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私の勉強部屋コミュの原爆被害

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日本は戦争は終ったと思ってますが、原爆の被害は戦後60年経った今も続いています。このことについて、記事を集めていきたいと思います。特に、移動したりなんかして被害を認められなかった方の記事を中心に集めていきます。

健康被害については、放射線の影響のトピの方に集めます。

コメント(10)

ブラジルトピに上げてもらった記事です。


金魚売りと原爆報道
――森田隆さん(在ブラジル原爆被爆者協会理事長)の聞き書き――
岡村 淳


  これは毎年の年中行事なんです。
  8月が近づくと、ブラジルの新聞やテレビが次々にその日の惨状を話してくれ、とやってきます。
  昔、日本で夏の盛りに「きんぎょーや、きんぎょぉー」と町に金魚売りがやってきました。そして時期が過ぎるとパッタリ来なくなる。
  それと同じで、8月が終わると取材はパッタリ途絶えてしまいます――私にとって50年目の長い夏がやってきます。

  私は生まれた時には、死んでおったんです。
  母のお腹のなかでは逆子で、それは難産だったそうです。お産の時には、村の医者が駆けつけました。仮死状態で産まれたので、医者は「お母さんが助かっただけでもええと思え」と私をボロ布に包んで家の縁に置いておきました。
  北米帰りだった父はいろいろな場数を踏んでいたのでしょう、死んだとみられた私の足を持ち上げ、お尻をパンパン叩いてみました。すると「オギャー」と声をあげたというわけです。1924年のことでした。
  父は広島県佐伯郡砂谷(さごたに)村の出身で、北米移民としてシアトルやサンフランシスコで農園や鉄道工夫の仕事をしました。母は「写真花嫁」としてアメリカに渡り、父と結婚しました。
  苦労を重ねて、ようやく貯えもできて故郷へ錦を飾りに帰ることができました。そして村で商売を始めていた頃に、こうして私が生まれたというわけです。

  私と軍隊の関わりは、小学5年の時から始まります。
 「子供は苦労しなければいかん」というのが父の方針で、私は広島の歩兵11連隊の酒保(しゅほ:軍隊内の売店)の手伝いをすることになりました。
  13歳になると時計屋に奉公に出され、21歳で兵隊に行くまで広島市内の時計店で働きました。

  1944年に軍隊に召集され、浜松の航空隊に入隊しました。軍隊の要領はもうわかっていましたが、内部の制裁や暴力が許しがたく、憲兵の募集に志願しました。
  そして部隊で2人だけ選ばれて、東京・中野の憲兵学校に入ることになったのです。浜松は「イモどころ」と言われながら、食糧不足で戦友たちが栄養失調になって亡くなっていったものでした。ところが東京の憲兵学校では三度の食事とも白飯に肉や魚がつくほどで、矛盾をつくづくと感じました。

  1945年7月、憲兵学校を卒業して、故郷広島の中国憲兵司令部に憲兵兵長として配属されました。
  広島に向かう道中、東京や大阪をはじめ多くの町や駅が米軍の空襲で焼け野原になっているのを目にしました。
  ところが広島は想い出の町がそのまま残っており、感動しました。広島からはアメリカにだいぶ移民に行っておるから敵も爆撃を控えているんじゃろう、などと安易に考えてみたものです。それでも空襲に備えて、市内では防火地帯の家屋の取り壊しが進められていました。

  
8月6日の朝は、一晩まんじりともしないで迎えました。5日の夜から警戒警報が発令されており、6日の朝7時半にようやく解除されたのです。
  朝から真っ青な空で、きょうもいい天気で暑くなるじゃろうなぁ、と思いました。

