutine (con el que Marevna mantuvo una relación), Amedeo Modigliani y otros artistas con los que se relacionó en París, según publicaron ayer diversos portales en Internet.
La hija de Rivera participó en películas con Julie Christie (Darling) o bajo las órdenes de Federico Fellini (Casanova).

En 1957, cuando Diego Rivera estaba a punto de morir, le pidió que viajara a México, pero Marika rechazó la invitación.

La razón es que en varias ocasiones Marika escribió cartas y envió fotografías a Rivera, con la esperanza de ablandar mi viejo y duro corazón. Nunca le respondí. El pasado era el pasado. Aun en el remotísimo caso de que yo fuera su padre, ni ella ni Marevna me necesitaban, escribió alguna vez el muralista.

La ceremonia fúnebre está prevista para el viernes en la iglesia St. Edward, en Athelhampton, dijo David Phillips.


http://www.jornada.unam.mx/2010/02/03/index.php?section=cultura&article=a03n2cul
 アイルランド出身でのちにメキシコに帰化したPhil Kelly(1950)が8月3日に死去。
 色彩と線との爆発ないし沸騰が特徴で、好んでメキシコシティの都市風景を描く。

 職もはじめは転々とし、二十年前になってようやくシティにての個展にいたる。


http://www.jornada.unam.mx/2010/08/04/index.php?section=cultura&article=a04n1cul
 1934年生まれのHelen Escobedoが9月16日に死去。
 インスタレーションやら文化プロモーターとして貢献し、メキシコ近代美術館の館長もつとめる。
 その長い経歴においておおくの仕事をのこす。

 写真家のラサロ・ブランコ氏は五月四日に死去、死因は癌で、享年73歳。

 長年(42年間)、メキシコ大学の付属施設カサ・デル・ラゴにて写真市民講座を主宰。

 わたしはその講座に加わったことはなかったものの、おなじ施設でのラテンアメリカ文学読解市民講座に出席していたからよく顔をあわせていたし、知り合いが参加してもいたから、かなり身近な存在に感じていた。

 42年間、写真講座をうけもち、そのあいだ、欠席したのはたったの二回、これはメキシコではきわめて考えにくいこと。
 わたしのほうの講座は、いつも今日は先生が来るか気が気でなかった。

http://www.jornada.unam.mx/2011/05/05/cultura/a03n1cul
 今日、アルゼンチン出身のメキシコの美術評論家ラケル・ティボルが91歳で亡くなる。
 ラディカルで辛口な評論で有名、ディエゴ・リベラに好かれてフリーダが妬いたこともあるというまさしく生きた伝説的な存在であった(ディエゴの秘書であった)。
 新しい画家の能力の見極めにも功があり、ラケルのおかげで世に出られた画家も少なくない。
[1]で取り上げた、レメディオス・バロを公私にわたって支えてきたウオルター・グルエンの死去ののち、バロの絵画を含めた遺産管理は、その最後の妻、アレクサンドラ・バルソビアノが務めてきた。
 このバルソビアノ女史が今週、88歳で亡くなる。
 一人娘は以前に事故で亡くしていて、はたしてだれが遺産管理を務めるのか、いまのところ不明。
 以前、訴訟になっていたバロの姪っ子とのトラブルも再燃することも考えられる。

http://www.jornada.unam.mx/2015/10/30/cultura/a04n2cul

ディエゴ・リベラの弟子のひとりであり、最後の壁画家のひとりと目されてきた、アントニオ・ゴンサレス・オロスコが亡くなる(1933年生まれ)。

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