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ことばの力コミュの言葉とともに

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新約聖書ヨハネによる福音書は、「初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった。」ではじまります。
人間の成長過程でも言葉はかなり初期から与えられています。
しかし、言語能力が備わっていないうちは、外国語を習う時のように日本語に翻訳するなどということはしません。

言葉がそのまま与えられて、次第に意味が定着していきます。
どこに定着するかというと、身体です。
その意味で、人間は「受肉したロゴス(言葉)」です。
そうして、身体感覚をベースに豊かな意味が実っていきます。

自分の身体に入った言葉は次第に自分の言葉を発するようになります。
言葉が言葉を生むわけですね。
「言葉は神であった」です。
言葉を発する者が言葉を与える者になっていきます。
つまり、誰かにとって「はじめに言葉ありき」を与える側になります。

コメント(47)

わたしがわたしにすべてを委ねるとは、「生命を捨てざれば生命を得ず」ということ。
すでに任せている生活があった。任そうというだけおこがましいが、区切りをつけるうえで反省してみるのもわるくはない。
このうえなく有り難いというのは、在るということ。つまり存在の尊さ。
言葉以前にもう存在してしまっている。
じゃ、なぜ存在していではなくて、存在しているのか?
世界やわたしが、なぜこうなっているか? 答えとして理屈をつけることはできる。
しかし、なぜ無いのではなくて在るのか?
そう考えると、このうえなく有り難い。
一人称代名詞の「わたし」を問題視するひとがいるが、問題はそれが何を指しているかだろう。
悟りが私であって、悟っている私がいるわけではない。
>>[012]



その一念積もり積もらせ寒椿(笑)


失礼。ほっとした顔



>>[016]


ワタクシの勝手なる句作の遊(すさ)びに、図らずも巻き込み、相すみませんでした。顔(願)


お付き合い下さって、ありがとうございます!

手(パー)




>>[17]

いえいえ、こちらこそ遊ばしていただきました



わたしは右手
あなたは左手
左手で右手を握ってみると、右手のあたたかさ
そのとき同時に左手のあたたかさは感じない
右手で左手を握ってみると、左手のあたたかさ
そのとき同時に右手のあたたかさは感じない

あなたとわたしは裏表
あなたの傷はわたしの痛み
あなたの喜びはわたしの喜び
あなたとわたしはつながって、
どこからわたしでどこからあなたか定かでないが、
あなたはあなた
わたしはわたし
違っていて、つながっている
わたしは右手
あなたは左手



わたしは右手
あなたは左手
左手で右手を握ってみると、右手のあたたかさ
そのとき同時に左手のあたたかさは感じない
右手で左手を握ってみると、左手のあたたかさ
そのとき同時に右手のあたたかさは感じない

あなたとわたしは裏表
あなたの傷はわたしの痛み
あなたの喜びはわたしの喜び
あなたとわたしはつながって、
どこからわたしでどこからあなたか定かでないが、
あなたはあなた
わたしはわたし
違っていて、つながっている
わたしは左手
あなたは右手
悟りとは存在である 存在しているものすべて悟りである
それで? つかんだものは? ・・・ 何もない 
ただ今こうしていること、みえること、おもえること
それらは つかめない
存在

猫が床の上にいる
いや、そんなよそよそしくない
猫をわたしが見ている
いや、わたしがじゃましている
猫が見える
いや、まだ遠い

いや、そんな名前じゃない
モコ
いや、名前じゃないん
それ
指示代名詞じゃない
・・・
そうだそうだ
言葉も使える
それ
そうだ
モコ
そうだ

そうだ
猫が見える
そうだ見える
猫をわたしが見ている
そう わたしだ
猫が床の上にいる
そうだ わたしがいる


修行

冬木立を通り抜け
日差しを浴びながら
万城寺山を見て男は言った
「修行によって得たものはなにもない」
相変わらずの冬景色と日常とそしてこの想い
最後の修行によって変わったものはなにもない
いや、変わらぬものに自らの位置を移した
男は変わらずに変わっていくものとなり
冬の日差しを受けている
いや、いまは冬の日差しである


二十にして、師と出会い、荷を下ろす
三十にして、女と出会い、地に足をつける
四十二して、仏道と出会い、道を知る
五十二して、もう一人の自分と出会い、ともに道を歩く
六十にして、神を迎い入れ、道ひらく
ごっこ遊び

