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カンボジア!コミュのもし内戦無かりせば!

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今日はポルポトから解放記念日です。

1975年〜1979年まで、ポルポトによって悪い政治がおこなわれました。
1979年、それが終わりました。
詳しくは呼んでください。

その様子を知り合いに日本人が書いてくれました。
みんなさんちょっと長いけどどうぞお読みください。


あるカンボジア人の一人は、「もしカンボジアで過去の内戦がなかったら、隣国のタイやベトナムと同じくらい、いやそれ以上に今は発展しています。」と言い切ります。
私は、いつも「この国にもし内戦が起こっていなかったら?」一体この国はどんな国になっていたのだろう、と、いつも思いを巡らせています。

日本語を学ぶ生徒たちにもよく聞くことがあるんですが、総じて上と同じようなことを口にします。
無理もないことです。
かつて、アンコール時代がその栄華を極めていた9世紀から13世紀ごろには、現在のタイはおろか、ベトナム・ラオスなどインドシナ半島一体は、すべて現カンボジアの領土だったのです。
そして、世界遺産として現在なお当時の面影を偲ばせてくれる遺跡の数々はそのことを物語っています。
その過去の夢だけは、今のカンボジアの人々にとって、忘れようにも忘れられない大きな遺産となっているのです。

1863年から1953年、90年に亘ったフランスによる植民地時代に遡る話となります。
*1946年〜1953年(7年間)
インドシナ戦争(旧フランス領インドシナ=ベトナム・カンボジア・ラオスの独立を巡るベトナム民主共和国軍とフランス軍との戦争)を経て、
*1953年
に独立を果たし、1954年にジュネーブ休戦協定にてインドシナ戦争終結。その後、
*1960年
ベトナムでは、”南ベトナム民族解放戦線=べトコン”が結成され、ベトナム戦争が勃発したわけです。
解放戦線側は、南ベトナム軍とアメリカ軍に勝利し、9年間に及ぶ長い戦いは、
*1969年
に終わり、ベトナムでは臨時革命政府が樹立され、
*1973年
両者は、和平協定を結び、その後米軍の撤退と言う結果になったわけです。
*1975年
南ベトナム政府は崩壊し、今でも鮮明に覚えていますが、サイゴン=現在のホーチミンの南べトナム大統領府に北の戦車軍団が入り、北ベトナム国旗を高々と掲げて勝利を祝していました。そして、
*1976年
南北ベトナムは統一されたのです。 】
一方、カンボジアでは、
*1970年
クーデターが発生し、王政から共和制に移行。
*1975年
からは、《ポルポトによる恐怖支配》が起こるのです。
ポルポトの時代は、
*1975年〜1979年
の4年間に及びますが、
*1976年
ポルポトによって共産主義の「民主カンボジア」が設立され、彼は書記長に就任。
ポル・ポトは、1928年生===1998年没、享年70歳。書記長就任時は48歳。
その間、知識階級(学校教師、学者etc)・資産階級(地主や、大金持ち etc)、
その家族(一族)などをも含め、170万人とも200万人とも言われる自国民を、大量大虐殺したのです。

(処刑場は、プノンペン郊外の、現在は「キリングフィールド」と呼ばれるところにあり、そこに大きな穴がいくつも掘られ、穴の前に座らされて、首路切られたり、体を刺されたり、老若男女を問わず、虐殺対象の人たちは非情にも葬り去られていったのです。
私も二度訪れたことがありますが、近くには大きな池もあり、その池にも当時は無数の遺体が浮かんでいたとのこと。
今でも思い浮かぶのは、4年前に、インドシナ4国を一か月かけて巡るツアーに参加したときのこと。
このときのガイドは、今まで出会ったガイドの中では特別優秀で、彼の説明は迫真に迫り
英語による説明も、私のヒヤリング力では十分に理解することができなかったのですが
彼の迫力に圧倒され、私でも、話のポイントポイントのところでは、彼の説明を理解できたのです。
ツアーの中に25歳くらいのイギリス人女性がいました。
彼女は、そのガイドの説明を聞いているうちに突然泣き出し、嗚咽とともに近くの椅子に座り込んでしまったのです。この虐殺のあまりの悲惨さに、自分を抑え切れなかったのでしょう。
この「キリングフィールド」と呼ばれる、虐殺された人々の骨〈主に頭蓋骨〉を納骨してある施設は、カンボジアの各地にあり、プノンペンの「キリングフィールド」が最大ですが、地方では、主に「お寺の中」にあって、大事に納められています。)
又、処刑されなかった農民などでも”生かさず、殺さず”の圧制のもと、田畑や灌漑用水路、水耕の為の大きな池造り等々の過酷な強制労働に従事させられ、それによる死亡や、栄養失調などによる死亡も絶えなかったとのこと。