  私は己斐(こい)の山腹の防空壕づくりに向かうため、補助憲兵12人を連れ、8時に憲兵司令部を出発しました。
  土橋から電車に乗り、3つ目の停留場で降りて、横川橋を渡って左手に折れた時――爆心地から1.3キロの地点です。
  私が一命をとりとめたのは、爆心に背を向けており、後ろ左手に大きな壁があったせいでしょう。
  突然、ものすごい光線です。ピカッと光った瞬間に、何メートルも飛ばされていました。頭を上げた時、熱いものが後ろからくるのを感じました。目の前にあった学校が、マッチ箱のようにガチャッと潰れました。周囲は、真っ黒いモヤに包まれました。

……ようやく私は我に返って立ち上がりましたが、薄暗くて付近の様子はわからず、人の声も聞こえません。私は最初、近くの陸軍の火薬庫が爆発したものと思いました。
  とにかく目的地の壕に向かうことにしました。太田川の土手を行くと、ポツリポツリと雨が降り始めました。黒い雨です。これはアメリカが飛行機から重油をまいて、市民を火あぶりにするのだな、と思いました。
  雨のなかにうずくまり、うめいている女学生たちがいます。
 「お母さん、お母さん」「助けて、お水をちょうだい」と体を焼かれ、着ているものもぼろぼろで「兵隊さん、仇をとってちょうだいね」と言いながら亡くなっていった女の子たちのことを50年経っても忘れられません。

  憲兵隊の防空壕に到着すると、将校たちが広島で何が起こったのかを調べなければ、と話し合っていました。私は自分から名乗り出て、市内の憲兵隊本部に向かうことになりました。
  市内に入って見たのは、平和な時に見たら気が狂いそうな地獄でした。
  まさしく「死の行列」に出会いました。無言のまま、両手を前にぶら下げて早足で西の方に逃げていく人たちの群れです。
  爆心地近くでは、手を広げて、口を開けて驚愕した姿のまま、体は真っ裸で紫がかった遺体が、マネキンのようにいくつも道に転がっていました。
  電車のなかには何十という人々が黒こげになっており、骨はむき出し、肉がブスブスと煙を上げていました。

  憲兵隊本部は、焼け野原になっていました。そこで救助にかけつけた呉の憲兵隊の一行に出会いました。
  その隊長が「これは原子爆弾である」と言いました。
 「アメリカが原子爆弾を使ったならば、日本にはそれに勝る分子爆弾がある。我が軍は敵にこれを使う」。
  実際にそんな計画もあったのか、それとも私たちを励ますためだったのかはわかりません。
 私は原爆の前に、東京大空襲も体験しています。東京の空襲では逃げる余裕がありました。避難する人は服をまとい、貴重品や書類を持って逃げる人もいました。
  いっぽう広島では一瞬のうちに服も体も焼け焦げ、そして誰も知らない放射能の後遺症に、いつまでも苦しまなければならないのです。

  6日の夜は、憲兵司令部の焼け残ったビルで迎えました。
  実に不気味な夜でした。人間の焼ける異様な臭いが、町中から漂ってきます。あちこちでまだ人間がブスブス燃えているため、紫がかった青白い燐(りん)が光を放っていました。

  翌日は、次々と憲兵司令部に集まってくる被爆者のお世話をしました。
  ところが自分の首の火傷が大きく膨れ、ベトベトに化膿して、臭いを発して痛み出しました。軍医に入院をすすめられ、大野浦の臨時陸軍病院に入りました。
  ここでも多くの被爆者の死に立ち会いました――

  
敗戦の翌年、身につけた技術を活かして小さな時計の修理店を広島市内で始めました。当時、原子爆弾に遭った者は2年足らずの命と言われたものです。
  しかし焼け跡に草が生え始め、花も咲き、翌春は桜も咲きました。私は自分の運命の時が来るまで、いつ死んでもいいわいと思いながら、かえって節制して過ごしました。そして今の家内と結ばれました。
  家内も被爆者でしたが、私たちは自分たちに不具の子が生まれることはない、という自信を持っていました。子供は2人とも元気に生まれました。

