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日本人のルーツコミュの邪馬台国はどこ?卑弥呼はだれ?

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日本古代史、最大にして最もポピュラーな謎である邪馬台国と卑弥呼。

邪馬台国 場所は九州・近畿それとも他?一つの国かそれとも連合国の総称なのか?

卑弥呼 個人名それとも役職名?墓はどこにある?

などなど、この二つのキーワードに対するみなさんのご意見をどんどん書き込んでいって下さい。
     

コメント(40)

先ずは自らいきます。
以前は邪馬台国は九州、そして卑弥呼は日巫女で天照大神と思っていたのですが最近揺らいでいます。

その原因はこの二つの名称の読み方です。
この二つが載っているのは通称「魏志倭人伝」と呼ばれる本ですが、これを書いたのは当時の中国人
そして自分達の国や王について説明したのは日本人(あいだに朝鮮人がいた可能性が高いですが、話を簡単にするために省きます)。
この時代に日本に漢字はなかったはずですので、日本人の発音を中国人が漢字に当てた(中国特有のなるべく卑しい漢字を)ことになります。
そうすると邪馬台国・卑弥呼を当時の中国人が何と発音するかを調べないといけないのかなと思うようになってきたためです。

どーでしょうか?
 『隋書倭人伝』は邪馬台国を「邪馬臺」と記しています。異論はありますが、「臺」とは「台」。読みは「タイ」若しくは「ダイ」ですが、「ト」と読む場合もあります。つまり、「邪馬台」と「ヤマト」とする説を支持します。更に「臺」は、中国(大陸の)では、朝廷や役所を意味します。「邪馬臺」とは、それ即ち朝廷を意味するものです。
 北九州から東遷を果たしたのは、第7代孝霊天皇。そして女王「卑弥呼」とは、孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)」というのが、一番合点する説ですね。お墓は奈良県桜井市にある「箸墓」。
 そして天照大神は、神託による政治を司ったカリスマシャーマンを示唆していると思います。
そうですね。記述してある距離・日数、戸数から考えると九州内に収めるのは無理があり、やはり畿内にあった(畿内そのもの)というのが最も合理的に説明がつくと思います。

では次の点に議論を発展させたいと思います。
・魏志倭人伝中で邪馬台国の次に戸数の大きい投馬国をどこと考えるか
 私は吉備だと思うのですが、出雲も考えられるのかと
・上とからみますが、出雲は邪馬台国の支配下か?
 ヤマトトトヒモモソヒメを卑弥呼とすると夫は大物主神ですので邪馬台国の支配下若しくは
 同盟国と考えられますが、3世紀後半における出雲の古墳が四隅突出型であるのが気にな
 ります。
・狗奴国はどこか?
 私は一般論の滋賀・岐阜・愛知付近と考えます(前方後方墳の分布から考えて)。但し
 市原で見つかった前方後円墳をどう説明するのかの答えはでていません。
 ちょっちょりーなさんの鬼怒川周辺というお考えを是非披露して頂きたいと思います。
すいません。改行がおかしくなってます。
 投馬国は、私も吉備だと思います。おっしゃる通り、四隅突出型古墳の分布を見ると、その勢力は出雲を中心に中国地方全域から富山県姫川流域に及ぶ大国だったでしょう。大陸と直接交易ができたのは、北九州連合とこの出雲だけだったと考えます。
 当時の2大先進国が大和を欲したのは、瀬戸内海の制圧が最優先事項だったからです。孝霊天皇とその兄が、戦力と生産力を背景に出雲と同盟し、大和を撃ったのでしょう。当時、河内には瀬戸内海とつながった大きな湖があって、大和の港は入り江の奥にあったと思います。大和は難攻不落の大国でした。その大和を攻めるには、大手を吉備から瀬戸内海に配し、搦め手を尾張の協力を得て、現在の国道1号線ルートに配したと思います。つまり、尾張は同盟国と考えています。大陸と交易した国の「強さ」は、鉄器の輸入だけではなく「兵法」や大国を治める「王道」などに裏打ちされたものでした。

 北九州連合、出雲の同盟関係は、吉備津彦が吉備を軍事制圧するまで保たれたと考えます。ここに、「桃太郎は卑弥呼の実弟」という説が成り立ち、話のネタにしてます。

 ヤマトトトイモモソヒメの夫の大物主神は大和の神です。大国主、大物主は、それぞれの首長の称号だと考えています。ヤマトトトイモモソヒメと大物主の神話は、太陽信仰と土着の信仰の融合を示唆すると思います。

 狗奴国が鬼怒川流域というのは、群馬県太田市に関東最大の古墳である天神山古墳があるからです。この古墳は、古墳時代初期に造られた物で、埋葬者は東国統治を命ぜられた崇神天皇の皇子「上毛野君(カミツケヌノキミ)」。また、「狗奴」を「鬼怒」の語源とするなど、う〜ん、納得いくんですよね。
 なるほど。ちょっちょりーなさんはご自分の中でかなり明確な邪馬台国像というか古代史観をもっていらっしゃるようで、うらやましい限りです。

 卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメで考えていらっしゃるということは、トヨ=豊鍬入姫命と考えていらっしゃるということでよろしいのでしょうか?

