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どんどこ愛知。コミュのメモ

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コメント(34)

太陽に向かっているものは美しい。
ex.植物の葉、洗濯物
時間に対しての課金、つまり生きることに対しての課金。
能力に対しての賃金、生政治への傾倒とのすれ違い。
そこで悩んでいるのか、という声。
それは意味ある問いかけなのか。
弱者は殺されるので、自ら死ぬ必要はないということ。
文字がまずなんらかの物質であるということ。
言葉は音であるということ。
音は限りなく純粋に意味に近いと言えるが、
物質であるということも意味を持つ。

物質であるということの意味とはいったい音による
意味とどのように違うのか。
(おそらく非時間的ということになるだろう。
それが純粋でないという言い方になるならば、
意味という言葉で僕は何を意味しようとしたか)
働けばその分返ってくるというのが
幻想である、という面と
現実である、という面と。

貨幣というのが交通であり、コミュニケーションであるということと
行為は行為で別ラインで動いているということ。
見せパンが見えるべきところ見えなかったねーちゃん。
ご執心であるポーズ。

物体である、ということ。
対比法というか、日本の古典的な文章のリズムから
現在の自由律詩的リズム。

世界に対する対し方の違い、という大仰なものから
スタイリッシュという誘惑。
(むしろ誘惑のほうが気になるか)
物体(存在するという感覚)と、
音に代表されるイントネーションによる意味。
それは潜在的可能性と顕在的可能性の具体的なヴァリエーションだ。

意味ということを考える以上、可能性以外のものはない。
意味は何も実現していない。
これは「リアリティ」の原則的なあり方だ。

じゃ、「リアル」そのものはどこにある?
それはどのようにリアリティを制御している?
また、どのようにリアリティから制約を受けている?
さらすこと。
意識的にさらそうとしても受動的にしかならない。
さらすこととさらされることはほとんど同義であるが
さらされないような行為などはあり得るのか?

あり得ない、としてもそれなりに面白そうだが、
それはそれで短絡的であって、やはりあり得るのだ。
そうでなければ「心」が問題になることはない。

そして、ここに至って、「心的なもの」が
この受動と能動のアンビヴァレンツによって再定義されれば
おそらく、機械も心を持つと言って差し支えなくなるのではないか。
エレガントというのはとても数学の匂いがする。

上の定義についてはエレガントでない。
読み返すと、リアリティと心的なものの
つながりは当然のように密接なんだけれど、
そのためにも心的なものは精神として語られているものから
切り離されるべきだ。

どういう言い方をしてもいいけれども、
「私」自身が考えていることと
「心的なもの」のあらわれ(現象)を混同してはいけない。
検証不可能だからというつまらない理由よりも、
僕たちはそんな風に世界をとらえていないはずだからだ。
ごく単純に。
混同しやすいのは確かに、現実として
そうやって考えることが多いからだろう。
その点をもって、「とらえていないはずだ」とか言うのは
非常に軽率だと言ってもいい。

けれども、そういう事態が起こるのは
むしろ「私が考える」ことと「心的なもののあらわれ」とが
類同性をもっていて欲しいという希望的観測があり、
混同したがっている僕たちがいるということにほかならない。

唯我論に陥りそうか?
そうでもない。
コミュニケーションを狭義でとらえさえしなければ
そこには交通が成り立つし、むしろ
心的なものに振り回される「私」がいる。

「私」は世界の始まりではなく、
遅れてやってきて席を探すパーティーの出席者みたいなものだ。
出かけたときから帰りつつあるというのは
厳粛な事実であるとともに、改めて言うのもあほらしいようなことだが
死につつあるということに関しても同じようなことが言える。
嫁「言葉を信用しないんじゃなくて、言葉に信用されてないんじゃないの?」

ごもっともで。
表面的な意味でいいとしても、言葉が自らの意思を持っていないのは
まぁ、確かで(そう考えて推論すべきで)、その上で、
あるコミュニケーション空間が人を信用しないというのは
確かにあるんだ。
非常に政治的になればなるほど、そんな傾向が強まるだろう。
認知症という言葉。
顕在化した現象についてで、人格への言及を巧妙に避けようという
症状の「症」。

また、性格の「性」。
どちらも「ショウ」という音。

傾向についてであり、
行為は本性につながるという思考。
(というよりも、それ以外にどのように判断しうるのか)

