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水流と水神コミュの大山祗神(水の神)=和多志大神(海の神)

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大山祗神(オオヤマツミノカミ)は「大いなる山を司る国津神」の意。
イザナギ、イザナミの間に生まれた子供で、アマテラスの兄。
コノハナノサクヤビメ、イワナガヒメの父親。

オオヤマツミ=大いなる山の神=山ノ神の親神

から山の神であるが、山は水源を持ち、水田を潤し、
水の神、田の神ともされた。
別称の

和多志大神(ワダシノオオカミ)=海に対する神

から海の神とされ、航海神とされ、
『伊予国風土記』では、
この神は百済国からやって来たとされている。

   古事記での表記=大山津見神(オオヤマツミノカミ)
  日本書紀での表記=大山祗神(オオヤマツミノカミ)
伊豫国風土記での表記=和多志大神
        別称=大山祗大神(オオヤマツミノオオカミ)
           大山咋神(オホヤマクヒノカミ)
           大山祗命(オオヤマツミノミコト)
           大山積神(オオヤマツミノカミ)
           大水上御祖神(オオミナカミノミオヤノカミ)
           大水上神(オオミナカミノカミ)
           酒解神(サケトケノカミ)

●オオヤマツミを祀った代表的な神社
大山祗神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%A5%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE
大山阿夫利神社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%98%BF%E5%A4%AB%E5%88%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE

《目次》
愛知県
●大山祗命(神明社 末社山神社)=書き込み16 
神奈川県
●大山阿夫利神社上社=書き込み4
●山王神社(小田原)=書き込み6
東京都
●大山咋神(摂社山王日枝神社)書き込み23/24
●末社山神社(田端神社)=書き込み10/12
●末社出羽三山社/鹽竈社(大子堂八幡神社)=書き込み5
新潟県
●大山祗神(名水公園  十二山神社)=書き込み20/21
三重県
●石部神社境内社=書き込み13

↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&om=1&t=k&msa=0&ll=35.425847,139.282951&spn=0.098616,0.173721&z=13&msid=113844027188609943916.00000112d67c17d4d32d7

コメント(29)

●大山阿夫利神社上社
神奈川県伊勢原市大山355

大山頂上に登る目的は
息子と頂上にあるという磐座を見に行くことにあった。
おそらくその磐座に
大山石尊大権現(大山阿夫利神社祭神)は降りたのだろうと考えたのだ。
阿夫利神社下社まではケーブルカーで登った。
下社脇の「大山口登山道」入り口の登拝門のすぐ向こうには石鳥居があり、
そこから突然、傾斜が40度くらいありそうな
石段が立ち上がっている。
息子は「エーッ」という顔をしたが、無視してどんどん階段を上る。
すぐに狭い平地に出ると、
そこには大山開山前の752年に造立されたという
白山神社石碑などの石碑類が置かれていた。
いよいよこのあたりからまともな石段は無くなった(写真左)。
山道は“丁目”の単位で道標が建てられている。
頂上は28丁目。
参道15丁目に「天狗の鼻突き岩」。
20丁目の「富士見台」。登りの時には富士山は雲がかかっていた。
26丁目あたりに銅の鳥居。
明治期に建てられたもので、ここで組み立てて、
一部が溶接されていることがわかる。
そして頂上だ!28丁目の石鳥居。

鳥居をくぐると金属シャッターの閉った倉庫みたいな建物。
後でこれがタカオカミノカミを祀った前社であることを知ったが、
撮影しそこなった。
前社と灯籠が並んだ前を抜けて低い石段を上がると
大山阿夫利神社本社、売店があり、
本社前の石垣の上から眺める景色は神奈川県一の絶景だ。
(写真中) の息子の背後には秦野市と伊豆半島が眺望できる。
時間はam11:40。ほぼ2時間の道程だったが、
もういっぱい、いっぱいだ。
だが、眺めは最高!
左手に霞む房総半島、くっきりと三浦半島、江ノ島。
右手に霞む大島。やはり大きい。そして伊豆半島。
相模湾は穏やかで。手前に伊勢原市。完全に平らだ。
山頂は狭いが、売店を利用する人は売店前のテーブルを確保。
まだ、人が多くないので、ぼくらもテーブルをゲット。
ぼくは甘酒、息子はコーラを飲んだ。
息子は神社に興味が無いので、ひとりで、頂上探索。

