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Michel Foucaultを読むコミュの『「知」の欺瞞』

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 アラン・ソーカル+ジャン・ブリクモン著( 2000年、岩波書店刊)。
 副題──「ポストモダン思想における科学の濫用」

 英語版 "Fashonable Nonsense :Postmodern Intellectuals' Abuse of science" (1998 Picador)
 仏語版 "Impostures Intellectuelles"(1997 Odile)

 本書は、いわゆる「現代思想」の思想家たちが、いかに数学を、でたらめに扱っているかを、物理学者が、「証した」本で、敵意や冷やかしで書かれたものでないことは、その良心的かつ綿密な証明でよくわかる。
 この本で、Abuse(でたらめな援用)の「はなはだしさ」が指摘されている思想家は、ラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドゥルーズとガタリ……などです。
 いたずらに数学を引き合いにだしては、「自らの深淵な学説」を「説明」し、素人たる読者を恐れおののかせる以外に、どんな意図を持ったものか……?
 ラカンなど、数学の援用のみならず、言葉で説明している概念も、なんか「でたらめ」のような印象を受ける。
 かなり面白い本なので、未見の方は、ぜひ、書店などで、お手にとってみてください。
 これと、フーコーと、どういう関係があるのか?
 わがフーコーは、「賢明にも」、数学で説明するなどということは、していないのです。
 上記にあげた思想家のなかでは、やはり、読むに足る思想家かと思われます。

コメント(6)

ソーカルのポストモダン批判の扱いは難しいところがありますよね。

確かに、彼の言うとおり多くのポストモダニストたちは数式をある種「濫用」していたのかも知れませんが、だからと言って彼らの言っていたこと全てが無意味なものとなるかというとそうではないと思うんですよね。

たとえば、フーコーは数式を濫用しなかったかも知れませんが、歴史資料を恣意的に引用しているという批判はしばしば受けてきました。しかし、だからと言って彼が著作で示したことが無意味化されるかと言うと必ずしもそうではないですよね。ソーカルの批判もこれと同じだと思います。

要は、ミクロなレベルでの批判に終始するよりも、もっとマクロな視点に立って、フーコーが、あるいはその他のポストモダニストたちの論が現代社会に対してどのような影響を与えているのかを考えていく方がより建設的かなぁと個人的には感じています。
 『「知」の欺瞞』の「はじめに」には、「想定されうるかぎりの」反論に対する回答があります。その一部を紹介すると、

 「この本で何を示すつもりか」
 ↓
 「われわれの目標は、この分野では数学や物理学の概念や用語の濫用がくりかえされているというあまり知られていない事実に、より多くの人の目を向けることである」
 ★
 「引用は些末なものばかりではないか」
 ↓
 「これらのテクストに見られる濫用は単なる『誤り』として見過ごすことができるような代物ではないということだ。事実や論理に対する、軽蔑とまではいかないにしても、ひどい無関心がはっきりと現れている。したがって、われわれが試みようとしているのは、相対性理論やゲーデルの定理について間違いを書いた文芸批評家を笑いものにするといったことではなく、いやしくも学術的な分野たるものが共通に持つ(あるいは持つべき)合理性と知的誠実さの規範を擁護することなのだ」

****

 「歴史資料を恣意的に引用」することと、「完全に間違っている数学用語を振り回して」論をたてることは、次元も内容も、まったく違うことだと思いますが……。
 
 たとえば、次のような、ラカンの説明をみなさんは、どのように「理解」しますか?

 「この図形〔メビウスの帯〕は主体=患者を構成する結び目の原点における一種の本質的刻印の基礎と考えることができます。この対応は、みなさんがはじめに思うよりもはるかによく成り立つのです。というのも、みなさんはこのような刻印を受容するある種の面を探すことができるからです。かの全体性の昔からの象徴である球が不適当であることは、おわかりになるかもしれません。トーラス、クラインの壺、クロスカットはこのような切断を受け入れることができます。そしてこの多様性は、精神病の構造について多くのことを説明するので、大変重要なのです。もしも主体=患者をこの基本的な切断で象徴できるならば、同じようにしてトーラス上の切断は神経症の主体=患者に対応し、クロスカット上のそれは別の種類の精神病に対応することが示されるのです」(Lacan 1970, pp.192-193)

 原註より
●トーラス→浮き輪のような曲面のこと。
●クラインの壺→メビウスの帯に似ているが境界(縁)がない。クラインの壺を具体的に表現するには、少なくとも4次元のユークリッド空間が必要である。
●クロスカット→ラカンはクロスカット(cross-cut)と書いているが、cross-cap(叉帽)の写し間違いだろう。別の種類の曲面の名。

