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私の勉強部屋コミュのPDF カントルにおける数学と哲学  村田 全

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カントルにおける数学と哲学  村田 全
http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/cantor-math-utf.pdf

本稿は本書〔『数学と哲学との間』(玉川学園出版部,1998年12月)〕のうち唯一の書き下ろしである。実は当初,十余年前に或る書物のために書いていながら,共著者の都合で延び延びになっていた草稿をここに当てるつもりだったが,今となると不満な点が多く全面的に書き直したものである。

ただしカントルのその後の論文「超限論報告(Mitteilungen zur Lehre vom Trans niten;1887-88)」の検討を略し,またライプニッツの吟味も著しく不足なので,それは将来の課題とした。

カントルは哲学的あるいは形而上学的傾向を多分に持った哲学者である。彼は集合論――点集合論と超限集合論――の創始を介して,デデキントとともに現代数学に根底的な影響を残したが,二人の関心の間には微妙な差がある。デデキントが離散的な自然数論に集約される方向に進んだのに対し,カントルの根本問題は「連続とは何か」であり,点集合論はもとより超限集合論もそのために創られており,哲学もまたこの問題につながっている。


正直にいって,カントルの哲学上の業績は数学的業績に比べてむしろ些末である。彼は古今の多くの哲学的文献を渉猟し,集合論によって一元論と多元論,概念論と経験論の止揚を図ったもののようだが,結局,体系をなさぬ一種の折衷論に止まり,しかも最後は幻想的な自然哲学の構想で終わっている。その結果,当然といえば当然ながら,生前の彼の同情者たちも「彼の数学はよいが哲学は頂けない」という意見が支配的であった。しかし私はカントルの仕事を一度,全人的な角度から考えてみたいと思ったので,カントルにおける超限数論の成立――これは一応,哲学と独立に説明できる――と,この概念をめぐる彼の哲学的想念について,新しい角度から展望してみた。

その大筋は次の通りである。数学者カントルにとって超限集合論は最後の到達点と見てよいが,哲学者カントルにとってそれはそれに拠ってスピノーザの『エチカ』に独自の解釈を与え,その延長上でライプニッツの『モナドロジィ(単子論)』を踏まえた一つの自然哲学の構想を促したものだったようで,彼の自然哲学がいかに幻想的で荒唐無稽であっても,ライプニッツに到る完結した環を形づくるべきものだったようである。(ルネサンスのブルーノ(G. Bruno,1548{1600)の自然哲学も「幻想的」だが,この人はスピノーザの汎神論,ライプニッツの単子論の先駆者として知られている。)

コメント(5)

φ(`д´)メモメモ... 
リヒャルト・デーデキント さんについて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%88

ユリウス・ヴィルヘルム・リヒャルト・デーデキント(デデキント、Julius Wilhelm Richard Dedekind、1831年10月6日 - 1916年2月12日)は、ドイツのブラウンシュヴァイク出身の数学者。代数学・数論が専門分野。1858年からチューリッヒ工科大学教授、1894年からブラウンシュヴァイク工科大学教授を歴任した。彼の名前にちなんだ数学用語としては、デデキント環、デデキント切断などがある。

φ(`д´)メモメモ...
スピノーザの『エチカ』

『エチカ』(羅: Ethica, エティカ)とは、17世紀オランダの哲学者スピノザの著書。 ラテン語で書かれ、ユークリッド幾何学の形式に基づき神、人間の精神について定義と公理から定理を導き演繹的に論証しようとしている。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/82_ethica/index.html

別トピを立てました。https://mixi.jp/view_bbs.pl?id=93292823&comm_id=2073084
φ(`д´)メモメモ...
ライプニッツの『モナドロジィ(単子論)』

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(ライブニッツ、Gottfried Wilhelm Leibniz ドイツ語: [ˈɡɔtfʁiːt ˈvɪlhɛlm fɔn ˈlaɪbnɪts][1][2][3]あるいは[ˈlaɪpnɪts][4][5] 、1646年7月1日(グレゴリオ暦)/6月21日(ユリウス暦) - 1716年11月14日[6])は、ドイツの哲学者、数学者。ライプツィヒ出身。ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者である。主著は、『モナドロジー』、『形而上学叙説』、『人間知性新論』など。

ライプニッツ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%84

モナド (Monad) は、ライプニッツが案出した空間を説明するための概念である。ギリシア語 μονάς monas モナス(個、単一)、μόνος monos モノス(単一の)に由来する。単子と翻訳される場合もある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%8A%E3%83%89_(%E5%93%B2%E5%AD%A6)
PDF続き)


いずれにせよ,カントルの哲学的関心は若い頃から晩年まで一貫している上,それはしばしば集合論の創造と内的に絡んで現れる。その様子は,既成の数学や物理学に安住していない反逆的な創造的精神の著しい例として,今日のわれわれにとって何か学ぶところがあるように思われる。

設定
1.二つの学位論文カントル(1845{1918)の哲学的関心は,二次の不定方程式に関する学士論文(1867),三元二次形式の変換に関する博士論文(1970)の各々に添えられた三つのテーゼに既に顕著に現れている。

それらは学位審査の際に試問される用意のある主題として挙げられたものだが,それらが論文の主題と直接に関係しないテーマであり,かえって後の彼の哲学的議論と深く繋がっているのは示唆的である。学士論文(Dissertation)は数論の論文(二次の不定方程式)だが,テーゼは次の三つである。(D{1) 数論においては純数論的な方法が解析的方法より遥かに優れている。(D{2) 空間,時間の実在性が絶対的か否かは,この間の論争的性質そのもののために判定できない。(D{3) 数学的事項においては,問題を提起する術の方がそれを解く術よりずっと実り豊かである。カントルの伝記を書いたフレンケルは集合論の建設を(D{3)の実現だとしたが(『カントル論文集』付録),(D{2)も後の時間空間論の予告と言える。博士論文(Habilitationsschrift)の三つは更に重要である。(H{1) 芸術によってと同様に,文字によっても精神を喜ばせうる。