大山阿夫利神社本社は正面は三分割されたガラス戸で、
外観は現代の建物。参拝する人はほとんど居ない。
ほとんどの人にとって大山は神奈備では無く、
“山登りの山”にすぎないようだ。
内部は素木と銅板を使用した良い雰囲気で、
八角形の鏡が正面に置かれ、天井から頑丈な額の神社名。
祠の扉は銅板飾りの大きな金具で補強されている(写真右)。
山頂にいる間中、この建物は拝殿だと思っていた。
拝殿を迂回して裏側に回ると、真後の少し離れた場所に本殿…
と思っていたのだが、それが雷神(オオイカツチノカミ)を祀った
摂社奥社だったのだ。
社殿内に入れるし、社内におみくじを販売する場所があったので
本殿でこんなことあるんだろうかと思ったのだが。
“拝殿(本社)”“本殿(奥社)”の間は登山客がゴロゴロして
埋まっていて、神聖な感じはまったく無し。
それで、この “本殿(奥社)”も撮影しそこなった。
東京方面を見下ろすが、感動的な風景とは言いがたかった。
頂上の建物の西側は塀があって立ち入れないようになっていて、
その中に磐座はあるのだろう。
塀の隙間から覗いたが、背の高い草が 茂っていて
何も見通すことはできなかった。

それらを見ている間にも人がどんどん登ってきて、
頂上のスペースは埋まってゆく。
われわれは下山する人達で混雑しないうちに引き返すことにした。
大山は登ってくるのがたいへんな割には良い思いは少なめだ。
pm0:15下山開始

20丁目の富士見台は
富士山を背景にして記念撮影する人たちで混雑していた。
富士山が完全に姿を現していたのだ。
登山道と頂上を含めて、
完全に富士山が眺望できるのはこの地点のみのようだ。
ぼくもシャッターを押す役を何人かに頼まれた。

pm1:40 下社に到着。
下りは登りよりも長く感じ、所用時間1時間半だった。
山頂にケーブルカーチケット、サングラスを忘れたが、
もちろん戻る気無し。
●末社出羽三山社/ 鹽竈社(大子堂八幡神社) 
東京都世田谷区太子堂5-23

最初に大子堂八幡神社(写真左)を訪づれたのは
目青不動尊に行ったついでだった。
2度目は烏山緑道を辿っていたら辿り着いた。
大子堂八幡神社は住宅街の中にある神社だが。
2度目に行った時、7段+11段の短い階段を上がると、
左の陰になった場所に
末社出羽三山社/ 鹽竈社が合祀された祠を見つけた(写真中)。
この祠、棟が太くて左右に大きく跳ね上がっている特色がある。

末社出羽三山社/ 鹽竈社には複数の水に関わる神が祀られているので、
抜き出してみると下のような神々なのだが、

羽黒山=イデハノカミ
湯殿山=大山祇神/大己貴命/少彦名命
鹽竈社=塩土老翁神/武甕槌命

全体に淡水ではなく海の匂いが強い。

出羽三山信仰はもとは土着の山岳信仰の発展した姿なのだろうが、
羽黒山に関しては
境内にある鏡池に龍神信仰との関わりも語られている。
鏡池からは平安、鎌倉、江戸時代中期までの鏡が
多数発掘されているという。
イデハノカミ(=出羽の神?)は出羽国の国魂(クニタマ)であり
稲倉魂命(ウカノミタノカミ)とともに出羽国を開発した神のようだ。
イデハノカミは元を辿れば海神系の
玉依姫や豊玉姫に由来する神であるという。
塩土老翁神(シオツチオジノカミ)は塩、海の神だが、
呪術・予言の神ともされ、
出羽三山社と合祀されているところをみると
出羽三山社/ 鹽竈社は修験者の関わったものである可能性が高い。
●山王神社
神奈川県小田原市浜町4-30-15