 私としては魏志倭人伝に女王とあるのが気になります。二人とも宗教的な象徴であり、王ではないと思うのですが、この辺についはどうお考えですか?
 
 狗奴国については振っておきながら、私に大して知識がないことを思い出しました(汗)。ちょっと勉強してみたいと思います。
 補給線は戦略の基本。こう考えると、物語として面白いんですよ。弥生人だって、考えることは私たち現代人と大差ないと思います。物事は必然性によって動きますからね。

 トヨ!さすがに鋭いですね。台与は豊鍬入姫命だと思います。魏志倭人伝での女王についての記述は、台与以降ぱったりと無くなります。ここが面白いところです。
 天野岩戸事件以前の天照大神は単独で判断し、行動していました。しかしそれ以降は、天神である高御産巣日神(タカミムスビノカミ)とペアで登場することが多いんですね。これを「卑弥呼の死→女王不在の時間→台与の即位」に当てはめると、絶対の権力を誇った卑弥呼が死に、そして内乱がおこった。そして、13歳の台与が後見人と共に即位した。ってなことを示唆しているように思えます。
 そしてその後見人は、女王である台与を「斎王」として政教を分離し、中央集権政治を確立したんではないでしょうか。その後見人とは...「知初国御眞木天皇(ハツクニシラシシスメラミコト)←初めての天皇」と称される弟10代崇神天皇です。神武天皇もこの称号を受けていますが、このオッサンは架空だと思います。
 中央集権となった大和に、もはやシャーマンの女王は必要なく、天皇派と女王派の分裂を避けるために、台与に天照大神鎮座の地を探すよう命が下ります。そして八咫鏡、天叢雲剣と共に旅をする事になったんですね。これが豊鍬入姫命ではないかとする根拠です。

 つまり、卑弥呼の時代は同盟など政権として不安定な時期を、卑弥呼というカリスマが統治する正に女王の時代。そして台与の時代は、吉備津彦の活躍などにより、発言力のある勢力の制圧を経て政治的に安定し、過渡期を向かえた時代だと思います。
 補給線は戦略の基本、同感です。
 歴史を振り返ると補給を疎かにした軍隊の結末は、どれも悲惨なものであると感じます。
 
 質問ばかりでは卑怯なので、恥を忍んで持論を展開させていただきます。
 先ず私は東遷は2回あったんじゃないかと考えています。
 一回目は神武の東遷、これはそんな大規模なものではなかったと考えます。九州において主役とはなりえなかった集団若しくは新参の渡来集団が野心をもって大和に入り奈良盆地南部を獲得し勢力を拡大させていき、後の邪馬台国へと発展した。
 二回目は崇神の東遷、これが記紀にある東遷のモデルと考えます。
 卑弥呼没後、日本は大雑把に分けると九州、出雲(山陰・北陸)、吉備(山陽・瀬戸内・近畿一部)、大和(近畿大部分)、尾張(伊勢・尾張・遠参駿もか?)、毛野(関東・長野)、東北の各ブロック毎に独立状態となり倭国の主導権争いを始めた。
近畿は一時出雲の手におちるが、神武・卑弥呼の正当な後継者(一族)であり九州を統治していた崇神が晋(朝鮮)に援軍を求めるとともにトヨを立て吉備や紀伊、伊勢の各豪族と連合し大和から出雲を追い出し政権を取り戻す(但し、出雲は内部分裂を起こしていたと考えます)。

どーですか?中々の空想力・妄想力でしょう(汗)
「真実は小説よりも奇なり」
みなさんからの異論反論お待ちしております。
おっ!いい感じですね。反証可能性が低い事象である以上、妄想をいかに面白く展開するか、ここが楽しいところです。

