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私の勉強部屋コミュの岸信介

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岸信介に関するトピ

岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。旧姓佐藤(さとう)。満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第56・57代)皇學館大学総長 (第2代) などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。

東京帝国大学卒業後、農商務省、商工省にて要職を歴任。建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ、「弐キ参スケ」の一角を占める。その後、日本の商工省に復帰し、次官に就任する。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望された[1]。

東條英機内閣の太平洋戦争開戦時の重要閣僚であったことから、極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留されたが、不起訴のまま無罪放免されている。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、それも東西冷戦の影響による米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともに解除される。

政界に復帰し、弟の佐藤栄作も属する吉田自由党に入党するが吉田茂と対立して除名、日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。石橋内閣にて外務大臣に就任する。首班石橋湛山の病気により臨時代理を務め、石橋内閣が総辞職すると後任の内閣総理大臣に指名され、日米安保体制の成立に尽力し、60年安保の苦境も乗り切った。首相退任後も政界に影響力を持ち、自主憲法制定運動に努めた。

位階は正二位、勲等は大勲位。皇學館大学総長(第2代)なども務めた[注 1][注 2]。第61・62・63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟。また長女・洋子は安倍晋太郎に嫁いだ。洋子の次男は第90・96・97代内閣総理大臣安倍晋三、三男は政治家岸信夫。

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生い立ち

山口県吉敷郡山口町八軒家(現山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町)[注 3]。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の1字を取って「信介」という名が付けられた[5][6]。数え年3歳になった頃、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった[7]。

秀助・茂世夫妻は、本家のある田布施町上田布施中西田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)[8]。
学生時代

岡山市立内山下小学校から[9][10]岡山中学校に進学したが、学費や生活費の面倒を見ていた叔父の佐藤松介(医師・岡山医学専門学校教授)が肺炎により急逝したため、2年と1ヶ月足らずしかいることが出来なかった[11]。山口に戻り、山口中学校(戦後の山口県立山口高等学校)に転校。中学3年生の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。

1914年(大正3年)、山口中学校を卒業する。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通った[注 4]が、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば映画(当時は活動写真といった)や芝居を見に行ったりした[12]。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だった[12]が、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。

1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した[13]。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった[5][13]。我妻栄と2人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、2人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。

このころ岸は北一輝と大川周明の思想に魅了され[14]、上海で大川に説得されて帰国[15]した牛込の北を訪ねている。特に北について岸は「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」と認め、「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と語っている[16]。

1920年(大正9年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業する。上杉慎吉の木曜会と興国同志会に属し、上杉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。優等生であった岸が内務省ではなく二流官庁と思われていた農商務省に入省したことは意外の念をもって受け止められ、同郷の政治家で両省に在職経験のある上山満之進はこの選択を叱責したという。
農商務官僚(商工官僚)時代 - 満州国時代

農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった[17]。同期には平岡梓(三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった[18]。

1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、吉野作造の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった吉野信次であり、当時文書課長だった吉野と岸と臨時産業合理局の木戸幸一が重要産業統制法を起案実施したとされる[19]。1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。自動車製造事業法の立法に貢献。

1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた[20]。また、山口県出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。

この頃から、岸はどこからともなく政治資金を調達するようになった。その後、満州から去る際に「政治資金は濾過機を通ったきれいなものを受け取らなければいけない。問題が起こったときは、その濾過機が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」という言葉を残している[21]。
ゆうぜんさんの日記。

彼らの脳みそには、日本人としての根本である日本国憲法が消えている。戦前の明治憲法で生きている。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1930406161&owner_id=2398020

途中まで抜粋
<安倍後見人・森喜朗と岸信介>
 書棚を整理していたら安倍後見人で知られる森喜朗が書いたとされる「あなたに教えられ走り続けます」(北國新聞社刊)という妙なタイトル本を見つけた。むろん、買ったわけではない。森が自民党幹事長時代だから、平河クラブで配ったものであろう。悪運の強さでは中曽根康弘に次ぐ。副題に「よき師に応えて」とあるが、彼のよき師とはA級戦犯容疑者の岸信介、安倍の祖父である。初当選の際、元首相の岸が選挙応援に入ってくれたからだという。岸に「福田君を応援してくれ」という一言で岸派を後継した自民党右翼の福田派に入会したと打ち明けているのだが。