国道1号線から熱海に向かう途中で迷って出会ったのが
山王神社だった。
1号線の登り車線に面しており、銅の鳥居から拝殿までの境内は浅い。
(写真左)
由緒の掲示板によると、元は北條家の郭内にあったが、
暴波でその地が崩壊して慶長18年(1613)に現在地に移ったものというが、
「新編 相模風土記」と古地図によると
1558年には現在地の隣に流れる山王川(写真中)の対岸の海岸の松林の中に
原方村の鎮守として祀られていたという。
海岸線に変化が無ければ
現在、西湘バイバスが通っているあたりということになる。
旧社地に星月夜ノ井戸という井戸があったため、
元は星月夜ノ社と呼ばれたらしい。
境内には星月夜ノ井戸も移されてあったが、
蓋がしてあるから中が掘ってあるのかどうかはわからなかった。
山王神社のすぐ前に山王川に渡る山王橋に出ると、
海側は河口がすぐ目の前に見え、その上を西湘バイバスが横切っている。
水量は豊富で水もきれいだが、魚や野鳥の姿は見えなかった。
●大山咋神:アステカのオブジェ(『インカ マヤ アステカ展』)
国立科学博物館(東京 上野公園) 〜9月24日
http://www.3bunmei.jp/

12年前、ニューメキシコ州にある
ナバホ族の居住区プエブロ・デ・タオスの

http://i-debut.org/heritage/photo_usa_taos.htm

宝飾品店で“変”なものを見つけた。
それは全長17、8cmで太さが4cmほどある
ジグザグした削り損なった棒切れだった。
プロの職人が製作した宝飾品に混じって、
同じ棚にそれが置いてあった。
店のナバホ族の女主人に
おもいきり浮いているそのオブジェが何なのか聞いたところ、
彼女はうれしそうに(そう見えた)6才の息子が製作した蛇だと言った。

今、国立科学博物館で行われている
『インカ マヤ アステカ展』(写真左/中)のアステカのコーナーで
“ジグザグした蛇”のオブジェを見つけた。
削り損ないだと思っていた“ジグザグ”は削り損ないではなく、
そういうパターンだったことに12年を経て気づいた。

ネイティブ・アメリカンの制作物にはいろんな記号が使用される。
その『蛇』を調べてみたところ、それは

・稲妻
・男性器
・スピード
・見つからずに移動すること

などに関係するシンボルであり、
治癒や宗教的目的で使用されたものであるということがわかった。
この中で『稲妻』でピンとくるものがあった。

プエブロ・デ・タオスの宝飾品店で購入した際に
銀製のブローチ(写真右)の記号の意味を確認したところ、

・稲妻
・力
・熊
・姿を隠す

という答だったのだが、
その中で『稲妻』と『姿を隠す』は理解できるのだが、
『熊』と『力』の説明が納得できなかったのだ。
だが、今やそれが『蛇』『男性器』『スピード』であるならば
納得がいく。

・ブローチの中の『矢』が『男性器』を意味すること
・見つからずに移動すること
・蛇と稲妻と関係のあること

これらのことは日本の神話と共通点がある。
『山城国風土記』逸文を要約すると、
玉依日賣(タマヨリヒメ)が石川の瀬見の小川で川遊びをしていたところ、
丹塗矢(にぬりや:蛇・剣・雷神の形象)が川上から流れてきたので、
玉依日賣がそれを拾い上げて床のあたりに置いておいたところ、
懐妊し、男の子を生んだ。
その男の子が成人した時、玉依日賣の父、
可茂建角身命(カモノタケツノミコト)が酒を醸造して酒宴の席で
「お前が父親と思う人にこの酒を勧めなさい」
と言うと、
男の子は酒坏を持って天に向かい、屋根の瓦を突き破って天に昇って行った。
その男の子名は祖父に因んで、可茂別雷命と名付けられた。
丹塗矢の正体は大山咋神とする説がある。
●末社山神社(田端神社)境内
東京都杉並区荻窪1-56-10

