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水流と水神コミュの弁財天(仏像/神像)

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※像が無くて、祠とお札の形式の市杵嶋姫(弁財天)は
 [市杵嶋姫(弁財天)]トピックに書き込みお願いします。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17538650&comm_id=2078517

※8臂で頭に宇賀神を戴せている弁財天、
 蛇体の弁財天は
 [宇賀弁財天]トピックに書き込みお願いします。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=19110536&com

古代インドの河神(女神)であるサラスヴァティー(Sarasvati)が
仏教、神道に取り込まれたもの。
河の流れる音からの連想から音楽神とされ、
琵琶を持った2臂像が多い。

別称=
 弁才天
 妙音天
 美音天

《目次》
●弁財天(愛知県名古屋市 田光八幡社)=書き込み50/51
●弁財天社(愛知県名古屋市 闇森八幡社)=書き込み52/53
●弁財天堂(愛知県名古屋市 笠寺観音)=書き込み11
●蝦蟇ヶ池弁天堂 (岩手県西磐井郡)=書き込み39/40
●弁財天尊(大阪府箕面市 瀧安寺)=書き込み14/15/32/34
●旗上弁天社(神奈川県鎌倉市 鶴岡八幡宮)=書き込み12
●弁天堂跡(神奈川県川崎市)=書き込み23/24
●白龍瓣才天(神奈川県横浜市 妙法寺)=書き込み28/29
●龍神王(神奈川県横浜市 徳恩寺)=書き込み49
●八臂弁財天(埼玉県入間市 円照寺)=書き込み1/3/5
●辨財天(静岡県 来宮神社)=書き込み43/44
●龍王弁財天 (群馬県渋川市 水沢観音)=書き込み20
●弁財天(千葉県我孫子市 葺不合神社 拝殿)=書き込み30/31 
●弁財天(東京都 厳定院)=書き込み16/19
●妙音弁財天(東京都 西向天神社)=書き込み21/22
●岩屋弁天(東京都 蟠龍寺 岩屋)=書き込み7/10
●弁財天(長野県駒ヶ根市 宝積山 光前寺 辨天堂)=書き込み59/60
●厳島弁財天(広島県 亀居山放光院大願寺)=書き込み56/57
●弁天岩 (兵庫県芦屋市)=書き込み45
●弁財天(新潟県糸魚川市弁天岩 能生白山神社境内外末社厳島神社)=書き込み23/24
●辨財天(宮城県石巻市 黄金山神社 石像)=書き込み54/55
●龍泉弁財天杜(愛知県名古屋市守山区)=書き込み58

↓MAP
http://www.google.co.jp/maps/ms?ie=UTF8&hl=ja&om=1&msa=0&ll=35.839727,139.3466&spn=0.0015,0.001658&t=k&z=19&msid=113844027188609943916.00000112f4f3b2e75fa4a

コメント(60)

●妙音弁財天(西向天神社)境内
東京都新宿区新宿6-21-1

歌舞伎町の北側を東西に通る、いわゆる職安通り(302号線)を
新宿方面から西に向かって急坂を登ると、
道は二手に分かれ、その二股に抜弁天厳島神社がある。
小さな境内に池はあるのだが、ほかに水気は無く、
なぜそんな場所に天厳島神社があるのか不思議に思ってきた。
その抜弁天厳島神社のある交差点から南西に下る急な下り坂があって、
下りきったところに西向天神社(にしむきてんじんしゃ)がある。
名称の通り、拝殿も入り口も
主祭神菅原道真の埋葬されている西(太宰府)を向いている。
入り口は坂の下だが、拝殿は石段の上にあるから(写真左)、
拝殿は抜弁天厳島神社と同じ高さの場所にあるようだ。
そして西向天神社の祭神には嚴島大神が含まれている。
拝殿と社務所の間には渡り廊下があり、
その渡り廊下の前に水の枯れている手水桶がある。
手水桶は玉砂利の敷かれた、やはり水の枯れた
水路らしき中に置かれていて、
その水路らしきものは拝殿の回廊に沿って奥に向かっている。
そして、その水路らしきものの突き当たりに扉の無い祠があって、
そこには妙音弁財天の石像が祀られていた(写真中)。
渡り廊下の奥には入れないようになっているので、
妙音弁財天(写真右)は手水桶の場所から眺めることしかできない。
この弁財天の祠の両脇には神使としてイタチのような石像が見えるが、
平清盛は貴狐天王(キツネ)を妙音弁財天の化身としていたというから、
おそらく狐なのだろう。

拝殿の並びには西向天神社の別当寺である、
天台宗の大聖院(だいしょういん)があり、
その前はブランコとベンチしかない公園になっている。
その公園には「雨水(うすい)貯留・浸透施設」の説明板が立っていた。
●妙音弁財天(西向天神社)水脈環境
東京都新宿区新宿6-21-1

西向天神社の拝殿の並びにある別当寺大聖院(だいしょういん)の
前は公園になっており、
そこに「雨水(うすい)貯留・浸透施設」の説明板が立っている。
説明にあるように大聖院前の公園は浅いプールになっている。
(写真左/中)の手前のコンクリートのたたきは堤防で、
公園の縁はコンクリートの堤防が巡らせてある。
ブランコ、ベンチはプルの中にあることになる。
このプールに水が溜まっても通り抜けられるように、
敷石が並んでおり、
大聖院不動堂も1段高いコンクリートのたたきの上に乗っている。
こうしたトリッキーな出水対策は初めて知ったが、
新宿区ではほかにもこれに類した施設を見たことがある。
つまりこの公園は大雨が降れば
弁天池(?)に変身する施設ということになる。

西向天神社前の路地の坂の頂点にある抜弁天交差点からは
北側に流れ落ちていると思われる暗渠があり、
その暗渠は途中で枝分かれして、
職安通り(302号線)の下を抜けて、西向天神社前を通っている。
2つに分かれた暗渠は
明治通りから1本入った場所にある
広大な空き地に流れ込んでいるように見える。
ここは都の持ち物なのか、
森ビルがわずかに残っているビルの立ち退きを待っているのかは
不明だが、
この周辺ではもっとも低い土地で、
もしかするともとは池か湿地だった可能性がある。
●弁天岩 厳島神社
新潟県糸魚川市能生(旧能生町)

すぐ近くの能生白山神社の末社です。
御神体の弁財天は白山神社にあり60年に一度の本開帳、
30年に一度の中開帳のときにこの厳島神社にお遷しされます。
昨年の平成18年が本開帳でした。
http://nunagawa.ne.jp/benten/gyouji.html