<ファシズム・ナショナリズムかぶれ>
 実際は、もっと深い理由があった。それは首相時代の「神の国発言」に象徴される。2000年5月15日夜、都内のホテルで開催された神道政治連盟国会議員懇談会の結成30周年祝賀会で「(懇談会は)昭和の日の制定など、政府側が若干及び腰になるようなことを前面に出して、日本の国はまさに天皇中心の神の国であるということを、しっかりと国民に承知して頂くという思いで活動してきた」とあいさつした。
 森は幹事長の時から同懇談会顧問をしている。国家神道復活にかける自民党の極右政治団体・神道政治連盟顧問である、森の政治信条を率直に吐露したものである。大日本帝国時代の国家神道復活である。どう考えても、これはファシズム・ナショナリズムかぶれであろう。
<天皇神国主義・国家神道の国粋主義者>
 彼らの脳みそには、日本人としての根本である日本国憲法が消えている。戦前の明治憲法で生きている。森は「教育勅語にもいいモノがある」とも吹聴した。平和主義や民主主義が、見事なくらい欠落している。
 こんな人物を、政界に送り出した選挙区民にも重大な責任があろう。恥ずかしいし、悲しい。「天皇は神」と信じ込んでいる。もう少し早く生まれていれば、喜んで天皇戦争に飛び込んで、靖国の“英霊”になったのであろう。
 むろん、そうだと彼の好きなサッカーも出来なかったことになる。
 恐ろしいことは、国家神道へのあくなき執着を見て取れることだ。これは岸の信条でもある。孫の安倍の信条なのである。これの否定をしっかりとしてこなかった戦後日本が、今日の危機なのである。
 米連邦議会調査局が「安倍はナショナリスト、ストロング・ナショナリスト」との報告書は正確なのである。隣国・アジア諸国民は、日本帝国主義者と外交・安保政策をしていることになるわけだから、いかにその対応が厳しいかを理解出来る。21世紀に明治の軍国主義が復活する?驚愕して当然なのだ。その黒幕は財閥なのである。
 戦前は軍部の強権で言論弾圧をした。今は電通を使って抑圧している。電通パイプは安倍・菅・世耕の3人である。これに新聞テレビ首脳は屈してしまっている。公共放送のNHKには三井出身のモミイを、安倍は送り込んでいるが、むろん財閥の意志なのである。
<戦後を駄目にした岸人脈>
 国家神道を根絶することをしなかったツケは大きい。無知蒙昧の大衆は、夏や秋の神社の祭礼に戦前同様に浮かれている。地域リーダーの仕事の根幹が祭礼行事になってしまっている。
 明治そのものが生きている。それが天皇制国家主義を底辺で支えている。この深刻すぎる構造的欠陥を、誰も指摘しない。カルト信仰の恐怖は、統一協会やオウムに限らない。
 神社神道と統一教会が支える自民党が、今の安倍内閣の正体なのである。

 こんな戦後の日本を駄目にした人脈の元祖こそが、岸信介である。東京帝国大学で国粋主義に心酔した岸は、財閥の代理人としての商工官僚になって旧満州国や東條戦争内閣に加担、その過程で蓄財にも励んだ。
岸政権と安倍政権は目的のためなら国民を殺してもいいというところがよく似ている
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1926567811&owner_id=2398020


1955年社会党の右派と左派が合併。対抗するために経済界が民主党と自由党を合併させた。
という訳で自由民主党(第三次鳩山政権)が出来た。
三次鳩山政権ではCIAのスパイで読売新聞の社主、正力松太郎が北海道開発庁長官・原子力委員会委員長・科学技術庁長官を兼務。大きな出来事としては日ソ共同宣言(日本国とソビエト社会主義共和国連邦との国交の回復)と国際連合への日本国の加盟。

次に石橋政権になるも石橋氏が脳梗塞で倒れ外務大臣岸信介が首相に。

岸は日本の情報を米に流す代償として戦犯を免れ米から調査費工作費などを受け取っていた人。
この岸内閣の時に石橋氏が病気回復して中国に渡り周恩来首相との会談。
ソ連の次は中国との国交をと、考えてのことだろうが、時の首相岸は
「同盟国アメリカの意思に反する行為であり、日本政府とは一切関係ないものとする」と牽制。
知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史〜芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった! http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48659 #現代ビジネス この記事まぁまとまってるかなあと思うけど、辻田って言う人間が自称中立とかで胡散臭いってのはある。

なんか戦後生まれってホントにダメだなあ。
『「岸信介とアヘン王の関係を追う〜密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた?」2016/08/07(現』
⇒ https://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-12188129529.html #アメブロ @ameba_officialさんから