 私が孝霊天皇を東遷の立て役者とするのは、次の理由があります。
 孝霊天皇には兄がいました。「大吉備諸進命(オオキビノモルススミノミコト)」と言うひとで、七面倒くさい天皇家の神名に、唐突に「吉備」が出てきます。おそらく当時の要衝である吉備において、多大なる功績を成してつけられた神名でしょう。多分、出雲を傘下に入れたってことではないでしょうか。そして、大兄皇子であったと思われるこの人が、何故皇位継承しなかったのかですね。
 記紀神話によると、神武天皇の侵攻のペースは以外に緩やかで、北九州に1年、安芸に7年、吉備に8年かけています。これは単なる軍事侵攻ではなく、圧倒的な戦力と最新の技術力を背景に和睦を優先。傘下に加わることのメリットを十分に浸透させてから、反対派のみを「荒ぶる神」として平定し、生産力を保存しながらの侵攻だったんじゃないでしょうか。
 で、満を持して大和征服です。大兄皇子が本体である大手(陽動)の指揮を執り、吉備からの補給を受け大阪湾から正面攻撃。そして搦め手(奇襲)に回った、彼の弟である大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト)が、尾張の協力を得て大和を背後から攻めたとします。前述した通り、大和は難攻不落の大国。正面攻撃は壮絶を極め、大兄皇子は戦死。そして大和を落としたのは、奇襲攻撃を仕掛けたオオヤマトネコヒコフトニノミコトで、皇位を継承し「孝霊天皇」になったってことにすると、神武東遷にぴったり当てはまります。そして、この孝霊天皇の皇女がヤマトトトイモモソヒメノミコトで、『魏志倭人伝』における、「皆統屬女王國」の状態へと展開していきます。

 なぜ北九州連合が大和に固執したのか。これは、貿易の代価を得るためです。鉄も技術もタダじゃありません。その代価とは...瀬戸内海の「真珠」です。特に淡路島周辺は真珠の特産地で、この独占こそが最優先事項だったと思います。

 ってな感じです。世の中銭ですからね。野心も富を得るために盛り上がります。自分だったらこうしますよね〜。
真珠ですか…全く持って盲点ですね。考えたこともありませんでした。ですが経済が歴史を動かすというか、経済から歴史を見るというのは私も大好きです。以下その辺について書かせていただきます。

 私が考えるに縄文晩期・弥生初期における大和は後進地帯であったと思うんです。当時の先進地帯は九州北部と出雲であったと思います。
 何が先行していたかというとそれは稲作です。稲は食物として作っていますから、第一に自分達の食料として消費します。次に生産性が上がってくると余剰品がでます。これは本来、稲作が出来ない地域や実りの少ない地域に分けてあげるというのが美しい姿なのですが、人間そうはいきません。これを売りつけようとします。
 これの中央取引所(現代風に言うと、東京証券市場や築地市場といったところでしょうか)が大和になったと思います。
 北九州から稲を出雲・北陸から青銅器・ヒスイが持ち込まれます。一方、東日本は何を持っていくのか、ここがポイントなんですが、毛皮・獣肉なんかが考えられますが、私は労働力だと思います。つまり出稼ぎです。
 縄文時代の中心地は東日本、特に東北・東海に多くの人が住んでいたと考えます。
 一方、西日本の渡来人は東日本よりは進んだ技術を持ってるものの、絶対数は少なかったのではないでしょうか。何せ船で来るしかないわけで…
 人間、楽したいです。安い労働力を使って、自分は「食う・寝る・遊ぶ」(ちょっと古いですが)。
 そんな時代じゃなかったのかなと思います。
 で神武はというか神武に当る人間集団は、その取引所を抑えることにより、自分達でレート(相場)を決定し仲介手数料を取れば、まる儲けじゃーんと気付いた優秀な経済感覚を持った人達であったのではないでしょうか(神武一行が世界の経済を今でもしきっている華僑やユダヤ人であったというもの否定はしません)。
 なるほど。それは十分東遷の理由となり得ますね。筑紫平野だけでは、人口増加に伴った生産ができなくなったってことでしょうね。
 持論にいととんさんの説を取り入れて...大和が技術的に行進地帯であったと言うことは、私もそう思います。真珠にせよ食料にせよ、北九州は鉄などの輸入品及び輸入加工品で大和と取引をしていたことでしょう。例えば鉄はですね、高級品ですが当時としては耐久消費財で、普及に伴い価値は下がると思います。鉄が下落してしまえば、交易で支払う真珠の総量も、大和から仕入れる食料も減りますからね。由々しき事態でしょう。行進地帯の大和が、商売上クライアントとして立場が上がり、市場をコントロールされてしまいます。邪魔ですね〜。輸入国の北九州連合と出雲は、ここら辺の利害が一致するわけですね。で、同盟を組むにいたるってところでしょうか。
 もう一つの真珠の特産地である伊勢湾を統べる尾張氏も、地勢的に見て、大和に真珠の価格をいじられてたかも知れないですね。尾張氏も大和が邪魔になっちゃいます。