  戦後の日本の生活は、夢がありませんでした。
  外地からの引揚げ者があふれ、そして不景気で、今のブラジルのように盗難も多かったのです。お客さんからお預かりした時計を30個以上も盗まれて、弁償に苦労をしたこともあります。
  そして私たち被爆者には「ブラブラ病」と呼ばれるような疲労感がいつもあるのです。私の場合、夏になると白血球が異常に増えて、マラリアのようにガタガタとふるえました。

  そんな時、ブラジルに渡った知人から私に呼寄せの手紙が来ました。
 「森田さんなら技術もあるし、ブラジルで必ず成功するから、ひと儲けしにいらっしゃい」というのです。
  当時は国が海外移住を奨励する風潮もあり、私はブラジル熱に浮かされました。
  そして1956年、「ぶらじる丸」で神戸を発つことになったのです。
  家内や子供たちが行きたくない、と言うのをなだめすかして「ピアノを買うてやるからね」「とうちゃん一生懸命に働いて、うんとお金を儲けて日本に帰ろうね」などと言い聞かせたものです。私自身、10年経ったら日本に戻るつもりでした。

  ようやくブラジルに着くと、呼び寄せてくれた人はサンパウロのポロン(半地下室)に住んでおり、便所もシュベイロ(シャワー)もありません。
  私はブラジルの到着の翌日から言葉もわからないまま、家探しを始めなければなりませんでした。
――そして1984年に子供たちがこの日本食料品店を年老いた両親に、と開けてくれるまで時計修理職人として働いてきました。

  これは誤報なのですが、ブラジルの日本語新聞に「海外の被爆者も日本の年金を受けられる」という記事が出たことがあります。
  夫婦で領事館を訪ねると、
 「あんたたち被爆者だと言うけれど、証拠があるんですか。そんなことはどうにもならないし、領事館も困っています」という、けんもほろろの返事です。
  帰り道、これでは被爆者も浮かばれない、と家内と話しました。少しは生活に余裕ができたこともあって、個人で訴えても相手にされないのなら、私たちが立ち上がって同じ仲間で手を取り合っていこう、と考えたのです。

  そして1984年に、それまでに知り合っていた被爆者仲間と「在ブラジル原爆被爆者協会」を設立することになりました。
  さまざまな障害がありました。まだまだ大きな問題があります。私は天に与えられた余生を、今後ともこの問題に捧げていくつもりです。
  ブラジルの被爆者の多くは今も日本国籍で、それも国の奨励で移住してきたのです。日本にいる被爆者と同様の権利をいただくのが私たちの願いです。

  被爆者も老齢で、徐々に亡くなっています。ひとりの被爆者が亡くなる前に、私に言い残しました。
 「自分は日本人であることをブラジル人に誇って死んでいきたい。日本の国は、移住者にもあたたかい援助をしているんだと。森田さん、まだ日本からいい話はありませんか」。

  もし今後また核兵器が使用されれば、人類が滅亡することを私たち被爆者は知っています。
  私は最後まで平和を叫び続けます。

後記(2004年5月):在外被爆者を巡る日本国政府の動きにはその後、変化がありますが、いまだ多くの問題が残されています。在ブラジル原爆被爆者協会は近日中にホームページをオープンするとのことで、実現の際は改めてご紹介いたします。


http://www.hoshinot.jp/okamura/genbaku.html


 
ありましたよ。

在ブラジル原爆被爆者協会
http://www5f.biglobe.ne.jp/~vitima_bomba-atomica_brasil/
長崎)抜歯資料を用いた被曝線量推定 http://abomb.med.nagasaki-u.ac.jp/abomb/teeth_j.html

長崎及び熊本地方に飛散した長崎原爆由来のプルトニウム分析 http://jolissrch-inter.tokai-sc.jaea.go.jp/search/servlet/search?5001737 http://jolissrch-inter.tokai-sc.jaea.go.jp/search/servlet/search?5001737