成宗五色弁財天前からバイクで善福寺川に出てみようと思い、
地図を持っていなかったので、“感”で東に向かった。
うねった道路はどんどん細くなるが、なかなか川にぶつからない。
そろそろ、あきらめて引き返そうかと思ったところで、
石鳥居の前に出た(写真左)。
それが田端神社という、聞いた事のない社名の神社だった。
表道路が狭いので参道の脇の露地に愛車を停めた。

参道は奥の二ノ鳥居まで一直線で、両側は桜並木だ(写真中)。
3月の末ということで、まだ花は開いていなかったが、
蕾はかなり膨らんでいた。
桜並木が切れると二ノ鳥居までの両側には松などの別の潅木があり、
鳥居の手前には雄雌の銀杏の樹。
二ノ鳥居は黒塗りで稚児柱を持った権現鳥居だった。
すぐ奥に拝殿が見える。
一ノ鳥居から拝殿まで一直線だ。
二ノ鳥居をくぐると、拝殿は向拝部分にひさしを持った神明造りで
勝男木は5本。
拝殿の左脇には稲荷社と2基の庚申塔。
右脇の社務所の並びには素木の小さな鳥居があり、
鳥居の先には真新しい銅の屋根を葺いたばかりで
金色に輝く印象的な小祠が祀ってあった(写真右)。
この小祠、屋根に勝男木と千木を持っている
何が祀られているのか標札は無い。
改めて向側に在る庚申塔を眺めていたら、
自転車に乗った男性が境内にやってきた。
ここの関係者かと思ったら、さっきの小祠に参拝している。
拝殿には挨拶無しだ。
戻ってきたので、なんの神様を祀っているのか聞いてみたところ、
「さあ、知らないんです」とのこと。
地元の方のようだ。

一ノ鳥居まで戻ってそこに立っている由緒書きを読むと、
もとは応永年間(1394〜1427)に京都の北野神社を分霊した天満宮で、
明治42年になって村内にあった
天祖社、稲荷社、根ノ権現、山神社を合祀したものということだ。
となると、黒い権現鳥居は大国主命に由来するもので、
神明造りの拝殿と小祠の屋根は天照皇太神に由来するものだ。
小祠は稲荷社以外の3社を合祀したもののようだ。
さっきのおじさんが答えられなかったのも無理はない。
山神社とは大山祗神を祀った神社だ。
●末社山神社(田端神社)水脈環境
東京都杉並区荻窪1-56-10

4月の最初の週末に善福寺川を辿って
田端神社前の道に通ずる神通橋に出た。
神通橋を通る道路はそこから北東120m地点に在る
田端神社前に続いている。
この橋から東には善福寺川緑地公園が広がっており、
桜が満開だった(写真左)。
桜の種類は1種類だけではないようだ。
このあたりの善福寺川は比較的水量はあるものの流れは穏やかで、
堤防はきれいに整備されている。
●石部神社境内社
三重県いなべ市大安町石榑北

琵琶湖湖畔に向かうため、息子とバイクのタンデムで
23号線バイパスから三重県の桑名市から421号線に入った。
伊勢湾沿いの桑名市から鈴鹿山脈を越えて
琵琶湖畔の近江八幡市に至る421号線は
『八風街道』と呼ばれ、京都〜尾張を最短距離で移動するには
東海道や中山道よりも有利な旧街道だった。
421号線は桑名市を抜けるとほとんどが1車線のローカルな道で、
鈴鹿山脈に向かう道は車も少なく、快適だった。
鈴鹿山脈に近付き、
麓にあるいなべ市(三重県)の深い森の前を通りかかると、
421号線沿いに
オベリスクのように頭がピラミッド状になった門柱が立っており
『延喜式内石部神社』と刻まれていた。
すぐ奥に石灯籠が左右に立っていることから
もとは権現か明神なのだろうと思い、何を祀っているのか興味を惹かれた。
後で地図を見たらすぐ西に光徳寺という寺院もある。
石灯籠から1直線にコンクリート舗装された参道が
真北に向かって奥に延びているが、
すぐ奥にある大きな石鳥居には注連縄が腰の位置まで垂らしてあり、
(写真左)
あきらかに「そこを通るな」と言っている。
参道に平行して奥に向かう道があったので、
そちらから奥に進むと民家風の無人の社務所があった。
社務所前あたりから無理矢理参道に侵入すると、
両側は杉並木にほかの樹木の混じった背の高い濃い森で、
空もあまり見えず、樹海を割って進むモーゼのような気分だ。
かなり遠くに門のようなものと、その向うに石段が見えていたが、
近付いてみるとその門のようなものは黒塗りで、稚児柱を持っており、
権現鳥居のような金峯山寺の黒門のような、
見たことのない様式のものだった。
鳥居の笠木にあたる部分はあきらかに屋根になっているのだが、
その下には欄間があって、貫との間は粗い縦格子になっている。
中国の廟の門のイメージだ。
それをくぐると石製の太鼓橋があり、
正面の石垣の上に神明造の拝殿が立ち上がっていた(写真右)。
太鼓橋の下には川が流れているのだが、
地図を見ても表記が無く、どこに流れているのか不明だ。
ただ、境内から400mほど南に宇賀川が流れている。
石段を上がって拝殿左脇に回ると、
背後の山から湧いているらしい水流が
まったく整備されていない自然のまま、東に向かって流れ出していた。
おそらく太鼓橋下の川に流れ込んでいるのだろう。