(テクストは、岩波書店版、田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹 訳 を使用)

 ラカンの『Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse』も持っておりますが、開く勇気がなくなってしまいます……(笑)。



 



大学の図書館から『「知」の欺瞞』を借りてきました(面倒なので、全部は読まないと思いますが^^;)。

>「これらのテクストに見られる濫用は単なる『誤り』として見過ごすことができるような代物ではないということだ。事実や論理に対する、軽蔑とまではいかないにしても、ひどい無関心がはっきりと現れている。したがって、われわれが試みようとしているのは、相対性理論やゲーデルの定理について間違いを書いた文芸批評家を笑いものにするといったことではなく、いやしくも学術的な分野たるものが共通に持つ(あるいは持つべき)合理性と知的誠実さの規範を擁護することなのだ」

これに続いてソーカルは次のようにも言ってますよね。

「これらの著者たちの仕事の中の科学とは無関係な部分にまでとやかくいう資格がわれわれにないことはいうまでもない。また、自然科学への『介入』が彼らの仕事の中心課題でないこともよくわきまえている。それでも、誰かの書いたものの中に、たとえそれが些細な一部分であろうとも、知的不誠実(あるいは、極端な能力不足)の兆候が見いだされれば、その人の作品の他の部分よりも批判的に読んでみようと考えるのが自然ではないか」(前掲,10頁)。

この発言からも見てとれるように、ソーカルはあくまでポストモダニストたちが比喩として用いた数式の「使い方」が間違っていることを指摘しようとしているのであって、比喩される「対象」の考察をしているようには思えないのですが。言い換えれば、ソーカルはポストモダニストたちの主張の内実そのものの効力を否定しようとはしていないのではないか、ということです。

したがって、ソーカルのポストモダン批判をもって、たとえばラカンの言ってることはでたらめで意味のないことだ、などと結論付けることは、ソーカル自身が意図するところではないように思います。

むしろ、『狂気の歴史』の「阿呆船」に見られるように、ありもしない歴史資料をでっちあげるフーコーの方が、彼が自分の著作の中で歴史資料を論の基盤として据えているということを考えると、これらのポストモダニストの「欺瞞」よりも重大な欠陥であると考える余地の方が大きいと言えるかも知れません。

それでも、そのような批判を考慮しても、僕がフーコーを読むのは、彼の言説がある面で近代社会の性質を的確に捉えていることを認めざるを得ないからなのであって、僕としてはやはりポストモダニストたちが現代社会に対してどのような影響を与えたのかという観点から彼らの論を捉える方が建設的であるような気がしてなりません。

思うに、ある思想家を「読む」というのは、単に彼を称揚し、崇拝するのみでなく、彼に対して向けられる、あるいは向け得る批判も十分に考慮した上で、彼を受容していくことなのではないでしょうか。

とにもかくにも、ソーカルの批判を用いてフーコーを称揚することは少し乱暴ではないかと思い、このように書かせて頂きました。
>ソーカルはあくまでポストモダニストたちが比喩として用いた数式の「使い方」が間違っていることを指摘しようとしているのであって、比喩される「対象」の考察をしているようには思えないのですが。

 まったくその通りです。この点に関しては、拙サイト↓でも書いておきましたので、その点を読んでいただけたら、いたずらに、私が「フーコーを称揚している」わけではないことがわかっていただけたと思ったのですが……。

http://www.mars.dti.ne.jp/~rukibo/sonzai07/sonzai4.html
 
>思うに、ある思想家を「読む」というのは、単に彼を称揚し、崇拝するのみでなく、彼に対して向けられる、あるいは向け得る批判も十分に考慮した上で、彼を受容していくことなのではないでしょうか。

 というか、「読む」という行為自体が、常に批判的な読みでなければならないと思います。

>したがって、ソーカルのポストモダン批判をもって、たとえばラカンの言ってることはでたらめで意味のないことだ、などと結論付けることは、ソーカル自身が意図するところではないように思います。

 これは、個々の思想家を個別的に見ていかなければならないと思いますが、ラカンの場合は、私がこれまで彼のテクストに接して、「今のところ」、「読む勇気がなくなった」と思ったのです(笑)。
もちろん、ソーカルの意図は、「数学的な間違いを、間違いのまま、濫用している」ことの指摘に尽きます。その結果、その思想家をどう判断するかは、それぞれの読者に課されるのではないでしょうか?