「あなたは運転手
わたしは車掌
ご乗車のみなさま、切符を拝見させていただきます」
そのとき、宇宙は列車となって、
生きとし生けるものはすべて、切符をわたしに差し出した
停留所

バスの停留所をどこに設置するか
始発駅から考えてこのへん
いやあちらのへん
そうした挙句に誰かが決めた停留所
そのおかげでそこで、乗客が乗り降りできるようになった

未だ見ぬ停留所を想って
そこを目当てにバスに乗っている男がいた
バス停の名前は知っているが
どんなバス停か見たことないという
バス停の名は「悟り」

しかし、その男がバスに乗っているうちに
珍事が起きていた
その路線のバス停『悟り』が何者かによって撤去されていたのだ

その人は「悟り」について学んで
学んだ知識に該当する場所で下車しようと
窓の外を必死に見ていた
似ているようなところがあったので、降りようとしたが
自信がもてないのでまた乗ってしまったこともあった
運転手に聞いても、ここはそうではない、というばかりだった

運転手によれば『見性』バス停の次だったという
だから、男は『見性』バス停をずっとまっていた
何人かはそのバス停で降りたようだが、あいにく男は眠っていた
循環バスなので次を待つことにしたがいっこうにそのバス停もあらわれない
ひょっとして『見性』も撤去されたのだろうか
男は半ば諦め気分でバスに乗っていた

あるとき男は疲れきった頭で、
バス停『悟り』がなぜ撤去されたか考えていた
そうして一念が浮かんだ
「ひょっとして、『悟り』は自分のいるところなのかもしれない」

そのとき、男はひょいとバスに降りてみた
そこは何の変哲もないどこにでもある風景
運転手は、やれやれという顔をして男を見ていた
男が自分のかばんの中をみるとバス停の標識が入っていた
標識には『悟り』と書かれていた

【読書メモ】エリック・ホッファー『波止場日記〜労働と思索』田中淳訳 みすず書房





<1958年6月23日>


背中の引きつりは消えた。昨日の仕事のおかげである。昨日の雨で、あたりいったいがきらきらしている。しなければならない雑用がたくさんたまっている。今ちょうど部屋を掃除するしたくをしているところ。その前に『ビザンチウム』の最後の数ページを読む。この本からなにを得たのかまだはっきりしない。これまでビザンチン帝国は停滞的な社会であったと考えていたが、この本が訂正してくれた。生気がなければ一千年も生きのびてはいけない。つづかない。
午後五時。いろいろ片付けごとをして忙しい一日をすごした。これでようやく遅れがとりもどせた。レタスサラダと豆スープの食事をしたのち、腰をおろして紅茶を一杯飲み、読書をした。







>>[32]

おひさしぶりです。お会いしたこともないのに、懐かしいというのも不思議ですが。

さて、つらつら『労働と思索』するならば、自分にとってはそれは、身体と精神、あるいは体験と表現。
車の両輪のように、というかそれらはそれぞれ後輪と前輪でもあったりしています。
体験と表現によって舵取りされ、身体と精神が駆動力を与えてくれているような。

じゃ、車のボディはなんだろう。。。
魂かな。。。
>>[033]


久しぶりにお邪魔しましたのに、ご丁寧なるコメント、ありがとうございます。


たまたま、今読み返している本の内容が、頂戴したコメントに関連すると思われますので、次に引用させていただきます。


昼の労働において、私たちが際限もなく分化する分業を個々に分担せざるをえない以上、なんらかの方途によって人間としての統合や綜合を希求するのは必然のいきおいである。人間が人間であることを回復することは無償の行為として窮極のものであり、詩こそはその無償性にこたえうる最後のものだと私は考えている。そのようなものとしての詩が、批評を内在せしめるべきことを背負わされたのが、近代の宿運であったろう。綜合をめざす詩が分析をめざす批評を内にかかえこまねばならないとは、一見、矛盾にみえるかもしれないが、決してそれは矛盾ではないのである。なぜなら、自分自身を含めた世界を批評することによって、私たちは自身と世界の分裂や分極の様相を知るのであり、知ることによってしか綜合へと向かう道は視えてこないからである。(宮城賢『生と詩』国文社)