又一方、圧政の後半の
*1979年
ポルポトに対抗する”ヘン・サムリン派”を支援する、新生ベトナム軍がカンボジアに侵攻。サムリン派はカンボジア国土の大半を支配することとなり、ポルポトは失脚。新たに”カンボジア人民共和国”が樹立された結果、ポル・ポトはカンボジア北部のタイ国境に近い山岳地帯に逃げ込むことになったのです。
その結果、ふたつの政府が並立する状況が当面続いたのです。
元々ポル・ポトの資金源は、この地方で採れる宝石類が主であったと言われています。
*1991年
国連により、和平協定が締結され、長きに亘る”内戦”終結の日を迎えることとなるのです。
*1993年
シアヌークを国王に擁して、現在の新生”カンボジア王国”となるのです。
その後、シアヌークの息子ラナリットが率いる”民族統一戦線=フンシンペック党”と
フン・セン(旧、ヘン・サムリン派)率いるカンボジア人民党が連立政権を樹立。
*1997年
しかしながら、第一首相であったラナリットは政争に破れ、第二首相であったフン・セン率いる人民党が
*1998年
7月の総選挙で勝利し、フン・セン首相が名実ともに実権を掌握することとなったのです。
更に、
*2003年
の7月の選挙でも、フン・セン人民党が更に議席を伸ばし、確固たる現在の地位を築いています。
*2004年
シアヌーク退位。やはり息子の"シハモニ"が新国王に即位し現在に至っています。
*2001年
8月には、カンボジア上下両院で”ポルポト派”による数々の悪行を裁く為の特別法廷の設置法が可決され、
*2003年
5月に、国連総会で特別法廷設置議決案が採択されています。
それらに基づき、
*2009年3月には、プノンペン郊外で”ポル・ポト政権時代”の生き残りの元幹部たちを裁く特別法廷の本格審理が始まっています。4年間に亘るポル・ポト政権下での拷問や処刑・強制移住・強制労働などの実態が果たしてどこまで解明されるのか?

尤も、ベトナム戦争然り、
40年近くも前の事件ですので、ここカンボジアに於いてもことの、詳細を知る人たちも、特に若い世代の人たちの中には関心も薄く、われわれ日本人も50歳代以降の人たちしか印象に残っている人はいないのではないでしょうか?

この裁判で、一番注目されている中心人物がいます。
名前は通称”ドゥイ”。政治犯収容所”S21”の元所長という人物です。
処刑された人の中には、カンボジア人のみならず、ニュージーランド人男性もいます。
その家族も証言台に立ち、悲しみのなかで、涙ながらに実態解明を”ドゥイ”に迫り、裁判官に訴えている様子の記事を見ることができます。
他にも多くの外国人もいたのではないでしょうか。
一方”ドゥイ”は「処刑のすべての責任は自分にある」と認めつつも、のらりくらりと犯した罪の弁解ともとられる発言が目立つようです。
当時の状況では、ある面、彼への同情の余地もあるのかもしれませんが、どこまで本心を曝け出せるのか?注目されるところです。
この特別法廷は、いよいよ大詰めを迎えており2009年の11月には結審した模様。
2010年早々にも判決が下されるとのことです。
インターネットや新聞などによる報道から目を離せません。

1975年頃から、1991年頃まで16年間近くに亘って続いた”内戦状態”が、
〈もし無かったら〉------。
といつも思うのです。



特別法廷に対しても、”今更当時のことを掘り起こしてどうするんだ!”、”もう、そっとしておいてくれ!”との声もあるようですが-------。
世界はそれを許さないのです。今以上に解明されなければ---------。