ここで問題となるのはすべての行為を見ていないという
厳然たる事実だが、果たしてそれを
どこまで加味すべきか。

(病と治癒という話はここでは横道ということにしておこう)

ここで意味の金融的な働きが作動するとして
何が賭金になり、どう支払われるか。
宝くじは売上げの6割くらいがおおむね払い戻されるようだ。

ギャンブルが好きな人間というのは
比較的宝くじを嫌う人が多い気がする。
(まぁ、この内実はどうでもいい)

他のギャンブルは自分でコントロールできる面が多く
すべてを運に任せるのではなく、研究と研鑽の成果として
儲けることが可能になる(気がする)というのだ。

で、当然トータルとして、確実に胴元が勝つように
倍率は設定されるわけではあるものの、
彼らは胴元と勝負をするわけではなく、
当面の自分のツキと勝負をするのだろうか。

それにしても研究と研鑽がギャンブルにおける
ひとつの必須過程であるとしたら、労働とそこに
どの程度の違いがあるのだろうか。

また、逆の角度を振り返って労働における
胴元というのはいるのか?
それが大手資本という話ならコトは単純だが、
おそらくそうでもないだろう。
金が重いとき、軽いときというのは別々にあるが
(それは属性がどれほどアテにならないかを
指し示す根拠と言ってもいいが、それとは別の話をしよう)
人命が重いとき、軽いときというのもまた別にある。
そして世界が重い時と軽い時というのもまたある。

金と、人命と、
(これを私のと他人のと分けるべきかもしれず、
むしろ分けないほうがいいかもしれないが、
その程度は他者の理解可能性の近似値であることはまず疑いようがないだろう。)世界と、
という三項は偶然選ばれたというよりも
流通=コミュニケーションと、その極と、
全体の環境という三つの、ある地場を
(ロケーションのほうがしっくりくるのはなんでだ)
構成する根本的な要素に対応している。
(対応している、の意味は別に他の言葉が入っても
機能的に代替可能ならいいということ)

そして、それぞれの重い、軽い局面は別々にあらわれるだろう。
すべてが重いような瞬間というのは想像がつかないが、
果たして、これを考えることはその三要素の特性について
考えることになるだろう。

また、すべてが重いようなロケーションということも
検討してみるべきだろう。
さて、その三要素以外に混入してくる変数はありやなしや。
情報社会はユビキタスを目指すというのは間違いのなさそうなところだ。
それが全体のコストダウンを計り、かつ保険をかけやすくなる。
(ホストのプロセッサ、データは常に並列かつバックアップがとられてる状態で)

一方生活は、ある極(コンビニが代表格)を作りながら
あまり多方面に動かなくても多機能であるように
組まれつつあるようである。

何かがすれ違っている気がする。

いや、すれ違い自体は明らかだけれど、
そうだな、情報社会的には空隙がどんどん埋められていくのに
生活的には、無価値な周辺がどんどん増えていっているようだ。

空白だらけの風景から果たしてどれだけ
意味を抽出できるだろうか。
意味というものの立ち位置自体が変容するような気がする。
踏み込むことは常に暴力であるというのは正しそうだが
暴力は常に踏み込むことであるわけでもなく、
踏み込むと同時に踏み込まないことであるような
(つまりミサイルのスイッチを押す人間のような)
そういう暴力はやはり端的に否定されるだろう。

それはそれとして、まったく踏み込まないことであるような
暴力はいわゆる暴力体験が発生していても
暴力そのものが起動していないという状況にあるわけで、
(宮台の「権力の理論」よりパクリ)
被害者しかいない。

それは言い換えると
「踏み込むと同時に踏み込まない」形と相似形であっても
踏み込むところに人称が代入できない暴力のことで、
では、何が踏み込んでいるのだろうか。

自分の妄想による被害だと言えないこともないが
意味が充満するところで起きるというのはまず疑いようがない。
政治的な局面というのはそんな暴力に満ちあふれているだろう。

あと、僕らは膨らみすぎたので、
暴力を受けやすくなったのだとも思う。
(マクルーハンのメディア論的な発想)
攻殻機動隊の草薙素子とかくらいに電子の海に飛び込んで
溶けてしまうだなんて、個が飽和する状況まで突っ込めば
そうでもなくなりそうだが。

