ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

聖書研究 福音派版コミュのヨハネ5.19-24

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
ヨハネ5.19-24

1. 序論
   最近、インターネットで神は愛なる方であるから、主イエスを信じる信じないは関係ない。という人がいました。果たして本当にそうなんでしょうか? 主イエスを信じるように教えるのは教会が勝手に作り上げている教義なのでしょうか?イエス様ご自身はどういっているのでしょうか。今日の箇所から御言葉を聞いてみたいと思います。

2. 文脈
 今日の箇所は主イエスが安息日にベテスダの池で病人を癒された場面から続く箇所である。このベテスダでの癒しは主イエスがユダヤ人たちに殺意を抱かせる切欠のようにこのヨハネの福音書で描かれている。
 主イエスは病人を癒された。ところが、それをなされた日は安息日であった。病人を床と一緒に運ぶことはユダヤ人の間でも許されていることであったが、床だけを運ぶことは許されていなかった。しかし、主イエスは癒された後に「床を取り上げて歩きなさい」と言われたので、この元病人はそれに従い、それによって主イエスは安息日を軽んじる者として迫害されるようになった。(5:16)
 しかし、ユダヤ人たちに殺意を抱かせたのは寧ろこの業自体ではなく、主イエスの「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」という言葉であった。ヨハネはユダヤ人たちの殺意を18節で明確に説明している。

このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

 旧約聖書でもイスラエル民族自身を神の子として扱うことはあるが、ここで主イエスがユダヤ人たちの殺意を買ったのは、神と等しい子としたからであった。聖書によれば人が罪を犯すそもそもの発端は、蛇がエバを神と等しくなれると誘惑し、エバがその誘惑に負けてしまったからである。人が神と同等であると主張するなど、あってはならないことであるし、到底許されることではなかった。

 私たちは主イエスの十字架以降に生きているからこそ、主イエスを神の子と受け入れ、そのことがわからなかったユダヤ人たちは愚かであったと思うかもしれない。しかし、もし当時に生きていたら「このイエスという人物は自分を神と同等に置き、傲慢になり、神と一緒にいるどころか、寧ろ最も神から離れた者ではないか!」と非難したのではないだろうか。

 主イエスはそのようなユダヤ人達の心境を知りつつ、ご自分と父なる神との関係、ご自分の役割と、そのことばを受け取る者がどのようになるかを解き明かされたのである。

3. 解釈
父と子の関係性
 「子は・・・行うことができません。」
   主イエスは人が神の権威を忘れ、傲慢になったゆえに、自らの力が神と等しいものであることを示そうとして、病人を安息日に癒されたのであろうか?主イエスは「そうではない」と言う。あの業は主イエスが父(神)がしておられることを見て行った結果であり、ご自身は寧ろ自分からは一切のことをすることができない。と言われているのである。この「できない」というのは、能力的限界の故にできない。というのではなく、主イエスがご自身の意思によって父なる神の御業を見て行う以外はしないと制約を決められていることを意味する。これは神に対して傲慢に高ぶっている姿勢では到底ありえない。寧ろ最もへりくだった姿勢であるということができるであろう。
   つまり、どうゆうことであるのか。17節の主イエスがユダヤ人達の殺意を買った、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」ということば通りに主イエスが癒しの御業をなされて、それによってご自身が神と等しい存在であることが示されたのであるならば、それはイエス自身が自分からそのように表明されたわけではなく、父なる神がそのように行われたのである。 
   ここには主イエスと父なる神の実に注目すべき関係性が見て取れる。それは主イエスにとって父なる神はその御業を「見て行える」関係にあった。人が霊である神の業を見て、自分の全ての言行をその実業の制約の中に留めることができるであろうか? 罪という神との間に大きな隔たりを持つ人にはそのような関係を持つことはできない。しかし、主イエスはご自身と神は「見て行える」関係であり、その関係性を父、子と表下されているのである。

 「父がなさる・・・同様に行う」
 主イエスと父なる神の関係は、神の御業の制約の中に留めるという消極的な観点からだけではなく、神がなさることを何でも同様におこなう。という積極的観点からも言われている。
   ここで言う。「同様に行う」とは、神の御業を模倣するという意味合いではない。全く同じことを行うということである。主イエスと神の関係は罪による隔たりがない以上の関係であり、一体の関係なのである。それにも関わらず主イエスは神を父とし、ご自分を子としていわれ別々の人格を持った存在として言い表されている。

 「子にお示しになる」
   主イエスと神の関係は、ただ主イエス側から神を見るだけでなく、神が主イエスにご自分の御業を積極的に示される関係である。なぜ?、それは父なる神が主イエスを愛しておられるからである。
 実はこの「愛して」ということばは、普段聖書で神の愛を表すのに用いられるアガパオウというギリシャ語ではなく、フィレオウという親か子を愛するときに用いられる言葉が用いられている。よく、アガペーは神の愛、フィレオやエロスは人の愛、といった言い方が教会ではされるが、ここで著者ヨハネは神から主イエスに注がれる愛は人の愛であったということを言いたいわけではない。主イエスを信じるものには神の子とされる特権を与えられている。(1:12)そして、そのように世(人)を愛される神の愛、例えば有名な3:16の御言葉の「愛された」という言葉はアガパオウである。神から人へ注がれる愛はたとえ神の子とされるように選ばれた人たちであってもアガペーである。それにも関わらず、ここで主イエスが神に愛されることをフィレオウで書かれているのは、父なる神にとって主イエスがまさに子であったことを示しているのではないだろうか。主イエスを信じる者は神の子とされる。しかし、それは神との養子縁組である。主イエスと父なる神の関係はそれとは違う。イエスは神にとって実子であり神と人の関係以上に親密な関係であった。そのような関係の愛ゆえに父なる神は子なる主イエスに対してご自分のなさることを示されるのである。