 Le Mondeへ、97年に寄稿された、デリダの「反論」も、悔し紛れの的が外れたもののように感じましたが、私は、デリダは読もうと思ってます。

>むしろ、『狂気の歴史』の「阿呆船」に見られるように、ありもしない歴史資料をでっちあげるフーコーの方が、彼が自分の著作の中で歴史資料を論の基盤として据えているということを考えると、これらのポストモダニストの「欺瞞」よりも重大な欠陥であると考える余地の方が大きいと言えるかも知れません。

 この点に関しては、検討していないのでなんとも言えませんが、フーコーが、「処女作」で引用している、ルネ・シャールの詩も、真ん中を勝手にぶった切っていることがわかりました。こういうフーコーの行為については、私としては、留保させていただきます。今後、詳細に検討して、私なりに考えさせていただきます。

>とにもかくにも、ソーカルの批判を用いてフーコーを称揚することは少し乱暴ではないかと思い、このように書かせて頂きました。

 当トピックを立ち上げた、11月4日の、

 「わがフーコーは、『賢明にも』、数学で説明するなどということは、していないのです。上記にあげた思想家のなかでは、やはり、読むに足る思想家かと思われます」

 という書き込みを、「ソーカルの批判を用いてフーコーを称揚し」ていると、とられたのでしょうか? こちらの態度も軽率なものがあったことは認めるに吝かでないですが、基本的に、私は、いかなる思想家も称揚することはありません。まして、「他人の批判を用いて」、「ある思想家を称揚する」などということは考えもしません。

 私が常に問題にしているのは、「私が」「読むに足る」と思うかどうかです。ラカンは、「今のところ」、留保するということです。もちろん、のちに、読むかもしれません。なんせ、テキストは揃ってますから(笑)。

 つけ加えておけば、

>それでも、そのような批判を考慮しても、僕がフーコーを読むのは、彼の言説がある面で近代社会の性質を的確に捉えていることを認めざるを得ないからなのであって、僕としてはやはりポストモダニストたちが現代社会に対してどのような影響を与えたのかという観点から彼らの論を捉える方が建設的であるような気がしてなりません。

 これも、やはり、個々の思想家について見ていくべきで、一連のある思想家たちを、「ポストモダニストたち」というジャーナリスティックなくくり方で、十把一絡げに見ても意味がないと思いますが……。

 揚げ足をとるようで悪いのですが、足利さんが、「彼の言説がある面で近代社会の性質を的確に捉えていることを認めざるを得ない」と判断されるのなら、あなたは、「近代社会の性質」についてすでに知っておられわけですから、べつにフーコーを読む必要もないかも知れませんね(笑)。
 ちなみに、私がフーコーを読もうと思うのは、そのようなことを「認める」ためではなく、彼のエクリチュールが、どのような未知の領域(考え方といってもいいですが)を見せてくれるのか期待するためです。


僕のこのような反論の背景は

>わがフーコーは、「賢明にも」、数学で説明するなどということは、していないのです。
上記にあげた思想家のなかでは、やはり、読むに足る思想家かと思われます。

というrukiboさんの主張に尽きます。つまりrukiboさんのお考えになるとおり、この発言を見て僕はrukuboさんがソーカルを用いて(一種「悪用」とも言えると思いますが)フーコーを称揚しているのではないかと思ったわけです(実際、rukiboさんの主張をこのように解釈することそれ自体は「曲解」であるとは思いません)。

もちろん、rukiboさんが挙げてくださったURLは事前に参照しましたが、あの日記の文章では正直な話、rukiboさんの価値判断がいかなるものなのかは良く分かりませんでした。したがって、そのような曖昧な印象よりも、先の主張に対して感じた己の直感の方を優先したというわけです。

まあ、rukiboさんがそのようなつもりはなかったとおっしゃるのであれば、その点に関しては何も言うことはありません。

>これも、やはり、個々の思想家について見ていくべきで、一連のある思想家たちを、「ポストモダニストたち」というジャーナリスティックなくくり方で、十把一絡げに見ても意味がないと思いますが……。

「ポストモダニストたち」と一括りに言ったのは便宜上のことであって、もちろん彼らの論の検討に当たっては個々の著作を読まないと意味がないというのは僕も共有するところです。僕は別にジャーナリスティックな議論には興味がないですし(苦笑)。