プルトニウム型原爆が長崎に投下され60年が経った。放出されたプルトニウムは、半減期が長く、環境中に蓄積する。これまでわれわれは、爆心地から約3km東の長崎市西山地区で最も多くの原爆由来プルトニウムが蓄積しており、さらに東は熊本県の一部まで及んでいることを明らかにした。本研究では調査地域を広げ、長崎県及び熊本県に飛散した長崎原爆のプルトニウムの詳細な蓄積分布を明らかにすることを試みた。分析は土壌からプルトニウムを抽出し、ICP-MSによって$$^{240}$$Pu/$$^{239}$$Pu比を測定した。土壌中の$$^{240}$$Pu/$$^{239}$$Pu比がグローバルフォールアウトの値より低い地域は、長崎県では長崎市東部,島原半島東部、さらに熊本県では、荒尾市,玉名市,合志町,阿蘇市に広がっていた。これは、長崎原爆から放出されたプルトニウムは、爆心地から東2kmの地点から約100kmに広がり、南北は約30kmに飛散したことを示す。飛散地域は、長崎県内では原爆雲の通過地域と一致した。また熊本県のプルトニウム飛散地域は長崎県の飛散地域の風下にあたり、プルトニウムは風によって運ばれたと思われる。



長崎原爆によるPuフォールアウトの環境中での分布と挙動
長崎でのローカル・フォールアウト調査と
アガシ・アイス・キャップでのグローバル・フォールアウト調査
馬原 保典
∗
(京都大学原子炉実験所)
工藤 章(京都大学名誉教授)

http://hlweb.rri.kyoto-u.ac.jp/shibata-lab/DS02/Final_pdf/Mahara.pdf#search=%27%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%8E%9F%E7%88%86+%E3%83%97%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%83%A0+%E5%9C%9F%E5%A3%8C%E6%B1%9A%E6%9F%93%27
原発事故の話も入ってますけど、原爆汚染の評価の話もあったので、メモっておきます。

みーゆ@リケニャ ‏@miakiza20100906 11分

なんか変なことが書いてある: プレイボーイ「原発事故のセシウムは今でも地表面5cmに居座っている!」 http://wpb.shueisha.co.jp/2014/03/17/26057/ … “事故発生当時、専門家たちは「土の地面へ降った放射性物質は、1、2年以内に50 cmから1 mの深さへ沈む」と、コメントしていた。”
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みーゆ@リケニャ ‏@miakiza20100906 8分

本当の専門家なら、セシウムが地表面近くから動き難いことは、事故前からよく知っているはず。 例えばこの資料とか: 馬原保典、工藤章(京都大) http://hlweb.rri.kyoto-u.ac.jp/shibata-lab/DS02/Final_pdf/Mahara.pdf … (PDF)
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みーゆ@リケニャ ‏@miakiza20100906 4分

この資料は、原爆フォールアウトのセシウム、ストロンチウム、プルトニウムの土壌中での動きやすさ・にくさを検討したもの。原爆投下から 50 年以上後の検討で、「137Cs は 40 cm深度以深では存在が確認されなかった。」 p.174。
他界する数年前には神経障害がひどくなり、日常生活も支障が多くなり幻覚、妄想で人間性が失われた様な錯乱状態が続き、私も途方に暮れ医師に相談しました処、染色体の異状が認められ、被爆の後遺症らしい事も判明しました 広島の声http://www.asahi.com/hibakusha/hiroshima/h02-00210j.html …
『放射線の影響は永く様々な障害を起こしいまも続いています。 例えば眼の障害は三年後になって現れます。 白血病は五年後から一五年後に最も多く現れ、 15年後からは悪性腫瘍が増えて今日に至っています。 』http://www.ne.jp/asahi/nozaki/peace/data/bun2.html