このように神と私達人にはできないほど深い関係にある主イエスが少し預言的なことを言われる。「あなたがたが驚き怪しむために、これ(ベテスダの癒し)より、さらに大きな神の業が子に示される」というのである。その大きな神の業が主イエスに与えられた使命であり、役割である。

子のゆだねられた役割
 神のさらに大きな業、それは子によってなされる業であり、大きく分けて二つあった。一つは「いのちを与えること」であり、もう一つは「さばき」である。

 「いのちを与える」
 旧約聖書ではいのちを与えるというのは、神にのみ行使できる業である。しかし、主イエスは父なる神がいのちを与えるように、子もいのちを与えるといわれる。しかも、与えたいと思う者にである。子の業、主イエスの業は父なる神の御業の中に制約されていると先にいいながら、与えたいと思う者にいのちを与える。父と子の同一性があるからこその言葉である。
   父なる神な主イエスにしめされた大きな業の一つは、主イエスが生かしたいと思ったものを、今、生かすことであった。

 「さばき」
   また、父なる神は子に裁きを委ねられた。父なる神は裁きを子によってなそうとされているのである。ユダヤ人はいずれ終わりの日にすべての人裁き主として父なる神を理解していた。しかし、父なる神から裁きをゆだねられた子なるイエス・キリストがこの世にこられたということは、救い主がこられたことであるが、裁きもまた御子と共にこの世に現臨したということである。
   しかも、父なる神が子なる主イエスに裁きをゆだねられたのは、子なる主イエスが敬われるためであった。このことは神の驚くべき御業の一つであるため、この子なる主イエスを敬わない者は乳なる神をも敬わないことに通じるというのである。
   ここでも、主イエスと神の同一性が強く強調されている。

子を信じ敬う者の今
 そして、主イエスはいままでの結論とも言える言葉をつげられる。
「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」
 19節から22節までの主イエスの言葉を聞いて、主イエスを使わされた神を信じるということは、主イエスにいのちがあり、さばきが委ねられているという神の御業を信じることである。
 そして、まさにこの瞬間に信じるものにいのちが与えられ、すべてのものにさばきが成されたのである。いのちが与えられるか、与えられないかを分けること、これがさばきである。主イエスがこの世にこられ、そして、この神の御業が語られなければ人に、いのちが与えられるか、いのちが与えられないかは、わからなかった。しかし、主イエスがこのように神の業を語られ、人が信じるか、信じないかの二つに一つを取るしかなくなったとき、それによっていのちを与えられる者といのちを与えられない者とが明確に分けられ、さばかれたのである。

 この「いのち」とはなんであろうか?
 24節では「永遠のいのち」という言葉になっている。そして、永遠のいのちとはさばきに会うことのない「いのち」である。ここでいう裁きとは単純に分けるという意味だけではなく、神に逆らうものとして判決されるということである。つまり、「永遠のいのち」とは、全く一切、神に逆らうものとして判決されない「いのち」なのである。
 注目すべきは、「死からいのちに移っているのです。」ということばである。この言葉は当然であるが、肉体的には生きている人たち、主イエスに殺意を抱くユダヤ人たちに語られている。しかし、信じることによって持つ永遠のいのちは、死から移ってくるものであり、全く新しいいのちである。当然、肉体的ないのちに限定されたいのちではない。寧ろ、罪によってもたらされた人の霊的死の状態から新しくされる霊的いのちである。
 しかも、ここで主イエスは「信じる者は死からいのちへ移るであろう」とは言われなかった。「移っている」と言われている。主イエスによって与えられる「いのち」は裁きの日に神に逆らうものとして判決されない「いのち」であるばかりか、信じたその瞬間からもたらされるものなのである。

4. 結論
主イエスは、ご自身を認めず、寧ろ殺そうとする者に、神の救いの御業を語り、決断を求められます。「あなたは私のことばを聞いて、いのちを与え、全てを裁くために私を遣わした神を信じて、今この瞬間から神に逆らうものと判決されない永遠のいのちを得ますか?」とそう語りかけてくださっています。
あなたはこの御言葉を聞いて信じますか?

参考文献
・ 新聖書注解 いのちのことば社
・ 聖恵・聖書注解シリーズ3、ヨハネ福音書(中)、レオンモリス、中村保夫訳、聖恵出版
・ ヨハネ福音書講解、上巻、榊原康夫著、小峰書店
・ ライル福音書講解 ヨハネ ?、ジョン・c・ライル、いのちのことば社
・ THE GOSPEL OF JOHN, F.F.BRUCE
・ THE GOPEL ACCORDING TO ST.JOHN An Introduction with commentary and notes on the Greek Text, Second Edition, C.K.Barrett

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

聖書研究 福音派版 更新情報

聖書研究 福音派版のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。