(H{2) スピノーザは,万物における真の規範,規則が人間に発見されうるための力を数学に帰したが(『エチカ』第1部,命題36付録),それは正しい。(H{3) 諸整数を,また同様の仕方で諸天体を,いくつかの規定と関係によって構成された何らかの全体にまとめること。(H{1)の真意はよく分からないが,(H{2)は,後に彼が無限に関連してスピノーザやライプニッツを論じたのが,ただの思いつきなどでないことを示す。(H{3)はピュタゴラス的な数の哲学を思わせる。なお,スピノーザや『エチカ』については補説4を見て頂きたいが,(H{2)に言う「付録」は「第1部 神について」の
3付録で,命題36とは関係ない。

それは,彼の汎神論――神は必然的存在たる無限者であり,精神も物体も一切は神の本性の現れである――の理解を妨げる「偏見」を吟味し,それによって汎神論を支えようとする意図に出たものである。後に示すカントルの幻想的自然哲学の根の深さを示唆する。なお,カントルの書いているような文言は,内容こそスピノーザの思想と矛盾しないものの,『エチカ』には見当たらない。

2.初期の集合論の三論文「三角級数論の一定理の拡張」(1872;以下「拡張」と略)は,三角級数展開の一意性に関する解析学の論文で,ツェルメロ編『カントル論文集』(GesammelteAbhandlungen G. Cantors,以下『論文集』)でも「解析学」の部に分類されている。n次導集合(abgeleitete Punktmenge)と(有理数の基本列に基づく)無理数論とがその道具立てとして現れる。n次導集合は後の点集合論の発端であるとともに超限順序数の原型である。「代数的実数全体の一性質」(1874;「性質」と略)は,超越数の存在に関する本来は数論の論文だが,『論文集』では「集合論」の部の初めに分類されている。それは,代数的実数の「全体」と実数の集合との濃度を比べて超越数の存在を導くという集合論的論法が,ここで初めて登場するためである。ただし対角線論法は1890年頃が初出で,ここで用いられるのは上記の無理数の性質(区間縮小法的な議論)である。

「集合論(Mannigfaltigkeitslehre)への一寄与」(1878;「寄与」と略)では,それまで見られなかった集合の一般的理論建設の意図が初めて明白になる。これにはデデキントの影響があったかもしれない。(デデキントはそれ以前に或る集合論(Systemenlehre)を考えていた。)そして一対一対応に基づく濃度概念の導入と空間の次元の数学化の試みが現れ,さらに連続体の部分集合の中に可算でも連続体でもない第3,第4の濃度があるかという「連続体問題」,それはないであろうと言う「連続体仮説」の最初の形が提示される。


3.論文「無限線状点集合について 第1部|第6部」論文(Uber unendliche lineare Punktmannigfaltigkeiten「無限線状」と略)(1879{84)の目標は「連続とは何か」を数学的に,次いで哲学的にも解明することである。これは従来あまり解説されていないので少し詳しく書く。線状点集合(lineare Punktmannigfaltigkeitまたはlineare Punktmenge)とは,幾何学的ないし数論的な点の集合で直線またはその部分線分と一対一に対応するものを言う。標題が複数形(Punktmannigfaltigkeiten)なのは連続体問題を念頭に置いてのことであろう。第5部ではより抽象的な集合の理論が建設されるが,その目標も連続体問題であり,かつ哲学的な連続論への関心があらわになる。第6部の最後で連続体問題への一歩前進と将来の見通しが語られるが,この論文は未完のままそこで終わる。

3-1.超限集合論の出現まで(第1部|第4部)3-1-1.第1部(1879)この第1部では,「連続」を分類するのに導集合による点集合の分類を利用する方針が宣言される。(この考えはイタリアのディニ(Dini)の論文(1878)の刺激による,とある。)即ち集合Xの或るn次導集合X(n)が空になる場合と,どのnに対しても空にならない場合を分ち,後者の例として或る区間Iで「到る所 ちゅうみつ稠密 (uberall-dicht)な集合」[その導集合がIを包む集合]が導入される。また「到る所非 ちゅうみつ稠密 (nicht uberall-dicht)な集合」[どの小区間内の部分にも,それに含まれぬ小開区間の孔がある集合;「疎集合」ともいう]が導入され,これはやがて疎な完全集合の発見につながる。


3-1-2.第2部(1880)翌年の第2部では,どのnに対しても導集合X(n)が空でない場合の延長として,次数nが有限値を超えて拡大される。集合族X=fP; Q; R;gに対する和集合M(P; Q; R;),共通部分D(P; Q; R;)などの演算がそのために用いられるが,これはデデキントの記号である。ただしこれはやがて使われなくなるので,以下,Mの代わりに現行の[,Dの代わりに\を用いる。これは当時におけるデデキントの影響の現れである。Pの導集合P′; P′′; P(3);はどれも,自らの導集合を包む集合(閉集合の名はずっと後に現れる)だが,P′は必ずしもPの部分集合でなく,またPは必ずしもP′の部分集合でない。これは,一般の集合Pは必ずしも閉集合ではないとい
5うだけのことだが,PとP′の間のこのわずかな(?)食い違いこそ,やがて連続体問題のつまずきの石になるものである。なお,カントルは「空集合」を集合の中に入れない。

※式が字化けしては転載できないので、元テキスト参照。

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