この岩の上には龍神も祀られています。

夏にある弁天岩から打ち上げられる花火大会は
花火が海面に映りとても美しいです。
>やぎすけさん

いつも書き込みありがとうございます。

能生白山神社で行われる神楽(雨乞いの舞)に登場する陵王(写真)は龍王なので、
面に龍が付いてますね。
●弁天堂跡
神奈川県川崎市川崎区田町3-11-2

9月の末の夕刻
若宮八幡神社の宝物殿に収められている海苔弁天(写真左)が
もともと祀られていたという田町の弁天堂跡に行ってみることにした。
それは若宮八幡神社から2.5kmほどほぼ真東にある公園の中にあった。
その公園の表道路の向かい側は埋め立て地の工場地帯になっており、
現在もっとも近い海は公園から150mほど南東にある末広運河の港だが、
江戸時代には弁天堂は大師浜都やばれた海岸のすぐ近くにあったようだ。
公園の西側入口付近に愛車のバイクを停めて、公園に入ると、
広場の左手に森があり、その中に社殿が建っていた(写真中)。
屋根はトタン板葺きで、壁は水色にペイントされていて、
それほど痛んでいるわけでもないから、
若宮八幡神社に遷座されたのは、参拝する人がいなくなったのだろう。
ここは京急大師線の小島新田駅から
距離的には200mほどしか離れていないのだが、
周囲を完全に日本貨物鉄道の線路に囲まれて
孤立した場所になってしまっており、
おそらく埋め立て地にある工場の関係者の住宅しか無いような
場所になっている。
日本貨物鉄道の線路をまたいで、その孤立した場所に渡る、
いつくしま跨線橋というのが公園の目の前を通っているから、
昔は厳島神社になっていたのがわかる。
海苔弁天という名称になっているように、この弁財天は
江戸時代中頃に大師浜で大師海苔の養殖を行っていた海苔師たちの
守護神だったが、大師浜に石油コンビナートができたことで、
海は汚染され、海苔師たちは姿を消してしまったようだ。
ただし、川崎大師駅前の表参道には、
今でも三代以上続いた乾海苔専門店が三軒も並んでいて、
今でも、良質で有名だった大師海苔のイメージ通りの、
本場の海苔を扱っていることで、知られている。

社殿の中を覗くと、中は倉庫になっていた。
帰り際、陽の落ちかかった公園の入口に七変化が咲き乱れていた(写真右)。
●弁天堂跡 水脈環境
神奈川県川崎市川崎区田町3-11-2

弁天堂跡から150mほど南東にある海に出てみようとしたが、
そこは工場の敷地内で出られなかった。
やむなく、工場の敷地を南の方に400mほど迂回すると、
小型のボートが並んで駐車(?)している水路があった(写真左)。
水は奇麗とは言いがたい。
そこに沿った道に入ってゆくと、釣りをしている人が何人もいた。
その道路の先は港になっていた。
いかにも工場内の港といった感じで、
荷揚げ用のクレーンが林立しており、
ランチが停泊している(写真中)。
地図で確認するとここは末広運河に続く袋小路だが、
港を出ると、先にはかなり広い大師運河があり、
多摩川までも1.2kmほどだ。
港の対岸はギッシリ、工場の施設で埋まっていた(写真右)。
●白龍瓣才天(妙法寺)境内
神奈川県横浜市磯子区杉田5-3-15

横須賀街道(16号線)を横須賀方面から北上し、
磯子区の青砥坂を過ぎてすぐ、西の路地に入り、道なりに北上すると、
日蓮宗の紫地に橘紋を抜いた幕の絞られた大きくはない山門にぶつかる。
山門正面には銅板葺き屋根の立派な本堂がある。
彼岸会(ひがんえ)ということで、境内には参拝客が多い。
本堂の西側には小高い丘に森が連なっており、
そちらに白地に墨で「南無白龍瓣才天」と染めてある幟が
両前にはためいている、やはり銅板葺き屋根の小さな堂があった(写真左)。
脇背後には石段と牛頭天王殿。
白龍瓣才天の堂の後ろには蓮の葉が茂っていた。
弁天像は石像で、変わった冠を被った、渡来色の強い風貌をしている。
(写真中)
象はすべて濡れており、大きなタワシがおいてあるから、
参拝者はそれで磨くようだ。
堂の天井には2匹の白龍が描かれている(写真右)。
色はほとんど、雲にしか着いていない。
一方、堂の柱は4本とも石の基石に乗っており、
その4方の基石には天井と同じ風貌の龍が先刻されているが、
こちらは波の中から頭をもたげていた。
●白龍瓣才天(妙法寺)水脈環境
神奈川県横浜市磯子区杉田5-3-15

牛頭天王殿への参道の左手に白龍瓣才天堂があり、
右手には庭園として整備された池がある。
水は淀んでいるが、大きな緋鯉が何匹も泳いでいた。
●弁財天(葺不合神社 拝殿) 境内
千葉県我孫子市新木1812

4月末の週末、
バイクで柏市から356号線(成田街道)に入り、香取神宮に向かっていた。
我孫子市街を抜けると。道路は2車線だが、空いていた。
途中、読みのわからない額を掲げた、
石製明神鳥居の前を通りかかったので、
Uターンして鳥居の前に戻って、路肩にバイクを停車した。
車を入れるスペースはまったく無かった。
額と石柱には「葺不合神社」と刻まれている。
鳥居をくぐると、参道両側に
羽黒三山石碑、阿夫利神社石碑、庚申塔などの石像物が並んでいる。
神仏習合の場所だったようだ。
細い参道はすぐに、長い下り階段にぶつかった。
眼下には鬱蒼たる森と荒れ地の間を抜ける参道が伸びており(写真左)、
石灯籠、石鳥居が見える。
その参道の突き当たりにある二ノ鳥居の向こう側には
こんどは登り階段が立ち上がっており、神殿がある。
二ノ鳥居には両側の柱に笹竹が添えてあり、暖簾のような
くぐり抜けられない注連縄が下がっている。
鳥居脇の由緒書きによると、
独立した厳島神社の社殿の八臂弁財天像を脇に遷し、
背後の丘の上に字宮前にあった葺不合神社本殿を当地
字竹ノ内に移して、白山神社とともに合祀し、
主祭神を鵜葺草葺不合命とされたものだ。
「鵜葺草」が頭に付いている名称を見たら、すぐに
「ウガヤフキアエズ」という言葉が頭に浮かんだ。
それで、初めてこの神社の名称が
「ふきあえずじんじゃ」であるとわかった。
ただし、その場ではウガヤフキアエズがどんな神かわからなかった。
それは
山幸彦(ホオリ)と海神の娘である豊玉毘売(トヨタマビメ)の子であり、
神武天皇の父である。

石段を上がるとすぐ正面に寺院風の拝殿(写真中)があり、
拝殿の階段上がり口にも二ノ鳥居と同様の笹竹と注連縄が張られていた。
注連縄は侵入を拒否しているように見えたので、
拝殿の左手から真裏の高台にまわると、
豊玉毘売らしき石像、蚕影山神、鵜葺草葺不合尊の石碑、
凝った浮き彫りのある本殿があった。