>揚げ足をとるようで悪いのですが、足利さんが、「彼の言説がある面で近代社会の性質を的確に捉えていることを認めざるを得ない」と判断されるのなら、あなたは、「近代社会の性質」についてすでに知っておられわけですから、べつにフーコーを読む必要もないかも知れませんね(笑)。

ここのアイロニーはいまいち良く分からないです。

僕が言いたかったのは、フーコーの論に触れることでそれまで自分が見落としていた近代社会の性質のある側面が見えて来て、その指摘の重要性を認めざるを得なかったという程度のことです。

「認める」という言葉には、「『近代社会の性質』についてすでに知っている」ことが必然的に含意されるわけではないと思うのですが。

>ちなみに、私がフーコーを読もうと思うのは、そのようなことを「認める」ためではなく、彼のエクリチュールが、どのような未知の領域(考え方といってもいいですが)を見せてくれるのか期待するためです。

このコミュニティーに入った時から、基本的にrukiboさんと僕のフーコーを読むスタンスは異なるなぁというのはずっと感じていました。

僕はいずれフーコー「で」論じることを目指しています。これは僕の畑が社会科学であるがゆえにそうならざるを得ない側面がありますし、僕自身もそっちの方に興味がありますから。

それに対して、rukiboさんはフーコー「を」論じることを目指しておられるような気がします。これは、まさにフーコーの著作を最初から順番に読もうとなさっているその方針からも見て取れると思いますが。

僕は、どちらが良いとかそういうことを言いたいのでは全くありません。両者は全く次元のことなるスタンスですから、そもそも比較不能ですし。

先ほどの発言で「より建設的」といった時の比較対象は、「フーコーを盲目的に崇拝・称揚すること」ですから(そして、先ほどそれが誤解であったことが判明しましたから、もはや議論の論点ではありません)、誤解があったのであればここで補足させていただきます。
>このコミュニティーに入った時から、基本的にrukiboさんと僕のフーコーを読むスタンスは異なるなぁというのはずっと感じていました。

 異なっていてよいと思うし、また、異なった人からこそ学ばなければならないと思っているので、一連の足利さんの対応は、誠実であると思うし、意味があるものと思います。

>僕はいずれフーコー「で」論じることを目指しています。これは僕の畑が社会科学であるがゆえにそうならざるを得ない側面がありますし、僕自身もそっちの方に興味がありますから。
>それに対して、rukiboさんはフーコー「を」論じることを目指しておられるような気がします。これは、まさにフーコーの著作を最初から順番に読もうとなさっているその方針からも見て取れると思いますが。

 この説明は、たいへんわかりやすいです。確かにおっしゃるとおりかもしれません。この文章で思い出したのですが、『寺山修司をラカン「で」読む』(「で」をカッコに入れたのはrukibo)というような題名(正確ではないかもしれませんが)本を最近見かけたように思いますが、こうしたアプローチには、私は関心ないと思いました。

>もちろん、rukiboさんが挙げてくださったURLは事前に参照しましたが、あの日記の文章では正直な話、rukiboさんの価値判断がいかなるものなのかは良く分かりませんでした。したがって、そのような曖昧な印象よりも、先の主張に対して感じた己の直感の方を優先したというわけです。

 この印象はたいへん正確だと思いますよ。最初、私は、フーコーは、数学にへたに手を出していないから偉い(読むに足る)と思ったのです。でも、それは、あまり重い意味ではなかったのです。というか、まあ、「軽はずみ」ですね(笑)。
 私はけっこう軽はずみな人間なものですから、すみません。
 しかし、その後、「ソーカル事件」のある種の記事を検討してみて、ジャーナリストが騒いでいるだけという印象を受けたもので、おのれの軽はずみを反省するとともに、この「事件」は、どちらが正しいとも判断できないものだと思ったから、そうした判断のままの文章になっています。
 ラカンへの疑問は同じように留まっています。
 
 当然のことながら、足利さんとの一連のやりとりが不毛であったとは思いません。足利さんの真摯さに照らされて、自分の不真面目を反省し、かつ、少しは慎重にふるまうように、おのれを戒めたのですから(笑)。

>僕が言いたかったのは、フーコーの論に触れることでそれまで自分が見落としていた近代社会の性質のある側面が見えて来て、その指摘の重要性を認めざるを得なかったという程度のことです。

 わかりました。

****

 ところで、以前、「私は民間人だから」という表現を使い、その意味するところが不明であると言われました(もっと軽い表現でしたが(笑))が、「出典」の本が見つかりましたので、前々から入れようと思っていたように、「プロフィール」に入れておきます。ご笑覧くだされば幸です。







 

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