拝殿は正面の壁以外の3方が開け放たれた状態で、
中央奥に非常に奥行きの浅い本殿があった。
鴨居には『石部神社』額と左右に龍のレリーフ。
どちらも朱塗りが醒めており、色が美しい。
拝殿内には多くの弓と太刀が奉納してあった。
拝殿右脇に回ると太い石鳥居と石灯籠を備えた境内社(写真中)。
境内に説明の表示板がいっさい無いため、
拝殿も境内社も何を祀ってあるのかまったくわからない。
境内社の前に『山神』と彫られた
丸くて大きな自然石が3基立っているところをみると(写真右)、
境内社の方には 大山祇命が祀られているのかもしれないと思った。

帰京してから調べたところによると
石部神社本殿の祭神は

・天照大御神
・天児屋根命

天児屋根命は藤原氏の祖神。
江戸時代には「春日明神」と称していたそうだから、
天児屋根命の方が本来祀られていた神なのだろう。

境内社の祭神は

・保食神
・素盞嗚命
・大山祇命
・天目一箇命 
・応神天皇

おもしろいのは天照大御神の弟である月夜見尊(ツキヨミノミコト)を
口から吐き出した食物で接待したために斬り殺された保食神が
天照大御神を主祭神とした神社の境内社に祀られていることだ。
そこには3男の素盞嗚命も祀られている。
●山神神社 
福島県西白河郡西郷村原中

都内上野からam3:30に
国道4号線(奥州街道=陸羽街道:日光街道:昭和通り)に入り、北上。
夜明けに宇都宮を通過して、神社が視界に入れば寄ろうと考えていた。
1/27000の地図では4号線両側に神社は多いのだが、
実際に4号線沿いにあるものは無く、
西郷村の、とある交差点で信号待ちしていたら、
左手に石碑の立っている林が視界に入った。
一目で神社だとわかった。
表通りからは少し引っ込んだ場所に石碑が2つ並んでおり、
その間に参道がある(写真左)。
右側の石碑には『山神神社』とあった。
参道は未舗装で敷石は無く、先の方に石灯籠と石鳥居、拝殿が見え、
そこまでずっと両側には杉の並木になっている。
石鳥居の前まで進むと手前に石橋があり(写真中)、
境内に沿った道路下の暗渠から水が流れ出ていた。
水は橋をくぐって鳥居前を流れている。
ここから50mほど南西には農耕用水らしき水路があり、
1kmほど北には阿武隈川の支流、堀川が流れている。
鳥居をくぐると正面に拝殿があり、その手前両側には石灯籠。
至ってシンプルな南向きの神社だった。
●日吉神社
福島県福島市松川町

