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宮沢賢治の作品を愛しているコミュの宮沢賢治を歩く(東京ほか)

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【宮沢賢治を歩く・宮沢賢治旧居跡(文京区本郷)】
賢治は大正10年(1921)1月、菊坂沿いの稲垣方(本郷4-35)2階6畳間に下宿した(8ヶ月間)。ここで菜食中心の生活を送りながら、1日300枚のペースで、『注文の多い料理店』『どんぐりと山猫』『かしわばやしの夜』などの名作を書き上げた。
弟・清六が言うには、「本郷の菊坂町では、芋と豆腐と油揚げを毎日食べて、筆耕もやったし辻説教もやり、童話もうんと書いたと言う」とある。
現在、アパートの敷地内に、説明看板がある。
https://www.oogiya.co.jp/miyazawakenji.html

コメント(16)

【宮沢賢治を歩く・文信社跡(文京区本郷)】
文京区本郷にあった「文信社」は、現在の「大学堂メガネ店」(2010年閉店、本郷5-1付近、東大赤門前)付近にあり、賢治が上京中、謄写版(ガリ版)印刷や校正の仕事で自活していた。そして、昼休みには東大周辺や街頭で、日蓮宗(国柱会)の布教活動も行っていた。
ジョバンニの通っていた活版所、あれは文信社での経験をもとにしたものかもしれない。
http://tomonori-science.cocolog-nifty.com/blogwrite/2015/12/post-4a2f.html
【宮沢賢治を歩く・東京国際倶楽部(文京区本郷)】
大正15年(1926)12月12日賢治は、神田のYMCAタイピスト学校で知りあった印度人・シーナの紹介で、「東京国際倶楽部」(文化アパートメント、本郷2-2)の集会に出席する。フィンランド公使で言語学者のラムステットの日本語講演があり、その後、公使に農村問題とくにことばの問題について意見をきき、エスペラントで著述するのが一番だといわれる。
東京国際倶楽部は現在、順天堂大学センチュリータワーとなっている。
https://www.office-navi.jp/building/02012802/
【宮沢賢治を歩く・東京大学医学部附属病院分院(文京区本郷)】
大正9年(1920)妹・トシが入院したのが、日本女子大学最寄りの「東京大学医学部附属病院分院」(小石川分院、本郷7-3)だった。賢治は母・イチとともに上京して、近くの宿「雲台館」に逗留し、通いで看病した。
賢治は、妹・トシのために材料を買ってきて、病院でアイスクリームを作ったりもしていたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E9%83%A8%E9%99%84%E5%B1%9E%E7%97%85%E9%99%A2
【宮沢賢治を歩く・高村光太郎宅跡(文京区千駄木)】
大正15年(1926)、賢治は高村光太郎宅(文京区千駄木5-22)を訪問し、上野駅近くの「聚楽(じゅらく)」で飲んでいる。
https://www.city.bunkyo.lg.jp/b014/p003769.html
https://ihatov.cc/blog/archives/2008/03/2_41.htm
【宮沢賢治を歩く・雲台館跡(文京区目白台)】
妹・トシが入院していた病院と桂林寺正門の間あたりに、賢治と母・イチが泊まっていた「雲台館」(目白台3-4)があった。雲台館は現在、土地も分割され民家になっている。
大正9年(1920)11月から大正10年(1921)1月頃まで約2ヶ月、賢治は妹・トシの看病をしながら、図書館通いや童話・詩の創作活動を行い、ほかに石の職業設計をしたりして東京生活をしていた。
このエリアには、雲台館跡のほかにも、文信社跡や菊坂の稲垣宅跡など、賢治が東京で活動した痕跡が多く残されている。
https://ihatov.cc/blog/archives/2010/01/post_675.htm
【宮沢賢治を歩く・音羽郵便局(文京区音羽)】
妹・トシの看病をしていた賢治の日課は、入院している妹・トシの病状を父・政次郎に知らせることだった。詳細に書いては、「音羽郵便局」(音羽1-15)から出していた。
桂林寺前から道路を渡ると、「文京音羽郵便局」があった。
https://map.japanpost.jp/p/search/dtl/300101074000/
【宮沢賢治を歩く・礫川公園(文京区春日)】
「礫川(れきせん)公園」(春日1-15)の北東側の都営住宅に面した花壇は、賢治が文京区に住んでから90年目にあたり、賢治が残したデザイン図面(設計図)を元に、花壇植栽を行い再現されたものだという。
【宮沢賢治を歩く・小石川植物園(文京区白山)】
大正5年(1916)夏、賢治が初めての東京遊学が終わる頃、「小石川植物園」(正式名称は東京大学大学院理学系研究科附属植物園、白山3-7)で、「八月も終われるゆゑに小石川 青き木の実のふれるさびしさ」と詠んでいる。
夏の終わりや東京を離れる寂しさが込められていて、園内の木々に生る「青い木の実」を見つめながら、故郷へ帰る寂しさを重ね合わせるようにして、その情景を捉えている。