岸信介とアヘン王の関係を追う〜密売で儲けた「数兆円」はどこに消えた?」2016/08/07(現代ビジネス) http://bit.ly/2aJT4kT

<引用開始→

■意外にも平凡な「アヘン王」の風貌

千葉県市川市の江戸川沿いにある里見公園は、戦国時代に里見一族が北条氏と戦って敗れた古戦場として知られている。

土曜の午後、その里見公園の隣にある総寧寺を訪ねた。上海の「阿片王」といわれた里見甫の墓があると聞いたからだ。

人気のない境内の奥の墓地に入って探したら、すぐ見つかった。こぢんまりした墓石に「里見家之霊位」と刻まれ、側面には「岸信介書」とあった。

たしかに岸の字だ。少し丸みを帯びていて優しげで、しかも繊細である。岸がその政治人生でしばしば見せる、激しさや冷酷さは少しも感じさせない。

「字は体を表す」とか「書は人なり」というけれど、岸にはその格言は当てはまらない。彼はつねに千変万化する。善人なのか、悪人なのか。鵺のようで捉えどころがない。

一方の里見はどうだったのだろう。彼は戦後の1965(昭和40)年、69歳で亡くなった。われらが先達、草柳大蔵は『実録・満鉄調査部』(朝日新聞社刊)で里見をこう描いている。


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〈五尺五寸ほどの痩せた男である。頭の頂天が尖っていることのほかは、何の変哲もない風貌をしている。むしろ柔和である。路傍の地蔵尊や野際の石小法師の前をとおるときは、必ず足を停めて掌をあわせる。物静かな語り口であり、周囲の人が「どうして生きているのか」と訝るほど食事を摂らない〉

さすが草柳である。里見の人間像が眼前に浮かぶ。里見はアヘンで中国に途方もない害毒を垂れ流したが、彼自身は私利私欲とは縁遠い、恬淡とした男だったらしい。

草柳によれば、里見は上海・虹口の乍浦路に面したピアス・アパート3階に住んでいた。6畳と3畳の二間しかない家で、秘書はおかず、「おちかさん」という身の回りの世話をする女性が通いで来ていた。

乗用車はビュイックの中古車で、しばしば藍衣社(=蒋介石直属の秘密結社)の狙撃の的になったが、運の強い男で、かすり傷ひとつ負わなかったそうだ。

総寧寺の里見の墓石のわきには友人の筆になる小さな墓碑が建っていた。そこに刻まれた語句が里見の生の核心を見事に捉えているような気がした。

凡俗に堕ちて 凡俗を超え
名利を追って 名利を絶つ
流れに従って 波を揚げ
其の逝く処を知らず



■里見と岸の関係



里見と岸の間にはいったいどんな交流があったのだろう。岸は戦後になって『岸信介の回想』(矢次一夫・伊藤隆との鼎談・文藝春秋刊)でアヘンについてこう語っている。


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〈満州国ではアヘンの吸飲は厳重に禁止したけれど、陰で吸っているのはいたでしょう。(中略)いずれにせよ満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸飲もさせなかった〉

読者はすでにおわかりと思うが、この発言は著しく事実に反する。満州国は表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、熱河地方ではケシの栽培を奨励した。それでも足りない分は華北などから輸入し、アヘンの専売で莫大な利益をあげていた。

岸がつづけて語る。

〈しかしアヘンを扱ったものとして里見という男のことは知っています。ただ私が満州にいた頃は里見は上海で相当アヘンの問題にタッチしていて、金も手に入れたのでしょうが、満州には来ていないから私は知らない。里見を知ったのは帰国後で、満映にいた茂木久平の紹介です。里見が死んで墓碑に字を書いたことがあるけれど、これも茂木に頼まれたからですね〉

茂木久平とは、満州の「夜の帝王」甘粕正彦が理事長をつとめる満州映画協会の東京支社長だった男である。どうやら岸は、里見とはそんなに深い関係ではなかったと言いたいらしい。


たしかに岸と里見の直接的な交流を示すデータはほとんどない。唯一、佐野眞一さんの『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社刊)に、戦後、里見の秘書役をつとめた男の証言が出てくる。


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岸は満州から帰国後の1942(昭和17)年、翼賛選挙に立候補して当選した。秘書役によれば、このとき里見は、岸に200万円(現在の約16億円相当)を提供した。「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作(後に首相)が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」という。

しかし、これは残念ながらまた聞きである。真偽の判断はつかない。それより東京裁判に提出された里見の宣誓口述書を読んだほうが、戦時中の岸と里見の関係のバックグラウンドを知る手掛かりになりそうだ。