** 今日、1月7日はポル・ポト派による支配が名実ともに崩壊した日。
   カンボジアでは祝日です。1979年のことです **


シェムリアップの観光ツアーガイドアチョより

コメント(17)

初めまして。

トピック興味深く拝見させていただきました。

3年前からカミさんの影響で東南アジアを旅することが趣味となり、昨年初めてプノンペンを訪れS21にも行き、カンボジアの歴史をリアルに学びました。

確かにあの時がなければ今のカンボジアはまた違った国となっていたものと思われます。
あの4年間はカンボジアの人々にとって決して明るい年月ではなく、むしろカンボジアという国の歩みを遅らせた日々ではなかったのではあろうかと・・・。

しかし歴史というものは、その時代があって今があるというものであると考えます。
深くは違いがありますが、日本も過去には罪のない人々が多く世を去っています。
それは世界どの国にも少なからず同じような過去があるのではないかと・・・。

今を生きる我々はその過ちを繰り返さない。
そして特定の1人を責めても、何の罪もない命は帰って来ないということだと思います。

そしてその諸先輩方の死を無駄なものにせず、今生きている自分たちがより良い国を創るモラルを持つことが大事なのではないでしょうか。

僕はそう思います。


生意気な長文失礼しました。



尊い命を失った方々に黙とうを奉げます。
 アチョさん、いい問題提起をありがとうございます。

 僕は日本人ですが、少なからず、カンボジアの政治状況については、感じるところがあります。ポルポト政権の罪については、「知り合いの日本人」の方が書かれていることが一般的であると思います。

 しかし、カンボジアの民衆はポルポトを支持したのです。それには、ポルポト以前のロン・ノル政権の腐敗と堕落、国家の金を盗むやり口が民衆に耐え切れなかったのではないでしょうか?それは1970年から1975年4月12日の前日まで続いたのです。「知り合いの日本人」の方が書かれた文章には、ロンノルのロの字もありませんね。

 この点を欠落したまま、カンボジアの内戦を語ることはできません。ポルポトがなぜ、民衆の支持を得たのか。その秘密を解くためには、一般的に語れていないことを知る必要があります。カンボジアの現人民党政権は、ポルポトを悪魔として描くことで利益を得ている政権です。彼らにとって、都合の悪いこともはトゥール・スレイン刑務所(元高校)にも掲示されていません。

 ポルポト派が、同じ自国民を多量虐殺したことは事実です。しかし、そのポルポト派に多くの若者が惹きつけられて、軍隊に参加したことも事実なのです。僕の友人の日本人はそのことを僕に語ってくれました。「まだ、ポルポトについて、語られていないことがある」と。シェムリアップの40代、50代の農民の多くは結構、元ポルポト派だったりします。彼らに何があったのか、聞くべきではないでしょうか?

 クメール語のできない、日本人が書くべきことではなかったかもしれません。一つの視点として読んでいただければ幸いです。
内戦は75年からじゃないと思いますが、仮にフランスから独立後内戦がなかったとすれば、シアヌーク様の失政で国は相当領土を減らしてたと思います。

タイやベトナム以上に発展していたという仮定ですが、シアヌーク様ではまずタイのようなバランスのとれた外交はできなかったでしょうし、そもそもインドシナを支配した後きっちりタイに攻められました。
内戦がなければおそらく拠らば大樹の影的な中国あたりの属国か、北朝鮮のようになっていたんじゃないかと思います。

しかしそれでも内戦がなかった方が良いのは間違いないと思います。悲しいことです。
アチョさん、問題提起をありがとうございます。

私ももし内戦がなかったら、と思いを馳せるのを禁じえません。
プレア・ヴィヘア寺院から地平線まで続くカンボジアの大地を見たとき、あまりの美しさに涙が出てきました。

ジャングルとトンレサップの世界有数の豊かな恵みに溢れたカンボジア。
ポル・ポトはフランスに留学していた若い頃、カンボジアは豊かな農業国になるべきだ、と書いています。
黒服に赤いスカーフに託した夢は潰えました。
政府軍から追われる身となった彼も同じ場所から夢見たであろう、豊かなカンボジアの面影を見た気がしました。