なんにせよ、暴力はありふれていて、
種類を選べば、憧れる対象にもなりうる。
価値が断定できるものは偏在してはいない。
(神が遍在していて、それでも善だというのは
何かおめでたいと思う。悪にも神を見いだせないのなら偏在してない。
というか、そもそも本当に神と出会い続けてるのか?
宗教家というのはそういうものなのだろうが、
ごく一般的に信じられているのは、特別な時に現れる何かだと思うね)
人間、そう多くの決断をするわけではないだろう。
少なくとも一回決断する度に、
次の瞬間の決断の機会はほぼ奪われる。
決断するというのは、今に関わると同時に未来にかかわり、
その区間において決断するので、こういうことになる。

また、想定している範囲もあれば、
想定できずに、しかし過去の決断が自動的に
次の決断を導くようなこともあり、それももはや意思によるとばかり
言い切れない。

こうして、自由の結果として決断がありうるとしても
決断が自由を生むというよりは、自由を引き換えにしている。
自由を死守するなら、決断できないわけだが、
しかし、自由は死守されるものか?
金と同じような程度に持っておき、使うものではないか。
世界最高水準?
笑わせるね。世界一と言えないあたりがね。
そのくせ、威張りたいというのがね。
たとえば、君が思っている以上に
僕は君にかかずらっていたりするが、
それは僕が君を愛していることの保証にはまったくならない。

かかずらう、ということと口づけることとは
異質のものであるが、この両極をとってあらわれる地平にもまた
愛があるわけでもないだろう。
抗うということが提供されたものを打ち捨てる以外の
何者でもないときにあらわれる無気力がひとつの現代的な
自殺の類型なんだろう。
「もうたくさんだ」は、もうたくさんだ。

毛沢東さんみたいではある。
飽和が飽和するという状況はやはりあるだろうな。
マンガの場合、肉体は後から、どのようにでも、つけてよい。
属性がその中心にあるものの。
名前はさらにその上っ面にこびりついている。
名前<肉体<属性

日常世界では、おそらくこの反対であるだろう。
ちなみに、ひとつ上のお話は物語が作動する
ということに関するひとつの条件、もしくは手がかりになるはずだ。
「人間」がまだ生きているということに驚く。
神と一緒に死ぬべきはずだったものを。
いや、だから神も死んじゃいなかったんだろう。
表象が疫学としてとらえられるのであるなら、
治癒はどこに向かうのか。
エントロピー増大への力学が文化にも働くのであるなら、
その力が「治癒」として発揮されるのだろう。

(この時、隠喩は最上の健康が死であると指し示している。
ま、どうでもいいけど。)

しかし、病に対する力は様々で
水平面上の病たちの集いに対抗的な免疫系、
体力、自己治癒といった全体的なパラダイムシフトなどがあるが
要は病は、限定された世界での出来事なのだ。
何かと引き換えに何かが手に入れられると考えるのはとてつもなく浅はかだ。
その浅はかさは「対価」という考え方にあるというよりも、
根本的に何も失わないですむ状態があると考えていることにある。
常に失いながら展開を待っているのであって、
何も手に入らない時も失っているし、
何かが手に入った時にも失っている。
その時に引き換えたと考えたくなる気持ちは分からないでもないが、
ただ単に常時失っているだけなのだ。
意思と秩序について考える。
秩序は意思を内包しているように見えるが、
そこに根本的な違いがあると認められるからこそ、
生命というのを特別視することができる。

(内包しているとすれば「存在する」について意思と秩序が手をとっているのだと考えるべきかもしれない。これはもちろん、顕在化された条件が秩序を規定しているという単なる現状追認型のものではあるが。対して「存在」は秩序の必要条件ではないだろう。むしろ撹乱要因として働きうる。「存在しない存在」について思うべき。)

上のカッコ書きの中で「存在しない存在」というものがでたが、
これを想定しながら秩序を立て直そうと意思は働きうる。
見えない姿を見ようとし、聞こえない声を聞こうとする。
それは補食されまいとする草食動物にもある意思だ。

とはいえ、これは意思の条件ではなく、意思の働きである。
どのような条件がこの働きを可能にするか。

それは後日にしよう。
さて、私を傷つけられるのは
私が(ある意味で)愛している者からだけであって、
私に愛を注いでくれる者が私を傷つけられるわけではない。

それ以外のすべての傷は自傷であるということに気づくべきだ。
愛してもいないのに、傷つくなら、
自分をいたわるつもりもないのだ。
傷は意思にとってコアな部分を担っている。
フロイトがコンプレックスと呼んだものは傷である。
人は誰かの慰めものではない。
それは自分にとっても自分自身が慰めものではないということ。

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