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聖書研究 福音派版コミュの創世記22

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なにやら、ひたすら作ったメッセージの下書きをアップするようになってしまったが・・・。(突っ込みもないし)
まぁ、気にせず(^^;;

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創世記22:1-3

1. 序論
 私たちの人生はいつも順風満帆というわけでもなく、当然、つらいこと、悲しいことも出てきます。また、信仰生活の中にはなおさら、信仰しているからこそ生まれる葛藤や障害がうまれ、信仰していない方が楽だったと思わされるような時もあります。自分は何も悪いことをしていないのに、なぜこのような目にあわなければならないのか。とつぶやきたくなることも多いでしょう。
 しかし、それは信仰の父と呼ばれるアブラハムにも与えられたことでえした。

2. 文脈
・ 11章 アブラハムの系図
・ 12章 アブラハムの召し (サラを妻と偽る)
・ 13章 ロトとの分離
・ 14章 虜になった財産を取り戻し・メルキゼデクに会う
・ 15章 子孫への祝福、土地の相続の契約 (アブラハム契約)
・ 16章 ハガルの懐妊・イシュマイルの誕生
・ 17章 契約の確認(割礼)、イサク誕生の約束
・ 18章 アブラハムのとりなし
・ 19章 ソドムとゴモラへの裁き、ロト家族の救出と歩み
・ 20章 アビメレクにサラを妻と偽る
・ 21章 イサクの誕生・イシュマエルの追放・アビメレクとの契約
・ 22章 イサクをささげよ(神の試み)

15章と同じく22章もアブラハムの人生の中で大きな節目、ターニングポイントとなっている。どちらも新改訳聖書では「これらの出来事の後」という言葉(ヘブル語: אַחַר הַדְּבָרִים)からはじまっている。15章での「これらの出来事」とは11章の系図に続くアブラハムを神様が選び出し、彼が国や故郷、父を捨て、またロトとも分かれて神様に導かれたカナンの地に住み。連合して反乱した王たちを打ち財産を取り戻し、メルキゼデクの祝福のもと神に導かれ、神の祝福のゆえにカナンの地方の居住権があること周りに知らしめた。出来事である。
そして、アブラハムの人生、ひいてはイスラエルの歩み、救いの約束の鍵となるアブラハム契約と呼ばれる15章の契約が与えられる。22章の「これらの出来事」とは、このアブラハム契約からその契約の成就の第一歩となるイサクの誕生、それとは逆に契約と神に対する不信仰の証であるイシュマエルの追放という一連の出来事を指している。
おそらく、アブラハムの信仰は召された時よりアブラハム契約の時、アブラハム契約の時より今日の22章の神の試みの時の方がより強められたものであっただろう。しかし、だからこそこの神の試みは21章までの「これらの出来事」によってアブラハムに刻み付けられた契約への信仰を根底から試すものであった。

3. 解釈
A. 試みに対する神の熱意
1)今までの出来事とつながって今の試みある
・ 文脈の説明から「これらの出来事」というのがこれまでのアブラハムの歩みを引き継いでいることがわかる。それは「アブラハムよ」という呼びかけと、「ここにおります」という応答する記載がアブラハムの召しの12:1と平行していることから、召しから今に至る人生のつながりを意識していることがわかる。
神様は今までアブラハムにただ命令をして一方的に従わせただけではなく、彼を訓練し、神の力を見せつけ、また、彼が悩むときは必要な御言葉を与えた。これらの出来事とは神様がアブラハムのうちに神様への信仰、人間的な言い方をするなら信頼関係を築きあげていった出来事である。今までの人生の歩みの中でなんとか神様を信じ、神様と共に歩む喜びをやっとわかってきたと思う時期に、神様をとるか、今ある喜びをとるか、と選択させられるような大きな試練、苦しみ、困難に出会うときがある。しかし、神様はそのような時にこそ、より深い関係を築くために試みを与えるのである。

2)罪によらない神が与える試みは特別な意味をもつ
・ 1節の「神」とはヘブル語ではわざわざ定冠詞が付けられており、神様の与えるこの試練が特別なものであることが強調されている。罪に陥った結果の困難とは違って神が与える試みは実にその人の歩みを左右する特別なものである。アブラハムがこの試みによって得た信仰は新約聖書の時代にもヘブル書の著者によって彼の信仰の代表的なものとして取り上げている。神の与える試みはその人の信仰生活・クリスチャン生活を総括した信仰につながるものである。

3)試みの意味
・ 「試み」は、一般に苦難と困難さを伴う。 シェバの女王にしても、ダニエルにしても、神がイスラエルを試みるときもそうである。
・ 試みの目的は
A. 「心に何をもっているか、戒めを守っているか居ないかを見きわめる(申命記8:2、出エジプト16:4)」
B. 「良くする為に、謙らせる(申命記8:16、ヘブル12:5-11)」
ことである。アブラハムは大きな困難に直面するが、彼が結局それの利益を得ると暗示している。神は人を苦しめるのが目的ではなく、最終的に試みによってその人を強めることが目的である。