この美しい自然と豊穣な歴史と勤勉で優しい国民のいるカンボジアが、貧困や地雷、人身売買やエイズの脅威に喘いでいる現状を嘆かずにはいられません。
内戦がもたらした罪は計り知れません。

しんちゃんさんが興味深い指摘をされています。
ナチスのホロコーストもルワンダ内戦も同じことで、ジェノサイドというものは多数派が少数派を排他する行為の延長なのです。
「こいつがいなくなればみんなの利益になる」という論理です。
皆さんも心当たりがありませんか?
マオイズムに傾倒していたポル・ポトは一部の知識階級や資産階級が他の大多数の貧しい国民の格好の憎しみの的になることを知っていて、それを上手く利用したのでしょう。
ロン・ノルの件も含めて当時のカンボジア国民ポル・ポトを熱狂的に支持する理由があったのだと思います。自国民の4分の1を虐殺したのは他ならぬカンボジア国民なのですから。

ポル・ポトはもちろん厳しく糾弾されるべきですが、その台頭を許してしまった背景も反省されるべきでしょう。時間がかかるとは思いますが。

犠牲者へご冥福を祈ります。
アチョ、お久ぶり^^素敵なトピックをありがとう。
私もS21には行きました。行くまでポル・ポトのことを曖昧に調べて行ったので、とにかく衝撃的でした。アウシュヴィッツにも行きましたが、カンボジアの手つかずの生々しさは想像を絶するもので、涙をこらえるのに必死だったのよく覚えています。
最近のこととは思えないほど残虐的で、当時にカンボジア人にとっては「魔の時代」だったんではないでしょうか。
もし、ポル・ポト政権がなかったら・・・隣国のタイやベトナムのようになっていたか、といえば難しい問題ですね。少なからず今のカンボジアのような状況は有り得ないと思いますし、もっと教育的な面で発展はしていったのではないかと思います。多くの教師が虐殺されたのは、今のカンボジアには大打撃で、一部の富裕層を除いて極貧生活の根本にあるのはやはりそこなんではないでしょうか。
ポル・ポト政権が終わってからだいぶ経ちますが、なぜ立て直しがきかないのですかね。ポル・ポト政権時代、私が生まれていたわけではありませんが、カンボジアに行くたびに一つの国としての発展が異常に遅い気がしてなりません。もちろん、虐殺が大きな原因であることはわかりますが、日本はカンボジアに対して一番資金援助もしてますし、他の国からも援助されているはずです。カンボジア国民が一丸となり、立て直しを図った時期もありますよね。
田舎らしさが残るカンボジアは大好きですが、子どもの貧困問題は早く良くなってほしいです。

S21に行って改めて「知る」ということが大切だと気づかされました。
はじめまして。
たいへん興味深い提起で、感銘をうけました。
私もカンボジアと関わって16年ほどになりますが、初めて訪問した際にはもうすでに荒廃してしまっていたカンボジアがありました。
昨年、現地でたまたま「Cambodia 1965」というDVDを見つけ、買ってきました。1965年にフランスの放送局が編集したビデオをDVDに焼いたものです。
そこに映っていたものは、オリンピック招致運動のためのすばらしいオランピックスタジアム、プノンペン大学の高度に進んだ授業と設備、プノンペン医科大や病院での近代化した手術風景、そして自国生産をしている自動車タイヤの工場や金属加工工場、シハヌークビルの大プールを備えた高級ホテル等々でした。
私が初めて訪れた頃には、オランピックスタジアムは建物が崩れ、シハヌークビルのホテルは廃墟となっていました。また、プノンペン大学や病院にも設備が揃っておらず、顕微鏡を贈呈に行ったこともありました。そしてあれだけの規模を持った工場の設備や建物はどこに消えてしまったのでしょう。
恥ずかしい話ながら、私もこのDVDを見るまでは、当時(45年前。東京オリンピックの翌年です。)のカンボジアがこれほどに発展していたことを知りませんでした。
ポルポト時代の破壊がいかに凄まじかったのか、改めて考えさせられる映像でした。
”内戦状態”が、 〈もし無かったら〉------。
おそらくインドシナをリードする立場の国になっていたのではないかと思います。
ポルポト裁判については、政府の引き延ばしのスタンスから見て、現政府にとっても不都合なことが多く潜んでいるように思います。
本当に事実が解明できるのかどうかは判断つきませんが、
カンボジアの発展(必ずしも工業発展だけが良いとは言えませんが)を阻害した事実とたくさんの人々の大切な命を抹殺したことは大きく糾弾されなければなりません。
しかし悲しい歴史に拘泥せず、未来に向かって人々が幸せな生活を送れる国になっていくよう願ってやみません。
‡KaY‡ さん