国道4号線(奥州街道)と土湯温泉を結ぶ52号線周辺の
道沿いの土手の上に明神鳥居が立っていた(写真左)。
社殿(写真中)は素木のシンプルな建物でなだ新しく、
「日吉神社」の小さな素木の額が掛かっている。
中を覗くと旧い高床式神明造りの小祠が祀ってあった。
祠の両側には石製猿像が赤い座布団に鎮座していたが、
この猿像はそれぞれ、制作時代の異なったものらしかったが、
良い像だった(写真右)。
境内の北側には水原川が流れている。
このあたりの川床は70%くらいは土砂で埋まっており、
そこに自生したマコモの隙間を縫って水路がある。
水量は少なくない。
●大山祗命(神明社 末社山神社) 
愛知県名古屋市昭和区塩付通り6-51-1

am7:00 別の目的があって、塩付通りにある神明社に寄った。
一ノ鳥居は珍しい石製伊勢鳥居だった(写真左)。
鳥居をくぐって参道に入ると、すぐに内陣に入る5段の石段があり、
参道は正面にある社務所を避ける形に平行にずれて延び、
二ノ鳥居をくぐると正面に拝殿がある。
拝殿の脇に勝男木と千木を持った
神明造りの立派な小祠があり(写真中)、
そこに

・山神社=大山祗命
・八祖社=豊受大神
・八百万社=八百万神
・龍神社=竈神
・津島社=須佐之男命
・鬼王社=月読之命
・秋葉社=火之迦具土神
・月読社=月読之命
・天神社=菅原道真公

が合祀されていた。
境内から800mほど東には南北に山崎川(写真右)が流れている。
山崎川は千種区北東部に広がる平和公園内の猫ヶ洞池を源流として、
名古屋市の東部丘陵の西縁に沿って南西に流れ、
名古屋港に注いでいる。
●大山昨命(長等神社) 境内
滋賀県大津市三井寺町4−1

JR西日本の大津駅の旅行ガイドでもらった地図を眺めていたら、
琵琶湖から内陸に延びる水路があって、
その周辺にいくつか神社があったので、寄ってみることにした。
このあたりは路地が狭く、ほとんどが一方通行になっている。
道路をまたぐ格好で石製明神鳥居があったが(写真左)、
最初はその突き当たりにある鮮やかな朱の隋神門に目を奪われて、
境内をひととおり見学して、表に出てから気がつくありさまだった。
神社名の『長等』は背後にある長等山このあたりの地名。
長等神社は天智天皇が667年に近江大津宮へ遷都した際、
都の鎮護として長等山岩倉に日吉社から
素戔嗚尊、大山昨命の二神を勧請したのを始まりとしており、
それを貞観2年(860)に円珍が園城寺(三井寺)の守り神とし、
天喜2年(1054)に庶民が参詣しやすいように
長等山麓の現在地に移され、かつては『新宮』と呼ばれていたという。
明治38年(1905)に完成したという楼門は隋神が守っていた。
楼門をくぐると、すぐ目の前に“格子”を意識的に採用している
入母屋造の拝殿があった(写真中)。
照明装置として朱の雪洞と石灯籠の両方が立っている。
拝殿の奥には桧皮葺屋根を持った中門と瓦屋根の回廊に囲まれた、
桧皮葺入母屋造の堂々たる本殿が鎮座していた(写真右)。
境内社は

・稲荷神社
・両御前神社
・馬神神社
・笠森社
など

境内はさほど広くはない。
●大山昨命(長等神社) 水脈環境
滋賀県大津市三井寺町4-1

8月初頭の猛暑の中、長等神社から三井寺境内に沿って、
バイクで北にある三尾神社に向かった。
150mほど北にブロンズの柵で囲われた杜があったので、
その森の木陰にバイクを停めて咲くの中を覗くと、
柵の中は渓谷になっており、水路が見えた(写真左)。
水路の両側は土手になっており、林になっている。
その水路は琵琶湖第1疏水だった。
水路の先を見てみようと、徒歩で横に回り込もうとすると、
そこに神社があった。
それは三尾神社があった。
きっと目の前にある水に関わりのある祭神が祀られているのだろうと
推測したのだが、現在の主祭神はイザナギ、イザナミであり、
摂社、末社にも水に関わりのある神は祀られていなかった。
強いていうなら『ナギ』と『ナミ』は海に関係のある言葉だが、
一般にイザナギ、イザナミは水の神とは言われていない。
三尾神社は元は三尾明神であった。
その神は太古の卯の年、卯の月、卯の日、卯の刻、卯の方より
赤・白・黒の三帯を着して出現したと言われるが、
その性格は不明だ。
ぼくは間違いなく、琵琶湖第1疏水に関係のある神だと思うのだが、
神仏分離令によって、
三尾明神はイザナギノミコトにされてしまった。