手水舎が見当たらなかったが、
注連縄をよけて、拝殿に上がった。
この拝殿の正面桟には
笙や蓮の花を持った天女を描いた大きな奉納額がかかっていた。
拝殿にあると思われる八臂弁財天像の姿には気づかなかった。
この拝殿には桟の周囲には
すでに色が剥げ落ちてきているが、波の模様が巡っており、
別の段に菊と唐草模様。
さらにその下層には白蛇が2匹刻まれていた(写真右)。
●弁財天(葺不合神社 拝殿) 水脈環境
千葉県我孫子市新木1812

拝殿を降り、ちょっと風変わりな拝殿全体をカメラに収めようと、
ふたたび、弁財天石像に向かう坂の途中に上がると、
地元のおじさんらしき人物が現われ、参拝して、拝殿の前にただづんだ。
去る気配が無いので、
ぼくは撮影は後回しにして、そのおじさんに声をかけ、
この周辺に池か川があるかたずねた。
川が南北の両側にあるとのことだが、
両川とも、近くはないとのことだった。
後で調べたところ北側に東西に流れているのが利根川、
南に東西に流れているのが手賀川だった。
葺不合神社はちょうどその中間位置にあり、どちらにも1.3kmほどだ。

川
水田
住宅(葺不合神社)
水田
川

というように川に沿って、サンドイッチ状になっている。

ぼくが川に出てみることをそのおじさんに伝えると、
近所を案内してくれることになった。
ふたりで拝殿前の石段を降りていると、
そういえば、数年前まで境内に池があったと言い出した。
なんと参道脇は池だったという。
その池だったらしき湿地帯に沿って、道があり、その道の入口に
「鯖大師万人講」という弘法大師にまつわる石碑が立っていた。
おじさんはさっさと、その石碑の前を通って、道に入ってゆく。
その道はおじさんの散歩道になっているらしい。
その元池は朽ちた竹が倒れ、竹の葉が降り積もって荒れ放題の状態だった。
(写真左)
おじさんは両側が森の細道を進んでゆく。
やがて、その森を抜けると、目の前に畑が広がった。
すばらしい風景をおじさんは自慢したが、それはぼくも同感だった。
その畑の中の道から、さっき見た葺不合神社本殿に回れるとのことだったが、
ぼくは元池をチェックしたかったので、
ふたりで、元来た道を戻った。
ぼくが、池のあったらしき薮に踏み込んでゆくと、おじさんも着いて来た。
タケノコがあちこちから頭を覗かせている(写真中)。
大きなものはいつでも採集できそうだ。
そこは湿地帯らしい雰囲気はあったが、水はもう残っていなかった。

参道に戻ると、竹薮を覗き込んでいる中年の女性がいた。
どうもタケノコを採りにきたようだ。
ぼくらが参道に現われると、姿を消した。
参道途中の小さな石橋の下には水路があったようで、
水路はさっきの湿地帯に向かっているが、
それは枯れ葉で完全に埋まっていた(写真右)。
拝殿をもういちど見たかったので、その石橋で、おじさんとお別れした。
書き込み14の補足

写真右:神社形式の奥殿と拝殿様子。
写真左:弁才天の三摩耶形、琵琶の額。
書き込み15の補足

箕面の大瀧は、別名「女瀧」とも呼ばれる。
往古、ここには、役行者が弁才天を祀った。
日本最古の弁才天である。
今は、下流の龍安寺に祀られている。
書き込み15に詳しい。

さて、ここ箕面大瀧にはかつて龍窟が有った。
役行者が、龍樹菩薩から秘法を授かったという龍窟だ。
役行者は篭もり行をしていたのだと思う。
だが、龍窟は地震で崩落し、今はどこに有ったのかさえ分からない。
大瀧には尊像も一つもない。
何も知らない人には観光地でしかないだろう。
崩落の後さえ分からず、自然に溶け込んでいる。
事実、いつ行っても観光客でいっぱいだ。
何で勤行しているのか、みんな不思議がっているだろうな。
知っているのは、茶店のおばちゃんくらいかもと思うと、ちょっと淋しい。

さて、昨日6月7日。
役行者のご命日であった。
墓参の為に天井ヶ岳に向かう前に、大瀧にも参拝した。
小さな男の子が、勤行を終えた僕に尋ねた。
「お願い聞いてくれるの?」
「もちろん聞いてくれるよ。何をお願いするの?」
「内緒〜!」
小さな天使との会話であった。

さて、大瀧を女瀧とも言うと書いた。
女瀧でも瀧行をしたことはあるが、かなり肉体的に無理があった。
落差と水量が凄いのだ。
今は、上流に浄水用の貯水ダムが出来ていて、水量は人工的に調整されている。
かつては、もっと凄い瀑布だったのだろう。
物理的に女瀧で、瀧行は無理だっただろう。
でだ。
男瀧という瀧が有るのだ。
大瀧の上流だ。
役行者が瀧行をしたのは、実は男瀧の方だ。
行ってみると分かるが、瀧行場として整備された後が分かる。
だが、かつては祀られていたであろう、水神系の尊像は一つも残されていない。
また、長い年月の間に、瀧壷がえぐれていて、足が届かない。
立ち泳ぎをしながらの瀧行である。
泳げない人は、無理です。(笑)
現在は、男瀧で、瀧行をする人は希なのだろうか。
僕以外の人に、男瀧で会ったことはない。
いつか、男瀧に、お不動さんか、弁天さんを祀るのが、僕の夢である。


写真右:箕面大滝(女瀧)
写真中:男滝
写真左:男滝で滝行の前に、結界を張る僕
さらに書き込み14のについての疑問

大黒天、毘沙門天、弁才天の三尊形式は、最澄が比叡山に三面大黒天を祀る以前の、古い形式なのではないかと思うのですが、どなたかご存じですか?
>さとちゃんさん

書き込み32の「琵琶の額」の琵琶は実物ですか?
それとも、フィギュア?


>AYUさま

フィギュア……。
出来れば、木彫と言って頂きたいのですが……。(笑)
>さとちゃんさん

実物の琵琶も木彫りだから、
この場合は「木彫」という単語では意味が伝わりにくいし、
「模型」ではスケールダウンした実物という意味になってしまうので、
あえて(笑)
岩手県西磐井郡平泉町平泉字北澤16番地
蝦蟇ヶ池弁天堂

蝦蟇ヶ池臼護岸から平安末期のかわらけが大量に発掘されたそうです。

もう一度行ってみたい古刹です。
>キャスバルさん

蝦蟇ヶ池弁天堂 は西光寺内にあるんですかね?
かわらけは西光寺の建材だったのか、
あるいは廃仏で不要になった弁天堂 のものなのか。
●辨財天(来宮神社 境内社弁財天社)
静岡県熱海市西山町43-1

横浜在住のマイミクドルフィン雅晴さんの車で
JR来宮駅裏にある来宮神社駐車場に滑り込んだ。
天候は晴れ、時間はam9:00前くらい。
メンバーはほかに徳島在住のふたり、マイミク典☆てんさんとMさんの4人。
入り口に回ってみると、焦げ茶色の明神鳥居の奥は森で包まれており、
参道は薄暗い。
参道の両脇は種々の磐座があちこちにあり、大楠などの大木が立ち上がっている。