健康被害の記述も気になりましたが、これ↓
2、 いまも解明されない原爆被害の実態

死んだ人の数も分からない

 広島、 長崎に投下された原子爆弾で何人の人が亡くなったのかは、 いまだにはっきりとしていません。 広島平和公園内の原爆供養塔の地下室には、 いまも七万柱の身元不明の遺骨があり、 氏名が分かりながら遺骨の引き取り手がなく全国の自治体を通じて遺族探しをしている人も、 広島八六一柱、 長崎一二七柱あります。 死者の数については広島・長崎の両市長が一九七六年に国連に提出した資料では、 四五年末までに広島一四万プラスマイナス一万人、 長崎七万プラスマイナス一万人となっておりますが、 のちに八五年に政府が生存被爆者を対象に行なった死没者調査ではその時期までに広島二〇万二〇〇〇人、 長崎九万四〇〇〇人の死亡となっています。 原爆投下の四五年以降の、 放射線障害によるいわゆる 「おくれた死」 による死没者を加えれば、 その数は大きく増えることは間違いありません。

いまも増え続ける被爆者

 生き抜いた被爆者も高齢化がすすみ年々亡くなっており、 一方で被爆五三年を経過しながら新たに 「被爆者」 となる人も跡を絶ちません。
 ここで 「被爆者」 というのは国が定めた条件に該当する人で、 本人の申請で 「被爆者健康手帳」 の交付を受けた人をさします。 直接被爆者、 入市被爆者、 救護・看護被爆者、 胎内被爆者の四つのケースをさし、 手帖所持者は九七年度末で三一万一七〇四人 (厚生省発表) となっています。
 いまなお被爆した人の約一割ほどと外国人被爆者の多くはなお手帳を取得していないと思われます。 手帳申請をしなかった理由としては、 親が子を被爆者として公認したがらず届けなかった (社会的差別への配慮) 自分が被爆者であることを知らなかった。 とくに入市の場合。 証人探しができなかった。 などの理由があり、 いまも、 年間に一〇〇〇人近い人が新たに被爆者手帳を取得し被爆者となっています。

放置される外国人・外国在住被爆者

 被爆者の中には戦時中に日本に強制連行されたり、 あるいは朝鮮・台湾人のように 「日本人」 にさせられて被爆させられた人たち、 戦後日本以外に移住した外国在住被爆者などもいます。 これらの人で日本に居住または現住する人は、 申請により手帳交付を受けることができますが、 日本を離れると無効になってしまいます。
 現在判明している外国人あるいは外国在住被爆者は、 「韓国原爆被害者協会」 所属が二三四八人、 朝鮮民主主義人民共和国の 「反戦平和のための朝鮮被爆者協会」 が把握している人が四七五人、 台湾を除く中国本土に一五人、 在外被爆者は北米に一〇〇〇人以上、 南米に約二〇〇人などとなっています。 こうした人を含めて、 手帳交付を受けていない外国人・外国在住被爆者は、 推定で二万人から三万人といわれています。
 これらの被爆者調査や渡日治療は、 民間ボランティアグループのねばり強く困難な活動によって少しずつ行なわれてきました。 例えば、 韓国からの渡日治療を手がけている広島のグループはすでに四〇二人を渡日治療させていますが、 本来は国の責任でこれら外国人被爆者の調査・支援をすべきものです。 そのことが被爆者援護法に国籍条項がない (日本人も外国人も区別なく対象とする) ことの趣旨であるといえましょう。 援護法に定められているのは被爆者の要件のみで、 居住・現住地の知事を通じて申請・交付する手続きを述べているにすぎません。 日本国内に在住することは 「被爆者」 の要件や各種給付の受給給要件とはいえません。 現に身体障害者手帳や運転免許証は外国へ出国移住しても手帳はそのままであり、 各種年金・恩給も外国にいても受給できます。
 在外被爆者に対する援護法全面適用の要求も、 一段と強まっています。
 当面、 国の責任で外国人・在外被爆者の調査と支援施策を示させ、 日本国外にあっても被爆者健康手帳の取得と有効性を求める運動が必要です。

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