こんなところで、カンボジアの人の生の声が聞けるのはとてもいいですね。

現在の日本に生まれ育った人たちにとっては実体験がないし、カンボジアなんてどこにあるのかという人も多いのですが(という当方はタイにいますが)、‡KaY‡ さんのような人たちやこのコミュにいる人たちも含めて、後世まで語り継いでいってくれたらと思います。また、もっと当時の事実をたくさん拾い出せるようになったらね。

ポル・ポト政権がなかったら・・

血なまぐさい歴史はもちろんないほうがいいのですが、ばら色のような幻想は禁物かと思います。ただし、知識のある人たちをたくさんなくしてしまったことと国土が荒廃してしまったことは、当時のカンボジアの未来にとってすごく不幸なことだったと思います。
‡KaY‡さん>

そうですね。‡KaY‡さんはカンボジア人ですよね。。。
内戦時代に日本に行けて、こうやって今まで生きていけるからとても良かったですね。
日本も戦争があったんですが、カンボジアの内戦は本当に酷かったです。

これからカンボジアに遊びにいらっしゃるご予定の方はもし時間の余裕があれば、是非プノンペンも遊びに行って下さい。
プノンペンでの観光地は:

●キリングフィールド
●トゥールスレイン博物館
●王宮、シルバーパゴダ
●ゴミ山
●ワットプノン
●ウドン都等があります。
二日間があれば、十分回れますよ。

プノンペンの様子⇒http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1320873864&owner_id=23300764

現地ガイドより
こんにちは!
コミュニティーのみなさん!

カンボジアの内戦時代の事を沢山の方が読んで頂きまして、ありがとうございます。
本当に嬉しいです。

カンボジアと言う国はそんな事がなかったら、経済はすごく良くなっていると思います。
カンボジアはポルポト時代が終わって、31年もたちました。

僕の両親はポルポト時代に知らない同士が勝手に結婚させられました。(お見合いではありません)
その時代はみながそうでした。
でも僕の兄弟は8人も生まれました。
アチョの兄弟だけが多いのではありません。
今でもカンボジアの家族は兄弟が多いです。

本当はね、僕はポルポト時代が終わっても、平和になったとは思いません。
なぜかと言うとそのころはまだ手榴弾や銃なども、沢山残っており、まだ危険でした。
僕は2000年ごろやっと本当の平和がきたと思います。

日本の国は戦争が終わってから今まで、60年以上過ぎて大変発展して、今はすごく
良い国になりました。

60年以上前は日本は灰と一緒だったと思います。
カンボジアはこれから、日本みたいに発展する事が出来るのかなぁ!

カンボジアと言う国の名前は日本では「カボチャ」と言う事から来てるとみんなさんご存知だと思います。

昔からカンボジアと日本は繋がってたと思います。
今でもカンボジア語と日本語と同じような言葉があります。
例えば

扉→ トヴィア
棚→タヌゥ
かばん→カボゥ
噛む→カム
そっくり→ソックニァ
他の事も沢山ありますが、思い出したらまた教えますね!

僕は「ドンダケーカンボジアが大好き」と言うコミュニティーも持っています。
なのでカンボジアの事が知りたい方、好きな方はそうぞコミュニティーに参加してください。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=4676164

シェムリアップ観光ガイドの“アチョ”より






>3
誤認があるようですけど。

>シアヌーク様ではまずタイのようなバランスのとれた外交はできなかったでしょうし、

当時のシアヌークは、東西冷戦の米ソのバランスをとりながら、アメリカからの援助を引き出していました。
その裏で、ベトコンのホーチミンルートのカンボジア領通過を黙認していました。
これが綱渡り外交であり、CIA後援のロン・ノル政権樹立につながります。