拝殿で参拝を済ませ、この神社の名物、大楠を見学すると
宮神社拝殿の右手に同行典☆てんさんが向かった。
見ると素木の宗忠鳥居の向こう側に朱の欄干を持った橋が架かっており、
辨財天の幟が立っている。
鳥居の脇に『辨財天のいわれ』の表示板があって、
そこにはこの神がもとは金華山(宮城県)に祀られていた辨財天で、
祈願が満願になった徳川家の武臣大久保某の前に宝珠石を表わしたり、
その霊体に北辰七星破軍の姿を顕示したという伝承があり、
大久保某の屋敷に分祀されていたようだが、
その神は秩父霊場(現秩父神社)を経由して、卜占の結果、
この来宮神社に安置されたものという。
ここの弁財天は神像があるかは不明だが、市杵島姫の表示は無く、
「辨財天」とされている。

鳥居をくぐり、橋を渡って石段を上がると、流れ造りの社殿があった。
社殿の頭貫には動きのあるファニーフェイスな龍の浮き彫りがあり、
紫の神前幕、大きな長提灯、カラフルな神紋、鈴紐、奉納千羽鶴がにぎやかだった。
(写真左)
典さんの後ろで瞑目すると、白い光が見えた。
それは水晶のようなクリスタルな多面体の光だった。
目の前の神前幕に三鱗紋が白抜きになっているのを見た瞬間、
この三鱗紋がクリスタルを平面的に表現したものであることを直感した。
そして、三鱗紋は我が家(桓武平氏)の家紋でもあった。
典さんの意見では
「白い光」は「白蛇」を意味するのではないかということだったが、
なるほど、辨財天社施設に多用される朱色は神体の“白”と組み合わせて、
“ハレ”を演出するためのものなのかもしれない。

ここには蛇体像が2体祀られていて、社殿の中に小さなものが1体、
社殿前の大岩の上に1体、
直系が1mくらいありそうな、とぐろを巻いた蛇体像があった(写真中)。
蛇体像の下は池だ。
辨財天社を下って池の前に出てみると、
この辨天社は大きな磐座の上に乗っている形になっていることに気づいた。
この磐座は境内社稲荷社の入り口にあった磐座と同様、
中央に溝のある陰石だった。
●辨財天(来宮神社 境内社弁財天社)水脈環境
静岡県熱海市西山町43-1

弁財天社の入り口には朱の欄干を持った橋があり(写真左)、
池(写真中)をまたいでいる。
社殿前には樋が切ってあって、量は少ないが、水が流れ出ていて、
社殿下の池に落ちていた(写真中)。
来宮神社の本殿裏には地図に記載の無い小さな渓谷があって、
水が豊富だった(写真右)。
ここは岩戸山の麓にあたるが、岩戸山は湧き水の豊富な山のようで、
岩戸山山頂下の貯水池から流れ出した糸川が来宮神社に沿って流れている。
ここから熱海港までは900mほど、糸川沿いは桜の名所になっているようだ。
●市杵島姫大神(和田神社)
兵庫県神戸市兵庫区和田宮通3-2-45

和田神社の祭神は、蛭子大神、市杵島姫大神、天御中主大神。
このうち市杵島姫大神=辨財天は、「兵庫七福神」巡りのトップバッターである。
また、「清盛七辨天」巡りのトップバッターも努める。
「清盛七辨天」とは、平清盛が厳島神社を勧請した際に、宮島にある七つの海岸にちなんで、兵庫の七カ所に辨財天をお祀りしたのが始まりとのことである。

写真左、境内のブロンズの辨財天像。
写真中・右、香炉の向こうにも辨財天さま。
●弁天岩
兵庫県芦屋市奥山

六甲山は、修験の山です。
山伏たちの修行の霊山であり、女人禁制の時代もありました。
そして色々な祈祷・祭祀の山でもありました。
「弁天岩」はその一つです。 (写真左)
ここでは、雨乞いの祈祷が行われていました。

「弁天岩」の下の川に、磐座があります。 (写真中)
「フカ切り岩」といいます。
瀧の向こうの、枯れ草が被さっている岩がそうです。
干魃の時、鱶(フカ)を捕ってきてここまで運んできます。
これだけでも大変な労力です。
そしてこの岩の上で、山伏が三日三晩祈祷します。
その後、ここでフカを切り刻んで、弁天岩に投げつけます。
弁天岩をフカの血で汚すわけです。
不浄を嫌う弁天様が血を洗い流すために雨を降らせる、
あるいは、弁天様の怒りが雨になるのです。

弁天岩の上の方に回ってみます。
ここは、修験の床堅(とこがた、止観=座禅=瞑想)の修行に良さそうです。
かつては、そういう行場だったのではないでしょうか。
そして、よく見ると、
誰が祀ったか、弁天岩の上には、弁天様の小さな御像が! (写真右)
この日、一番ほっとなごんだ瞬間でした。
●前立弁財天像(竹生島宝厳寺 本堂拝所内左)
滋賀県長浜市早崎町1664

竹生島行はマイミクのOさんのお誘いによるものだが、
バイクで行けないこともあって、竹生島にはいちども行ってなかった。
am 9:50 待ち合わせした長浜市の琵琶湖観光船のりばには
マイミクのミヨさん、
友ケ島ですてきな歌舞を魅せてくれた和歌山の木村屋旅館の歌姫加代さんほか、
Oさんの友人たち総勢9名が現れた。
船は間もなく出発したが、船上から眺める琵琶湖は山が迫っているせいか、
日本一広い湖という感じはない。
長浜市の湖岸から竹生島までは6km。
やがて船が竹生島に近づくと、
山の森に埋もれた竹生島宝厳寺(ほうごんじ)が見えたのだが(写真左)、
GoogleMapにもYahooMapにもこの寺院はまったく表示されてなくて、
都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)しか表示が無く、
よく意味がわからないところがあるのだが、
宝厳寺がかつて都久夫須麻神社と習合していたとはいえ、
現在は宝厳寺独自のイベントがあったりするんだから、
地図不表示は観光協会で問題になってないんだろうか?
船は宝厳寺下の入江に到着した。

竹生島桟橋から行基開山になる宝厳寺の石段下まで、
両側に続く土産物屋の立ち並ぶ参道を抜け、165段という急な石段を上がった。
石段を登り切ると、参道は左方向に伸び、その行く手正面に
二層の屋根を持った入母屋造本堂があった。
屋根には千鳥破風が乗っている。
弁才天堂らしく、木部は朱塗りで、鴨居部分は白壁だ。
弁才天を祀った本堂としては、
これまで見てきた中でも飛び抜けて大きく、モダンな建物だ。
http://www.y-morimoto.com/saigoku/saigoku30a_12.jpg