C. 神の試み
1)「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」
アブラハムにはハガルとの間にできたイシュマエルという子どもが既にいた。だから、ここで単純にアブラハムの子どもという意味で「ひとり子」と言っているわけではない。約束の子、契約の子としての「ひとり子」である。
「あなたの愛している」は、「いよいよ愛するようになった」と言い換えることも可能、契約にはじまり、長い待望の期間、成就、イシュマエルの追放といった出来事の中でアブラハムはイサクをいよいよ愛するようになっていったのは事実。
イサクを子どもとして愛したのもそうであるが、イサク自身が神とアブラハム契約のひとつのしるしであり、ゆえにイサクに対する愛は神に対する信仰からもきている。
神の契約の証をとりあげようとすることで、逆に神の契約に対する信仰を試みられた。そして、アブラハムはこの試みの中で、神の契約を信じていたのである。(ヘブル11:17-19)
わたしたちにも目に見えるしるしに根ざす信仰なのではなく、神の約束に根ざす信仰を神は求められている。

2)「行きなさい」
新改訳聖書では省略されているが、「あなた自身が行きなさい」となっている。神の試みで要求されるのは、代役ではなく試みられるもの自身であり、試みられるもの自身が自分の思いを制して神に従う人格的献身が求められるのである。
他の人にその執行をゆだねて、自分の思いは神の下に置けていない状態で、結果だけ残すようなことを神は求めておられないのである。
わたしたちは神の試みの中にあるとき、他人に委ねて回避しようとするのではなく、自らを神の下に謙らせ、自身でその試みに応答していく必要がある。

 3)「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
神は決して人が人身御供をすることを認めておられるわけではない。
全焼の生贄とは動物を祭壇の上で切り、燃やすことであり、いけにえの共通事項である。そこには二つのことがある。
-1 提供者は自分自身を神に全く捧げる。(動物は提供者自身を象徴する)。
-2 罪の贖い。動物の死は礼拝者の罪を償うものである。しかし、人の子供を提供するのは、正しい礼拝者としては論外であった。レビ18:21,20:2-5 確かに聖書にはそのようにしている記事があるが、それは信仰的に退廃している時期であった。聖書では長子は全て神に捧げるが、それは買い戻され動物が代わりになるように定められている。(出エジプト22:29(30)、34:20) 
ゆえに神は人身御供を要求されたのではなく、アブラハムの献身と人に罪があり、救いの必要性をこの試みによって確認されたのである。
私たちに神が求められていることも、献身と救いに立つことなのである。

D. 試みに応じる者
1)「翌朝早く」
この言葉からだけではアブラハムの精神状態を知ることはできない。この言葉が示すのは神の言葉を聞いたアブラハムが躊躇して数日を過ごすのではなく、寧ろ翌日すぐに行動を開始したということである。
2)「鞍をつけ、・・・連れて行った。・・・薪を割った」
よくよく考えるとこの順番はおかしい。薪を割り、鞍をのせ、連れて行くという順番が普通である。アブラハムの心は決して淡白に割り切られていたわけでもなく、動揺の後が見て取れる。

  試みのとき、当然、試みられる者の心情は揺り動かされ、従うのを困難にさせられる。しかし、それでも例え自らの思いが完全に制御できていなかったとしても、従いはじめる事が試みられる者にとって必要なのである。

4. 結論
 神は私たちとの間に築かれた関係をより深めるため、最終的には神と私たちを一つとするため、試みを与えられます。それは神が私たちを所有していることを満足するためではなく、私たちが与えられている約束を深く信じ、より神に信頼し、神に近づき、神の約束にそって共に歩むことができるようになるためです。
 私たちがこの神から与えられる試みに応じるとき、自分自身に与えられたものとして受け取り、自らを制し、神を信じる信仰のゆえに従って歩むとき、アブラハムが救済の歴史の中でその大きな役割を果たしたように、私たちもまた神様のダイナミックなご計画と御業に確かに用いられていくことができるのです。
 もし今、信仰を揺さぶるような苦難、困難の中にあるのならそれは神様が与えられた試みかもしれません。神様はなんの脈絡もなく試みにあわせるようなことはなさいません。自分の救いの歴史・出来事を振り返り、神の導きを再確認して救いの約束にたって神の試みに応じていきましょう。


参考文献
・ 新聖書注解 いのちのことば社
・ Wenham, G. J. 1998. Vol. 2: Word Biblical Commentary : Genesis 16-50 (electronic ed.). Logos Library System; Word Biblical Commentary. Word, Incorporated: Dallas

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