琵琶湖第1疏水の横の柵越しに水路を見下ろすと、
土手からいっせいに野鳥が飛び立って、同じ土手に再び降り立った。
この疎水環境は野鳥にとっては天国のようだ。
少し上流にある橋から水路の下流を眺めると、
突き当たりの第1トンネル(暗渠)東口は
ゴシック建築風の水門になっており、鉄の扉が着いている(写真中)。
この疎水は5km以上南西にある天智天皇陵(京都市山科区)を抜けて、
最終的に鴨川に合流しており、鴨川合流点以下の下流も
琵琶湖第1疏水に含まれる。

橋から上流側を眺めると
石垣を組んだ中島が設けられているのだが(写真右)、
その役割がよくわからなかった。
●杜々の森 名水公園
新潟県長岡市大字西中野俣3996(旧栃尾市)

http://www.city.tochio.niigata.jp/kankou/todo/index.html
http://mizu.nies.go.jp/meisui/data/index.asp?info=28

売店では水を汲むためのボトルを売っています。
湧水のすぐ側に十二山神社があります。
案内看板を見ると
「会津野沢の大山祗神社からの勧請で十二山の神様を分詞」
とありましたので、とりあえずこちらのトピへ置かせてもらいます。

10月の第4日曜日には畳一畳分ある巨大油揚げを作る
イベントもあります。
栃尾名物ジャンボ油揚げはとてもおいしいです。
名水公園の説明板の文章は
ハートを感じさせる良い文章ですね。

栃尾名物ジャンボ油揚げには秋葉神社が関わっている説もあるようですが、
秋葉神社と言えば天狗ですから、
山中の疑似動物タンパクとして考案されたのかもしれないですね。
これ、つまみにして一杯やるといいという。
ゴクリ(笑)
●大山咋神(摂社山王日枝神社) 境内
東京都中央区日本橋茅場町1-6-16

赤坂山王日枝神社(さんのうひえじんじゃ)の摂社
茅場町の山王日枝神社を初めておとずれたのは
2006年の春だった。
Google検索で境内に役行者像があるという記述を見つけて、
見に行った。

摂社山王日枝神社は兜町の証券関係のビル群のど真ん中にあり、
日曜日なので、ビル街はひっそりしていた。
たどり着いたのは摂社山王日枝神社の南東側裏口だった。
境内に入って行者像を探すが、
大山咋神を主催神として祀った社殿、末社の稲荷社以外、それらしきものは無く、
社務所にも人気は無い。
境内には出入り口が南東、北東、北西にあり、
正面入り口は北西のビルの谷間にある。
境内をぐるっとまわり、北東の入り口を出てみると、
割烹着姿のおばちゃんが入り口脇にある和風の食べ物屋の周辺を
ほうきとチリ取りを持って掃き掃除をしていた。
行者像のことを聞いてみるが、聞いたことが無いとのことだった。
それも道理で、あとで調べてみると、
それは江戸時代に出版された『江戸名所図会』を見ての描写だったのだ。

『江戸名所図会』の出版以後、安政5年(1858)の大洪水、
神仏分離令、関東大震災、東京大空襲の洗礼を受けているから、
どの原因でも行者像は無くなる可能性はあったろう。