はっきり言えば、シアヌークのバランス感覚は抜群、ですから、新生カンボジアの国王にもなれたわけです。

>そもそもインドシナを支配した後きっちりタイに攻められました。

これは、いつの時代の話ですか?
>5
>ロン・ノルの件も含めて当時のカンボジア国民ポル・ポトを熱狂的に支持する理由があったのだと思います。

反米・親シアヌークというのが基本にあるのでしょう。
シアヌークを追い出したロン・ノルに民衆の支持はありませんでしたから。
はじめまして。

私は学生時代ベトナムについて学ぶ機会があり
それに関連して少しだけ
カンボジアの内戦についても知ることができました。
また、プノンペンやシェムリアップを訪れ
施設だけでなく、実際親を殺された人などと話す中で
その悲惨さの一端を垣間見ることがありました。


ただ、ベトナム戦争然り、カンボジアの内戦然り
もとをただせばむしろ欧州による植民地支配
或いは冷戦が
引き金になっているような気がしてなりません。
それらがなければ、経済的にはどうか分かりませんが
現在よりも平和で文化的に豊かな社会が存続していた
そんな気がしてなりません。


(もっともベトナムの場合は
 植民地支配すら文化の肥やしにしている感がありますが)
>ソムソムナーさん

誤認はありません、仰る事は当然知っています。それを加えてもバランス感覚が無い。

独立については彼の功績といっていいでしょうが、綱渡り外交は結局どっちつかず外交です。
結果内乱を招いた側面は否定できません。
時代と周辺国の事情から内乱自体は仕方ないことだと考えても、その後彼が政権に固執することで
内乱を拡大させたこと、また外交で大きく失敗したことを考えれば、バランス感覚はないでしょう。

具体的にはクーデーターを招いたこと、現代的な議会政治を作れなかったこと、
その後ポルポトの進出を招いたこと、速やかに国際政治の場に話を持ち込めなかったこと、
現在でも東側諸国に接近しすぎていること、領土を減らしていること、国家利権を失ったこと
これらは彼の失政の罪といって良いと思います。


>そもそもインドシナを支配した後きっちりタイに攻められました。

インドシナ支配がいつやねんという疑問はありますが、チャンパ降伏と考えて12世紀。
その後の13-14世紀のアユタヤ朝の侵攻を意図してきっちり攻められたと書きました。
その後もタイによるカンボジア領割譲やらシアヌークによるカンボジア領のベトナム割譲の密約やら
(本人は認めてないけど)、ずっと侵奪されてきてますよね。
>15
>それを加えてもバランス感覚が無い。
>綱渡り外交は結局どっちつかず外交です。

矛盾していますよ。
どっちかにつく外交なら、バランスではないでしょう。

>時代と周辺国の事情から内乱自体は仕方ないことだと考えても、その後、彼が政権に固執することで内乱を拡大させたこと、また外交で大きく失敗したことを考えれば、バランス感覚はないでしょう。

政権に固執というのは、具体的にはどういうこと?
ポルポトと共闘せずに、ヘンサムリンと和解すべきということ?
>どっちかにつく外交なら、バランスではないでしょう。

矛盾というか、バランスってなんやねんということです。常に中道でいることはバランスではありません。
外交のバランスと書きましたが、どっちともうまくやるのがバランスでなく、
政治を安定させるための最善の外交がバランスのとれた外交です。
仮にどちらかにつくことで政治が安定するならそれがバランスでしょう。
常に中間でいるのでなく、国内の政治状況を見ながら常に安定点に向かって外交の舵を切るべき、ということです。

しつこいようですが、当初中道を貫き両陣営から援助を引き出し、ベトナムに比べ戦火をできるだけ免れたのは功績でしょう。
ただし、タイと比較してとなると、話は異なります。そうやって考えると、どっちつかずという意味も明確です。
またクーデター後の外交は当にバランスを失っているでしょう。

>政権に固執というのは、具体的にはどういうこと?

具体的に言うとキリがありません。生涯を通して政治への固執が強すぎでしょう。
サンクムの存在自体が彼の権力を高めるため政治的に矛盾した組織でしたし、
後世におけるポルポト派、中国や北朝鮮などとの関係もそうです。
ヘン・サムリンとの和解は一つのアイデアでしょうが、それ以外にも選択肢はある中で、
結局は最悪のオプションを選んだと思います。

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