ここに祀られている本尊の弁才天は60年に一度しか開帳されない秘仏だが、
広い拝所左右には半丈六仏だろうか、
大きな弁財天像2体が前立として祀られている。

奥の壇は暗くて見えないが、
明るい拝所前の両側隅には木造白塗りの弁財天像が祀られている(写真中/右)。
ネット上にはこの前立の弁財天像が紹介されているので、
これら2体の弁財天像がここの本尊だと思い込んでいた。
しかも白塗りが「何か、安っぽいな」という印象しかなく、
個人的には、それが竹生島に惹かれなかった大きな要因になっていた。
しかし、実際の前立弁財天像の印象は違った。
対で奉納されたものと思った前立弁財天像は同行したマイミク・ミヨさんによって、
異なった時代に奉納されたものだと知った。
調べてみると、右の弁財天像の方が40年旧く、
こちら左の弁財天像は慶長10年(1605)に奉納されたものだった。
撮禁だろうと思ったが、念のため、
横で社務を担当している女性に確認してみたところ、撮影可だった。
すでに400年以上経っている仏像だけあって、
人の手の触れやすい蓮花座花弁の胡粉が剥げ、素木の地が露出していた。
白地の上に苔色が彩色されていたように見える。
持ち物も戟と箭が破損しているが、それ以外の
宝珠・宝剣 ・輪宝・斧 ・三鈷杵と、右手最上段の不明の道具は健在。
この不明の道具は8の字の上に宝珠が乗っていて、これまで見たことの無いものだ。
直感的に「生命」に関する道具ではないかと思うのだが…
●前立弁財天像(竹生島宝厳寺 本堂拝所内左)水脈環境
滋賀県長浜市早崎町1664

長浜市の琵琶湖観光船のりばから観光船で宝厳寺のある竹生島に向かった。
船上から眺める琵琶湖は山が迫っているせいか、
日本一広い湖という感じはない(写真左)。

竹生島の浮かぶ琵琶湖が伊賀(三重県)から移動してきたことは
マイミクうほっちゃさん情報で知ったが、
その形成は古琵琶湖層群の地質調査によってくわしいことがわかっている。
琵琶湖の元は現在の伊賀市平田にあった大山田湖(図版中)で、
約400万年前に断層運動でできたものだという。
大山田湖からはワニの化石が大量に出土しているというから、
因幡の白兎の皮を剥いだのがサメだという説もあるが、ワニもありなのだ。
ただし、出雲神話時代よりも大山田湖の方がずっと旧そうだが。
その大山田湖はいったん流送土砂で消失して、
約300万年前に再び出現した。
その時の名称は阿山湖と呼ばれたが、この湖もやがて消失し、
次の時代に少し東北側に深い甲賀湖が出現。
甲賀湖も湖底の隆起で消失し、約150万年前以前には湖水は古瀬田川を通り、
古桂川が合流し、奈良盆地に流れ込んで古奈良湖を形成していたという。
さらに約260万年前には現滋賀県蒲生町付近に沼沢地ができたが、
これも干上がって消滅した。
そして約100万年前に現堅田付近に小さな湖が形成されたが、
そこが約40万年前に隆起し、断層運動によって、
陥没した凹地に現在の琵琶湖が形成されたという。
瀬戸内海も元は点在する複数の湖だったし、
濃尾平野も丸ごと海だった時代があって、長いスパンで見ると、
列島が激しく動いていることに、驚かされる。

宝厳寺本堂のある高さから見下ろした琵琶湖は空との境界線が霞み、
そこに水平線があるのか、陸が見えるのかはっきりしない(写真右)
●弁財天(田光八幡社)
愛知県名古屋市瑞穂区大喜新町3

12月の中旬 晴れ。
田光八幡社(たこうはちまんしゃ)に向かった。
南区から国道1号線を北上し、
右折して大喜新町(だいぎしんちょう)の路地に入った。
この路地はかつて鎌倉街道だったようだ。
田光八幡社の南東400mあたりには
田光町(たこうちょう)があるにもかかわらず、 田光八幡社との間には
大喜町が存在し、田光八幡社と田光町は離れた場所にある。
しかし、田光八幡社が田光町から遷宮されたわけではないようだ。
田光八幡社は大喜氏によって創建されたが

田光(タコ)=大喜(呉音:タコ)

「大喜」は呉音で「タコ」と発音するから、
「田光」は大碓命の子孫である大喜氏に由来するものと考えられ、
現在の大喜新町、大喜町、田光町の一帯が大喜氏関連地だと考えられる。
田光八幡社の1.6kmあたり真北にも「滝子(たきこ)」という地名があるが、
これも「タコ」への当て字と考えられ、
少なくともその辺りまで大喜氏は関っていたものと思われる。

住宅街の立ち並んだ鎌倉街道に面して、
田光八幡社の一ノ鳥居と摂社田光稲荷社の一ノ鳥居が並んでいた(写真左)。
田光八幡社の一ノ鳥居は石造の明神鳥居だが、かなり大きくて、
この神社の規模の大きさを想像させる。
参道は一直線に田光八幡社拝殿に到達する。
田光八幡社の拝殿の向かって右側には
別宮の田光白龍社と弁財天の祠を祀った覆い屋があった(写真中)。
ミネラルウォーターが供えられた基壇は玉垣を利用して
コンクリートで固められたものだ。
中にとぐろを巻いた白蛇像が見えるので、祠の中を覗いてみると、
白蛇の背後には琵琶を抱えた金色の妙音弁才天像が祀られていた(写真右)。
白蛇のほかに陶製の宝珠を抱いた蛇像も見えるが、
蛇像はどちらも座布団をもらっている。
弁財天像は割られたものを継いであるように見える。
現在、周囲に池や水路は無いが、
田光町にあった蛸の池(田光ヶ池)、あるいはその水路との関係で祀られたものが
ここに持ち込まれたものではないかと想像した。
●弁財天(田光八幡社)水脈環境
愛知県名古屋市瑞穂区大喜新町3

蛸の池(田光ヶ池)やその水脈が埋め立てられて、無くなったことを補うためか、田光八幡社の本殿の横に昭和31年になって、
龍神池が造成されたという案内立て札があった。
龍神池のための巨岩は鳳来寺山(愛知県新城市)からわざわざ運んだというが、
現在、水は無く、池の役割は果たしていない。
●弁財天社(闇森八幡社)
愛知県名古屋市中区正木町2-6-18

熱田神宮から堀川東岸をバイクで北上。
古渡橋(ふるわたりばし)から東に160mほどで、石垣の上に森の立ち上がった
闇の森八幡社の南向きの社頭に到達した(写真左)。
珍しく、境内の境は石造の塀で、同じく石造明神鳥居の正面に
銅板葺き屋根木造の藩塀が見える(写真右) 。