2度目はこの12月の始め、
隅田川から日本橋川をたどって、
摂社山王日枝神社正面入り口にたどり着いた。
バイクをビルの谷間の参道入り口に停めた。
ビルの谷間の参道には赤、黄、青、緑の4色の幟が並んでいた。
ビルの谷間を抜けた場所には素木の台輪鳥居と石製明神鳥居、
狛犬、石灯籠が並んでおり、
空には黄葉した銀杏の大木がそびえている(写真左/中)。
参道正面は社務所で、その右隣に
主祭神の大山咋神の祀られた銅葺き屋根日吉造拝殿。
拝殿前は雪洞と水桶。
拝殿正面には二葉葵の神紋の紫の天幕が掛かっている(写真右)。
二葉葵は賀茂一族に関わるものであり、役行者は賀茂一族の人間だ。
●大山咋神(摂社山王日枝神社) 水脈環境
東京都中央区日本橋茅場町1-6-16

摂社山王日枝神社の北東100mあたりを
隅田川の支流になっている日本橋川が流れている。

江戸時代の山王祭では、山車は夜明け前に各町内を出発し、
赤坂山王本社前で神輿と合流。
1.2kmほど北にある半蔵門から江戸城内に入って将軍の上覧に預かり、
江戸城北側の竹橋御門から内郭を出て、常盤橋御門へ進んだ。
山車と練物はここで行列を離れ、
神輿のみが八丁堀北嶋(現茅場町)の
『お旅所山王宮(現摂社山王日枝神社)』へ向かい、
神事をとりおこなって、本社にもどった。
神輿は船で神幸していたというから、
竹橋を通っている日本橋川を利用したのだろう。

『お旅所山王宮』は明治に入って、摂社『日枝神社』と改称された。

摂社山王日枝神社から北150mあたりにある『鎧橋』で日本橋川に出てみた。
江戸時代には『鎧橋』は無かった。
元禄年間(1688〜1704)以降、明治5年まで、
ここには渡し場があって、『江戸名所図会』に図が残されている(図版中)。
向こう岸の現日本橋小網町側には倉が建ち並んでいる。

『鎧橋』の名称の由来は平安時代に源頼義が奥州平定に向かう途中、
ここで暴風逆波にあい、鎧を海中に投げ入れ、龍神に祈りを捧げて、
無事に渡ることができたことから、
この場所が『鎧が淵』と呼ばれるようになったことによる。
日本橋川には首都高速道路が覆い被さり、
鎧橋から川面を見下ろしても暗い水面が見えるのみだ(写真右)。
●稲爪神社
兵庫県明石市大蔵本町6-10

稲爪神社の祭神は、大山祇神。
縁起を要約すると、
「推古天皇の時代、三韓の軍勢八千人が、鉄人に率いられて攻めてきた。だがどうしても鉄人を射ることが出来ない。そこで大山祇神に祈ったところ、稲妻と共に大山祇神が降臨して、鉄人の弱点の足の裏を射よと宣わった。そして勝利。」
稲爪は、稲妻なんですね。
でっかい破魔矢が印象的です。
●稲爪神社 水脈環境
兵庫県明石市大蔵本町6-10

大山祇神は海神です。
しかもここでは、おそらく明石海峡の守護神なんでしょう。
縁起もそれを物語っていますね。
初めまして。伊予の大山祗神社は、代々越智氏が神職をされまして、源氏、平氏から、又、天智天皇、河野氏、源義経等の物が奉納されています。松山藩の久松松平氏も関係しており、海だけではなく、山の神でも有り、戦いの神でも有ります。家が氏神としている総本社になります。失礼しました。
百済からとなっていたんですね。分かります。
家の昔の歴史には田の神様は山でありましたから。
そして、島が海であった時代も有りましたが、船で行き来していたのですが、安全祈願をする際には家の先祖の氏神社では神様を集めて安全祈願を行っていたようです。天智天皇が建てた寺と隣には氏神社、総本社か大山祗と言う事で、百済との関係が分かるような気がしました。その時代から新田開発があちこちに広がっていったような気がしました。あくまで私が調べた範囲なので、分かりませんが。 ただ疑問があるのは、何故、海津見、綿積見等字が違ったり、大山祗、三島神が時には同じように見えたりするわりに、名前が違うのか?その辺りが分かりません。四国はあちこち長曽我部時代には寺が焼かれ、山内時代に再建があったりもし、神仏分離で神社関係になった方が多いようです。家の先祖代々の墓地は神社の上の方に有りました。

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