清水博『場の思想』東京大学出版会 2003年





私たちが「正しい一つの真理が存在する」という認識論的世界観から出発していくと、すぐに互いの差異を発見して、対立の原因をつくり出してしまう。…私自身は、人間の否定的創造が「正しい真理とは、これこれである」という形で進むとは思っていない。思っていないどころか、この病気の社会の中でそのようなことを考えることに大きな疑問を感じている。私にとって意味のあることは認識ではなく、存在である。それは、何を、どのように実践することが、私たち全体の存在にとって善いことなのかを発見することであり、そしてどうすれば、その善いことが私たちにとって嬉しいことになるかを発見することである。







暑中なれば暑
風吹けば涼
一つ受くれば他無し
端坐すれば我も汝も
蝉の声


☆顔洗ふ水弛みをり朝みんみん(拙旧句)



湯のみ



ランボオ『地獄の季節』小林秀雄訳 岩波文庫






ああ、季節よ、城よ、
無疵なこころが何処にある。

俺の手懸けた幸福の
魔法を誰が逃れよう。

ゴールの鶏の鳴くごとに、
幸福にはお辞儀しろ。

俺はもう何事も希うまい。
命は幸福を食い過ぎた。

身も魂も奪われて、
何をする根もなくなった。

ああ、季節よ、城よ。

この幸福が行く時は、
ああ、おさらばの時だろう。

季節よ、城よ。


過ぎ去った事だ。今、俺は美を前にして御辞儀の仕方を心得ている。




ラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』池田雅之訳 角川ソフィア文庫






人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を、われわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は、他にあるまい。…もし、この倫理体系が、…知的発展に不可欠な、自由に対する科学的認識によって普及していたならば、もっと高度で、もっと幸福な社会が、できていたことであろう。だが実際には、独創性を伸ばす方向では実現せず、むしろ、今日広まっているように、自分の意見や想像力を抑えあたりさわりのない中庸にとどまる、という傾向の方が強い。







>>[40] ハーンが指摘してくれた日本人のその美徳がだんだん廃れようとしている昨今ですが、世界が必要としている、日本人のDNAに刻まれたものを輝かせるサムライの出現が望まれます。
>>[041]

コメントありがとうございました。


おっしゃるとおりでありますね!



[トピック]高橋源一郎の何が好きですか?より赤さんのコメントを次に引用。


《吃音的なところですね。流れるような文章は書けないんでしょうね。単語を繋げていくような文章は珍しいというか他には読んだ事がないです。失語症だったせいでしょうね。
ジャンルはちがいますがラッドウィンプスというバンドの歌詞も吃音的です。それは作詞している人が帰国子女のせいでしょうね。
両方とも言葉が零コンマ何秒か遅れてくる感じがします。》








中島梓『タナトスの子供たち』 筑摩書房






「〜〜ねばならぬ」というカセが少しでもとれてゆけば、世界はその分やわらかなところになるのではないかと思いますし、暗い真夜中も、おどろおどろしい闇と暗黒も、あやしい黄昏どきも、私はこの世界にはあるべきであると思う。明るい真昼しかない世界はどんなにかまちがった、そこで生きるのがある人々にとってはきわめて苦痛なようなゆがんだ世界であるかと思います。その人々とは要するに強者として生きたくなかったり、病気をかかえていたかったり、病気というかたちで現実にようやく適応したりしている人々だと思うのです。






三嶋寛『「空想すること」の復権を!−大空想家、シャルル・フーリエに学ぶ−」』:《遊民》誌 2017年 春号 所収







フーリエの空想の魅力は、その奇想天外な大胆さにあるわけですが、それは彼がアカデミズムからは無縁であり、したがって既存の理論などに縛られず自由奔放に空想を巡らせたことができたからだろうと思われます。しかもその内容が実に楽しいのです。…空想への権利と能力を失わないことは、人間が人間であり続けることです。その意味で、フーリエの空想魂は二一世紀に生きる私たちにも呼びかけるものだと思うのです。









吉本隆明『心とは何か〜心的現象論入門』弓立社 

この問題は、他者との関係づけ、関係の仕方というもの、それから人をどのように了解するか、了解の仕方のというものの食い違いが、身体障害とか、精神障害とかいうものの根柢にあることがわかります。…他者との関係の仕方というものは、それ自体が<社会>というものを提起してしまいます。ここに<社会の障害>という概念が登場してくる理由があります。 



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