「闇森」とは凄い社名だが、

〜その昔 植えにしきぎの 年を経て
月さへもらぬ くらがりの森〜

と詠われるほど、この一体は暗くて怖い森だったという。
闇の森八幡社の北東部にはこの神社より広い公園があり、その北に面して
さらに広い小学校があるので、おそらくこの3所を中心として
森は広がっていたものと思われる。
しかし現在、そんな深い森を想起させる巨木は見当たらないので、
このあたりも空襲で焼け払われたのかもしれない。
社頭を避けて、愛車を歩道に上げ、石段を上がって鳥居をくぐると、
柵で囲われた堂々たる木造の藩塀があった。
藩塀を迂回すると、 一ノ鳥居、藩塀、二ノ鳥居、拝殿は
まっすぐ延びる参道で結ばれていることがわかった。
拝殿で参拝し、拝殿の西側にある境内社などを見終えると、
二ノ鳥居の西側に池があり、池の中に朱の社殿があることに気づいた。
弁財天社であることは想像が着く。
朱の社殿のある小島には参道側から幅1.5mほどの石橋が架かっている。
参道側に回ると、岸側に朱に塗られた鉄柵の門が閉まっていた(写真中/右)
Wikipediaにはこの社殿は「弁財天社」と表記されている。
●弁財天社(闇森八幡社) 水脈環境
愛知県名古屋市中区正木町2-6-18

ネット上のブログには
弁財天社のある池を「御手洗池」と呼んでいる情報があった。
Wikipediaによると、この御手洗池には以下のような伝承があるという。

「池のフナはすべて片目で、外から放したフナも片目になる」

片目の魚伝承は各地にあるが、最初に遭遇したのは
都内世田谷区の深沢神社で、境内にやはり弁財天を祀った池に関る伝承だった。
肝心のその伝承はあいまいなものだった。
曰く、農民が病気が快癒したお礼に池に鯉を放したところ、
冷たい水のせいで鯉が片目になってしまった。
あるいは、目を患っている人々が片目の鯉をその池に放して、
治癒の願を掛ける風習があったという。
各地の片目の魚伝承にも、なぜ片目じゃなければならないのか、
あるいは片目にはどんな意味があるのかの説明はほとんどの場合で無いようだ。
ところで、片目の魚のアレンジで、
役行者に関る「蛙飛び神事」では片目の蛙伝承も存在するが、
この伝承には修験道や真言密教が関っているように思え、
したがって、空海にも片目の鯉伝承がある。
双方の出所はたたら製鉄に関ることにあり、
谷川健一氏は『青銅の神の足跡』 (小学館ライブラリー)で、
隻眼の伝承がある地域と古代の鍛冶場の分布が重なることに着目しているが、
体験的には「片目の魚」と「弁財天・御手洗池」がセットになっていることと、
製鉄が役行者と空海を結ぶものであることにも注目したい。
「弁財天」と「御手洗池」自体がセットなので、
「片目の魚」と「弁財天」との関係と見ていいのだろう。
まず、闇森八幡社の隣には現在、真宗大谷派の照見寺があり、
境内を共通していた可能性があるのだが、
八幡社自体が過去に神仏習合の場であり、
照見寺の前身が密教寺院であった可能性はある。
尾張は空海信仰の盛んな場所であるにもかかわらず、
密教寺院の多くが改宗しているからだ。
そのために、空海・役行者像は元真言寺院内から閉め出され、弘法堂という、
街角の堂内に祀られ、僧侶ではなく、
町内の有志に祀られていることが多いのだ。
坂東(東京都)にある深沢神社の場合は
180m北東に真言寺院の薬應山 醫王寺があり、
ここも、境内を共通していた可能性がある。
「片目の魚」と「弁財天」との関係に関しては
「片目の魚」を「天目一箇神(アマノマヒトツ)」の眷属と考えてよさそうだ。
天目一箇神は片目の神であり製鉄・鍛冶の神であるからだ。

天目=アマノマ→アマヌマ(天沼)

天沼は東京都杉並区の一区画で、かつて湿地帯だった場所であり、
多くの弁財天が街角に祀られている場所なのだ。
川崎真治氏は「天沼」という地名の謎を追い、「海人族」と結びつけている。
弁財天=宗像三女神だから、何の不思議も無いことだが、
薬應山 醫王寺の「薬應」「醫王」は
船でやってきた少彦名神(海人族)を示唆する言葉でもあり、
『日本書紀』では少彦名神は高皇産霊神(タカミムスビ)の子とされる。
高皇産霊神は
天目一箇神を出雲の神々を祀るための作金者に指名した神でもあり、
少彦名神・弁財天と天目一箇神は関係のある神ということになる。
実際、刀匠の地として知られる岡山県瀬戸内市長船町の天神社には
天目一箇神と少彦名神がいっしょに祀られている。
『古語拾遺』は天目一箇神と天津麻羅(アマツマラ)を同一神としているらしく、

麻羅(マラ)→マロウド(客人神)=少彦名神

とみれば、天目一箇神と少彦名神は同神とみられる。
ところで、マイミクさんのひとりがぼくの闇森八幡社の日記を読んだその夜、
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1695613922&owner_id=350761

闇森八幡社の前を雄ライオンが悠々と横切っている夢を見たという。
埼玉県大宮市の氷川神社摂社にはマロウド(=門客神:もんきゃくじん)として
荒脛巾(アラハバキ)が祀られているが、
川崎真治氏は『謎の神 アラハバキ』(ロッコウブックス)で
「アラハバキ」の「アラ」をシュメール語「アラ(男神の獅子)」としており、
おそらく、これが門=神殿前に獅子を設置する理由なのだと思われる。
マイミクさんの夢にはメスの少女ライオンと子供ライオンも登場するのだが、
これらのライオンはすぐに別の観光客の方へ行ってしまったという。
●辨財天(黄金山神社 石像)
宮城県石巻市鮎川浜金華山5

9月初旬晴れ 午後、牡鹿半島最先端の鮎川港に9名が集まった。
金華山には以下に書き込みした来宮神社境内社の弁財天社の
大元の辨財天が祀られているはずで、個人的に金華山上陸を楽しみにしていた。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=17539004&comm_id=2078517
(書き込み42/43)

