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足利十五代・鎌倉公方コミュの中世の日本海

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鎌倉時代から室町時代にかけて、昇任僧侶らが中国・朝鮮・渤海国とどのように関わりを持っていたかを研究・発表する場にしたいです。

コメント(1)

 藤原貞包は941年、日向の賊徒を討った恩賞として筑前権掾(ごんのじやう)に任じられていたことが知られ、筑前居住の在庁官人と見られます。筑前の太宰府に任用されるのは不自然な経歴ではありません。となれば貞包は941年に筑前権掾、その後太宰府監となり、出家して957年に入唐したことになります。問題は太宰府の在庁官人が朝廷に泰請して入唐勅許を得られるかということですが、入唐勅許を得た他の僧が中央の大寺院の僧であったり、中央の権力者とコネがあったりするのと比較するに、かなり難しいのではないでしょうか。むしろ大宰府で船の出入りを目の当たりにした転智がひそかに乗り込んだものと見たほうが自然でしょう。大宰府の役人経験者として、あるいは地方の有力者として、大宰府にも顔が利いたはずです。管理機関の太宰府さえ丸め込めば、密航は可能だったのではないでしょうか。
 史料には残らないものの、太宰府関係者の密航は他にもあったかもしれません。この密航が目立つようになるのは成尋入宋の後です。1083年に密航した戒覚は、その詳細が日記『渡宋記』により明確に知られます。中央とのつながりがなかった戒覚は単身で博多で船に乗り込んだものの、その間は太宰府の制を恐れて船底に隠れ、便意を催さないように飲食も控えたようです。彼はすでに60歳を超えていたので、まんまと入宋してかの地で示寂しました。
 他にも成尋の弟子などが何人か宋へと密航し、日本に帰ることなく示寂したとう記録があります。中世仏教の母体の一つとなった遁世僧でありますが、その経歴から見て勅許泰請などありえかったのでしょう。

 余談ですが、成尋の日記『参天台五台山記』(さんてんだいごだいさんき)』に、宋の皇帝から命じられて成尋一行を護衛してきた鄭珍(ていちん)という者が饅頭(まんじゅう)20個を買ってきて皆に配ったとあります。日本人で最初に饅頭を食したことになります。食べた感想については記されていません。どう思ったのでしょうね。
 成尋の肖像画です→https://4travel.jp/travelogue/10815660

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