https://koishikawa-bg.jp/
【宮沢賢治を歩く・国柱会本部跡(台東区上野)】
上野鶯谷に、賢治が熱心に傾倒していた日蓮宗系の宗教団体「国柱会」(根岸1-14)があり、上京時に最初に訪れた拠点です。現在、別の場所(江戸川区)に移転している。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000249579
【宮沢賢治を歩く・国会図書館支部上野図書館(台東区上野)】
上野公園のはずれ、芸大の隣にある「国際子ども図書館」は、2000年に開館した。それまでは、「国会図書館支部上野図書館」で、賢治は本郷菊坂の下宿から、この図書館へ通っている。
賢治の作品「図書館幻想」は、図書館でダルゲという人に会い、決別するという短い散文だ。このダルゲとは、親友・保阪嘉内(山梨県出身)のことだといわれている。大正10年(1921)7月に、賢治と嘉内は再会した。その場所は、この上野図書館であるようだ。
https://www.culture.city.taito.lg.jp/bunkatanbou/culture/ilcl/japanese/page_03.html
【宮沢賢治を歩く・阿部孝下宿先(台東区谷中)】
大正8年(1919)ごろ、賢治の同級生・阿部孝(当時は東大英文科在学)の下宿先(谷中、当時の東京帝国大学の学生街)を訪ねている。
ここで賢治が、萩原朔太郎作『月に吠える』に出逢い、この前衛的な口語自由詩に衝撃を受け、のちの心象スケッチ『春と修羅』につながっていく。
https://kyonagus.i-ra.jp/e270964.html
【宮沢賢治を歩く・浅草木馬館(旧昆虫館、台東区浅草)】
賢治が浅草に来た時、浅草は浅草寺・伝法院・仲見世・奥山地区、浅草4区・6区を全部合わせて、「浅草公園」という名称だった。
現在、「木馬館」(浅草2-7)という名前の大衆演劇場になっているが、賢治が浅草で短歌を詠んだ頃は、名称が「昆虫館」だった。2階建て昆虫館の1階部分に、メリーゴーランドがあったようだ。その時に賢治は、「浅草の木馬に乗りて哂ひ(笑い)つつ 夜汽車をまてどこころまぎれず」と詠んでいる。
https://ihatov.cc/blog/archives/2015/12/post_839.htm
【宮沢賢治を歩く・東京独逸学院(千代田区神田神保町)】
賢治は大正5年(1916)夏、盛岡高等農林学校の学生時代に上京し、神田区中猿楽町(現千代田区神田神保町2-24付近)にあった「東京独逸学院」に通学した。7月末から9月上旬まで約1ヶ月間、「独逸語夏期講習会」を受講した。麹町区麹町3丁目の「北辰館」(のち栄屋旅館)に滞在し、同級生・高橋秀松と同室だった。東京でのドイツ語学習の経験は、後の農芸化学の研究や農村での活動へも、大きな刺激を与えたとされている。
https://ihatov.cc/blog/archives/2009/11/2_47.htm
【宮沢賢治を歩く・神保町(千代田区神田神保町)】
大正5年(1916)夏、独逸語夏季講習会に参加するため上京した賢治は、麹町3丁目の北宸館・栄屋旅館に宿泊しながら、「神保町」(現神田神保町)を通り、中猿楽町の東京独逸学院まで通っていた。
翌年(1917)1月4日には、家の用事で叔父・宮沢恒治と上京し、その際にも「神保町」に出かけている。この日、賢治は疲れはてて、両国橋畔の宮城館に叔父と泊っている。
https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20260223-vol121/
【宮沢賢治を歩く・日活館(千代田区神田神保町)】
昭和3年(1928)「神田の夜」の作品(詩)の最後に、「日活館で田中がタクトをふってゐる」とあり、神田の「日活館」(無声映画館、神田神保町1-6)で、田中豊明(海軍軍楽隊出身)が6月15〜21日「総合曲 謎のトランク」を指揮していた。
日活館跡は現在、ガラス張りの「タキイ種苗店東京支店」になっている。
https://chiyoda.main.jp/seisiga/kobetsu/takii.html
【宮沢賢治を歩く・万世橋停車場跡(千代田区神田須田町)】
「万世橋停車場跡」は、現在の「交通博物館」(神田須田町1-25、平成18年閉館、さいたま市の鉄道博物館に移転)のあった場所で、賢治の時代(特に関東大震災以前)は、東京の交通要地の一つとして大きな賑わいを見せた場所です。
賢治が保阪嘉内あて葉書に書かれた歌稿に、「甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな」とある。
また、「万世橋駅」は昭和18年11月に終了し、現在は赤レンガ造りの高架橋を活かした商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として整備され、当時のプラットホームや階段の一部が今も残されている。
https://www.andtrip.jp/article/006141.html
(韮崎市の歌碑)https://ihatov.cc/monument/170.htm

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