金華山を初めて半島から望んだのは25年ほど前になるが、
牡鹿半島最先端の黒崎から金華山を眺めただけで、特に印象に残っていない島だった。
ボートは波を蹴立てて、内海である金華山瀬戸を渡り、
20分ほどで、金華山の桟橋に着いた(写真左)。
初めての上陸なので、被害の情況は不明だが、
かつての桟橋は水没しているとのことだった。
桟橋には黄金山神社(こがねやまじんじゃ)に向かうトラックが待機しており、
全員で荷台に乗り込んだが、通常は送迎バスがあったようだ。
島自体の外観からは津波の被害の様子は見えなかった。
トラックはすぐに急坂を登り始め、鉄製の明神鳥居をくぐった(写真中)。
右手は崖で、左手は断崖絶壁。
景観は悪くない。
車が断崖から離れ、表参道に入ると、参道脇の芝生の中から立ち木や石が頭を覗かせ、
鹿がくつろいでいた。
神符授与所前の広場に到着してトラックから降りたところ、
周辺にも巨石が転がっているが、見たところ建物も石垣もちゃんとしており、
震災の被害ではなさそうだ。
祈祷受付所で祈祷を受ける手続きをしていると、2頭の鹿がすぐ近くまで寄ってきた。
梢を見上げると、龍神の兆しとも思える鱗雲が金華山の上空を覆っていた。
祈祷殿で祈祷を受け、宮司さんに拝殿の回廊を案内され、本殿前まで案内されると、
本殿の右奥から赤い光を感じた。
同行メンバーのTさんが金華山に登ったことがあると聞いていたので、
宮司さんに正規に金華山に登れるのか確認をしたところ、
本殿の右奥に「奥の院」に向かう通路があることがわかった。
Wikipediaによれば、天平21年(749)に
金山毘古神と金山毘売神の二柱(小金山神社祭神)が奉祀されたと伝わっているが、
後に弁財天を本尊とする寺院になったとも言われ、金華山の山頂と麓に弁財天を祀り、
麓を弁財天堂(後の大金寺)、山頂を竜蔵権現(現大海祇神社)と称したという
言い伝えもあるようだ。
神符授与所前の広場に出て、奥の院に向かうことにし、
さっきは建物内の階段を本殿前まで上がったが、
今度は石段の上の西(牡鹿半島)を向いた随神門をくぐって、
拝殿に向かう石段を上がった。
拝殿脇から南側の通路に出て、奥の院に向かって坂道を上がって行くと、
素木の鳥居が立っており、そこから広くはない石段が始まっていた。
右手(南)の山と左手(北)の川に挟まれ、石段は山頂に向かっている。
鳥居をくぐり、左手の滑石貯水池(すべりいしちょすいち)前を通ると、
まもなく人造の石段は尽き、自然路に変わったが、この山は岩の露出が非常に多く、
自然石が折り重なって、自然の石段になっていた。
傾斜はかなり急だ。
途中まで登ったところで、メンバーのふたりが山蛭にやられたが、山蛭の姿は見えない。
帰途のボートの出る時間が決まっていて、山頂まで到達するのは到底無理なので、
ここで山上(写真左)に向かって神事を行なうことになった。
ぼく以外の全員が般若真教と龍神祝詞を掌げ、
複数のメンバーが列島各地から持ち込んだ水と御神酒を周辺に撒いた。
H氏に降りたメッセージによると、すでにこの山に本来の神は居ないらしい。
『地質ニュース597号』の「みちのく石便り(その2)」に
http://www.gsj.jp/data/chishitsunews/04_05_08.pdf

「山頂部から、東へ15分くらい下ったところに〈天柱石〉というのがあります。文字通り天を突くような巨大な20〜30mほどの高さの柱状の岩塊で,前述した花崗閃緑岩からなっています。この岩塊は、本来もっと高かったそうですが,何らかの原因(地震?)で先端が折れてしまったとのことです。」

とある。
天柱石(旧名:水晶石)は辯財天垂迹の石とされているようだ。
ご神事を終え、上がって来た石段を下り、拝殿前には戻らないで、
そのまま真っ直ぐ通路を下った。
途中、二層の屋根を持つ八角堂があった(写真中)。
直感的に弁天堂だと思ったが、確認する間もなく、脇を通り抜けて石段を降りた。
麓の案内板でそれが辨財天堂であることが確認できたが、
金華山頂上の遥拝所になっているようだ。
石段を降り切った場所には八大龍王石碑と八臂辨財天石像(写真右)が祀られていた。
境内の案内書きによれば、
八臂辨財天石像(写真中)は神仏混淆時代に祀られた
大金寺の境内に祀られていた、かなり旧い石像だという。
すぐさま全員でふたたび、トラックの荷台に乗車して参道を下った。
●辨財天(黄金山神社 石像)水脈環境
宮城県石巻市鮎川浜金華山5

黄金山神社の境内に入った時から、上空が鱗雲で覆われてきていることに気付いていた。
奥の院の鳥居の左側(北側)に沿って、
高さ1,5mほどのコンクリート造の大きな台があり、
台の縁に沿って、ネット・フェンスの垣が巡らされていた。
鳥居をくぐると、その台に沿って、石段は伸びているが、
垣の途中にネットの扉があって、鍵の無いかんぬきが掛っていた。
扉脇の案内板によると、「滑石貯水池(すべりいしちょすいち)」とある。
ぼくとOさん、Mさんの3人は鍵の無い扉のかんぬきを開けて中に入ってみた。
ほかのメンバーは山上に向かった。
垣内に入ると、左手に浅い池があったが、
水面は完全に空や周囲の樹木を反射して水深はわからない。
しかし、小石がいくつか池の中に転がっているので、水深はほんの数センチしかなく、
台の上面は密封されており、その上面が浅い池になっているようだ。
滑石貯水池はこの地下の台の方らしい。
その池の北側には山の上方から水の流れる川になっているが、
麓にあった境内案内図に川の名称は記されていなかった。
池の上方側には巨大な一枚岩が多い被さっているように見える(写真左)。
川に平行して複数のパイプが通されているが、
貯水池に、この川の水を引き込むためのパイプのようだ。
川の向こう側の石垣の上に滑石神社が祀られていたが、祭神は武甕槌神であり、
滑石貯水池や川とは関係の無い神だ。
金華山は島全体が花崗岩であることでしられているが、
エジプトのピラミッドと同じ材質でできていることになり、
一種の自然のピラミッドとみてもいいのかもしれない。
石英を主要構成鉱物とする花崗岩は
地震などで地下で大きな圧力を加えられるとFM電波を発生し、
それが雲の形状に影響を与えることが解っている。
山腹でご神事を終えて、ふたたび滑石貯水池の垣内に入り、
西の空を見上げると、すでに陽は落ち始めていた。
鱗雲は崩れ始めており、くねる龍の胴体の一部が見えたように思えた。

境内を出てボートに乗船するとすぐに出発し、激しく軌跡を描きながら島を離れた。
来る時は乗船室の影になって見えなかった金華山の全貌が初めて見渡せた(写真右)。
西側から眺める金華山はやはり、特に際立った特徴の無い島だった。
●亀居山放光院大願寺(ききょざんほうこういんだいがんじ)
広島県廿日市市宮島町