〈私即ち李鳴(=里見の中国名)事里見甫は良心にかけて次のことが真実である事を誓ひます。

1937年9月又は10月私は新聞記者として上海に参りました。私はそれ以前天津に居つたのであります。

1938年1月又は2月に楠本実隆中佐が私に特務部(=支那派遣軍参謀部の一部)のために多量の阿片を売つて呉れるかどうか尋ねました。彼は此の阿片がペルシヤから来る途中にあると云ひました〉

里見はこの後、ペルシャ産アヘンで得た利益は約2000万ドル(現在の日本円で数兆円相当)に上ること、その利益は特務部(後に廃止)がある間は特務部に、それがなくなってからは興亜院(占領地の政務・開発にあたる日本の機関)に支払われたこと、1939年の末ごろには蒙古産アヘンも販売し、その大部分は中華航空機で運ばれてきたことなどを語っている。

問題は興亜院などに送られた金がその後、どこに行ったのかだ。里見は知っているはずだが口をつぐんでいる。私はいろんな文献にあたるうち、『阿片吸煙禁止処理経過事情』という文書に突き当たった。宣誓口述書と同じく東京裁判の検察側証拠として提出されたものだ。

そこには〈売上金ノ大部分ハ東条内閣ノ補助資金、及議員ヘノ補助金ニ割当テラレル為東京ニ送ラレタ〉という衝撃的な記述があった。以下次号。

『週刊現代』2016年8月13日号より

←引用終了>
昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道 豊下 楢彦 https://www.amazon.co.jp/dp/4000610554/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_jieLzbB4ZS6S5 読んでないですけど、何が象徴天皇かって感じの内容みたいですな。

関連記事 http://mainichibooks.com/sundaymainichi/column/2016/11/13/post-1215.html

天皇は、東郷に全部責任を負わせたわけだけど、岸にもかぶせようとしてたらしい。なんだこれ。
満州国で安倍の祖父・岸信介もアヘンで

大儲けし、巨大な富を築いた!

生体人体実験の731部隊の指揮も岸信介だ!

安倍晋三は死の商人の家系!

昭和天皇が嫌っていた松岡洋右と

安倍晋三は親戚だった!

安倍の祖父・岸信介は

人体実験の七三一部隊データを

米国に売り渡しA級戦犯不起訴になった!
http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/8d33e9d014cc2ef4c2c26913cd3fe2e1

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


なんかどこからどこまで何なのかよくわからないブログだけど、天皇に嫌われてたと言うのはなんなんだ?
松岡って人はこういう人らしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3

頭は切れそうだけどな。なんで天皇嫌ってたんだろうか。

国際同盟脱退 三国同盟を組んだことを根にもってたのかな。ウヨには人気あるらしい。

初心者向けって感じの説明。国際連盟からの脱退!なぜ?日本脱退の理由とは! https://japanandworld.net/archives/3725

そういえば、平成27年2015年年頭あいさつでこういうのがあったなあ。根に持ってんのかな。

天皇は、なぜ「満州事変」に言及したのか 「日本のリベラリズムの危機」を考える | アメリカから見た世界 - 東洋経済オンライン http://toyokeizai.net/articles/-/58687 @Toyokeizaiさんから

つまり、これって安倍へのけん制ってことなのかな。
岸に対して根に持ってるってことかな。

でも満州で天皇儲けたんちゃうんけ?・・

元々戦争してたし、昭和は2・26からじゃないの?軍国化が酷くなったのって。
圓の戦争 https://youtu.be/Q5Jhlxd4JZ0 @YouTubeさんから

関東軍は朝鮮銀行に通貨を発行させて軍資金を賄っていた。アメリカも日本や中国にドルを買わせて戦費を賄っている。 TORA http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/733.html

阿片じゃなかないきれなかったのかしら?
戦争と阿片
http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/section4E/kuiper_section4E.htm

https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4276193.html から

「秘史 阿片が支えた日本の大陸侵攻」(多田井喜生 「新潮45」1992年5月号)によれば、1919年度における関東州での阿片専売による収入は194万8900円。翌年度から阿片用の所得税と取引税が課せられ、実収は500万円程度。関東州運営予算の4分の1が、阿片専売によって賄われていた計算になるそうです(新潮新書「阿片の中国史」より)。
日中戦争前から普通に植民地で売っていたわけですが、1870年に日本政府が阿片を専売制にしたおかげで、日本本土への阿片の流入を阻止できたプラス面もあります。
日中戦争による戦費調達のため、日本が阿片の増産(生産、ではありません)に務めたのは当然でしょう。

シナリオについてですが、太平洋戦争終了で終わったほうがよろしいかも。日本が資源をドイツへ供給しても、イギリスが降伏しても、ドイツがソ連に勝つのは無理と思われますので。

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