8月の下旬、am10:30、 宮島に向かうフェリーに乗船。
フェリーは20分ほどで厳島神社の大鳥居に接近したが、
宮島に関する詳しい情報は持っていなかったので、
予想外に早く宮島に接近したことに驚いた。
フェリー上から眺める大鳥居の背景に重なる山影は
想像していたより高かった。
多くの観光客と同様、鹿のいる御笠浜から大鳥居を真近に眺め、
厳島神社内を巡って、出口を出ると、長さが10mも無い橋が架かっているが、
下を流れているのが御手洗川だった。
御手洗川を渡ると、
そこは亀居山放光院大願寺(ききょざんほうこういんだいがんじ)の
山門前だった(写真左)。
山門は東向きで通路の途中に建っているというよりも、広場の中に建っていた。
大願寺が厳島神社の隣にあり、同じ御笠浜に面していることから、
たぶん、密教寺院だろうと想像したが、
『宮島観光協会』の公式キサイト(http://www.miyajima.or.jp/sightseeing/ss_daiganji.html)によれば、やはり真言宗寺院で、
亀居山放光院大願寺(ききょざんほうこういんだいがんじ)といった。
となると、厳島神社と習合していた可能性があるが、「開基は不明」とある。
海岸に面した平地にあるにも関らず、「亀居山」という山号が
何に由来しているのかと思ったら、
厳島神社入口脇の丘陵、塔の岡の平面図が
亀に似ていることによる山号だという。
つまり、厳島神社の社殿は
大願寺の関係地にサンドイッチされるように配置され、大願寺の建物群は
「厳島伽藍(がらん)」と呼ばれてきたという。

公式サイトには以下のようにあり、

「現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣(大願寺の対岸の塔の岡の上にある堂)が本堂になる予定でした。昔、参拝者は、大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺の裏にあった大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして嚴島神社に参拝しました。嚴島神社の出口が唐破風造りで、昔は入口であったことがうかがえます。」

かつての厳島神社の参拝の道順は
現在とは入口と出口がまったく逆だったことが解る。
山門の15mほど北西に大きな石で護岸された円形の浅い池があり、
中央に巨石で囲われた銅板葺流れ造の小祠が祀られていた(写真左)。
社号標には「厳島 龍神」とある。
この龍神は「弁財天の使い」とされている。
厳島 龍神の西10m以内に東向きの大願寺本堂があったが(写真中)、
この建物はもとは僧坊であったという。
本堂の軒には白地に「弁財天」と墨書きされた長提灯が巡らされているが、
向拝部には天井から
赤地に「厳島辨財天」と墨書きされた大提灯が下がっていた(写真右)。
この提灯の下で、同行したMさんと参拝したが、思わず柏手を打ってしまった。
ここで感じた光は厳島神社で感じた光とは少し異なるものだった。
●亀居山放光院大願寺 御手洗川
広島県廿日市市宮島町

大願寺は瀬戸内海に浮かぶ宮島北部の御笠浜に位置する(航空写真左)が、
厳島神社のように御笠浜のある有之浦に直接面しているのではなく、
有之浦と境内の間には御手洗川が流れ、
御手洗川と潮流でできたと思われる390m近い砂州が厳島神社西回廊脇から
宮島の海岸に沿って、西に延びている(航空写真中)。
大願寺境内から潮の引いている御笠浜に降りてみると、
この日の砂州は西回廊脇で切れており、
御手洗川はここで瀬戸内海に流れ出る形になっていた(写真右)。
●龍泉弁財天杜
愛知県名古屋市守山区竜泉寺1丁目

2013年12月の中旬、バイクで15号線の北側に位置する 龍泉寺観音に向った。
30号線から15号線に入って350m以内の路肩に
「←龍泉寺観音」の標識が出ていた。
龍泉寺観音に向う枝道に入ると、すぐ登り坂になり、
80m以内で、思わず坂の行方を確認するほどの急坂になっていた。
そこから120mあまりで坂道を登り終えると、
正面に龍泉寺の仁王門が見えてきた。
仁王門の手前右手に小さいが駐車場があったので、
そこに1台だけ駐車されていた車の隣りに愛車を滑り込ませた。
仁王門に向おうと道路に戻ると、道の向かい側の敷地の入口に
白地に朱文字で「龍泉弁財天」の号標が立てられていた(写真左)。
境内の奥には朱の幟が林立していて、
境内入り口脇に咲き乱れる唐紅色の寒椿とともに
寒そうな境内を彩っているのが見えた。
愛車で登ってきた道は、この龍泉弁財天の境内に沿って、
南向きの龍泉寺仁王門前で西に折れていた。
5段しか無い石段を上がると、5m以内に賽銭箱があり、
その先の水の枯れた池の向こう岸に本瓦葺の弁天堂があった(写真中)。
幟は池の縁に沿って並べられており、
池の西と南の二面は住宅のような建物に面している。
池の中にはヒトツバと思われるシダの密集した丸い島があり、
ササダケが繁殖していた(写真右)。
この弁財天に関る情報は現場にもネット上にも見当たらない。
●宝積山 光前寺(ほうしゃくさん こうぜんじ) 辨天堂
長野県駒ヶ根市赤穂29

6月の下旬、学区の親睦会(名古屋市では学区単位の活動がある)で
38名のメンバーで駒ヶ根(長野県)へ日帰りバス旅行をした。
名古屋市内から中央高速道で諏訪方向へ向かうと、
空は曇天で、北アルプスには厚い雲が立ち込め、
南アルプスも途中の山脈に雲が掛かり、まったく見えなかった。
しかし、駒ヶ根が近づくにつれ、東方に夏の青空が覗きはじめた。
駒ヶ根インターを降り、ほかの場所を回って
駒ヶ根インターの南側にある宝積山(ほうしゃくさん) 無動院 光前寺に向った。
光前寺は駒ヶ岳の麓にある天台宗の別格本山であり、本尊は秘仏の不動明王。
場所的に甲斐と尾張の間の戦略地にあり、戦国時代には幾度も被災している。
実際には背後にある木曽山脈の
簫ノ笛山(しょうのふえやま)と池山の間の谷を背に
鬼門の方向を向いて参道は仁王門から本堂まで一直線に延びている。
光前寺は駒ヶ根では数少ない観光資源とあり、
清水寺並みのラッシュとなっていた。
仁王門(写真左)から始まる参道は一直線に西南西にある本堂に延びている。
途中にある三門に至る参道の大部分は杉の巨木が両側にそそり立っていた。
三門をくぐり抜けると、そのまま真っ直ぐ延びている参道は
水面を越える石橋を渡るが、橋を渡ると右側の杉の巨木の間に
参道の方を向いた銅板葺入母屋造の堂があった(写真中)。
軒下の扁額には「辨財天」とある。
それは辨天堂だった。
光前寺の公式サイト(http://www.kozenji.or.jp/)と
Wikipediaなどの情報を合わせると、
光前寺の創建された700年以上後の天正4年(1576)に建てられたもので、
現存する光前寺の伽藍の中でもっとも旧いものだという。
内部には宝形造りの厨子に収められた明応9年(1500)造の八臂弁財天と
十五童子が安置され、
十五童子の周囲には米俵、大八車、舟、亀が配置されているという。
辨天堂前から本堂を望むと杉の巨木に囲まれた桧皮葺入母屋造の建物が見る。
(写真右)
●宝積山 光前寺(ほうしゃくさん こうぜんじ) 辨天堂 水脈環境
長野県駒ヶ根市赤穂29

参道の南側にある池(写真左)がふたつの水路を延ばし、
参道の2ヶ所の橋の下をくぐり、辨天堂を挟んだ地形になっているが(MAP中)、
水路と言っても水は流れていない(写真右)。

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