 大和は、ある程度北九州連合を信用していたと思います。邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)なる北九州人が、大和の首長である長髄彦(ナガスネヒコ)の妹の登美夜須毘売(トミヤスビメ)を妻にして中枢に入ってます。内部かく乱を目論見ながら、連合軍の総攻撃に備えています。諜報活動も行ったでしょう。そして、ナガスネヒコを殺したのは、このニギハヤヒノミコトです。
 他国の首長の妹に皇族から婿を出すなんてことは、大和が対等若しくはちょっと上くらいの立場になっていた可能性があります。政略結婚をさせて友好関係を装いながら、裏ではキッチリひっくり返す段取りをしているところなんか、弥生人のレベルの高さを物語ります。

 華僑!はっはっは、おもしろいですね。ユダヤ人まで出てくると天津教みたい。
 私はやっぱり朝鮮系の人だと思いますよ。『魏志倭人伝』で記されている邪馬台国の位置ですがね、九州論の方々の論拠となっておりますが、私は...あれは朝鮮系の人達が、交易の窓口として得ていた既得権益を守るため、魏にウソを報告してるんじゃないかと思います。「遠いのなんのって、難儀でっせ〜。」ってね。なにせ相手は超大国ですからね、思いのほか近いと知れたら、直接取り引きされるか、征服されちゃいますからね。現に正確な位置を知った元は、日本を攻めたりしてます。グルですよ、きっと。
 そうとは知らず首を突っ込んだ魏の好青年「張政さん」は...
んーというかですね、私のは凄く単純な話で。当時の交易は国内交易と考えて、国を西日本と東日本としてですね。
西日本=物余剰・人不足
東日本=物不足・人余剰
とすると、物(食料)を得るために東日本人が西日本人の下になるので、西日本=支配者・東日本=被支配者という階層社会の出現にも繋がるのかなと考えているわけです(初めからこうやって書けというかんじですね(汗))

 ニギハヤヒ、私は出雲人と思っております。卑弥呼の死後、出雲人であるこの人が、ナガスネヒコと手を結んで大和を支配する。しかし九州よりやってきた崇神一行が有利と見るやナガスネヒコを裏切って崇神と和睦ってな具合です。
 
 魏志倭人伝、私も記述というか距離・方角については信用してません。ただ私は中国人が「中国ってのは、こんな遠くの国の王が配下にして下せーっていうほど大きく・偉い国なんだぞー」って、まぁ中華思想ですね、によってあんな無茶な旅程を書いたと思ってます。

 天津教、初めて知りました。ちょっとネットで検索しただけですが…私は無関係者なのでご安心下さい。私も朝鮮系と考えています。
西日本=物余剰・人不足
東日本=物不足・人余剰

うんうん。
 私は、東日本の各国も一国たり得る国力は持っていたと考えます。長野県諏訪市の守矢氏のように、自給自足ができる集落が集合した国家に、経済圏を急激に広げる必然性があまりないように思えます。独立した経済圏に限定して着目すると、文化レベルが上がりにくい代わりに、深刻な人口増加もなかったんではないかと。それが縄文時代から執られてきた、原始日本における「従来の国家体制」だったんじゃないでしょうか。

 しかし、北九州連合や出雲には貿易の代価を得る必要性と、近代的な国家の統治理論の輸入による国家の近代化がありました。集落の都市化と組織化。組織的な農業は安定した余剰生産力を産み、人口増加による生産力の向上や、支配者階級や各分野のエキスパートナー等の専門職を養うことができます。そして、支配者階級が組織されるにつれ広域の統治が可能になり、経済圏を広げることで国力を増し、豊になっていく方法が定着していきました。
 内需が拡大し、経済が活発に動くようになりました。で、北九州連合の東方侵攻になるわけですが、前述した生産力の確保を優先した侵攻というのは、経済圏拡大を目的にしたものなので、豊かな国力を背景に和睦を行い、主権を譲渡させる「国譲り」という方法で行われたと考えます。
 一部の先進的な渡来民族が「食う・寝る・遊ぶ」するためにというよりは、日本全体が近代化の必然性をもって発展を遂げたと思います。覇道をもって人民を永く統治することはできません。人はメリットがあって初めて動きますからね。

 あ、ちなみにニギハヤヒが北九州人というのは、彼が天神だからです。出雲は国神ですから。
 新しい物や技術を積極的に取入れ暮らしを豊かにしようとする人
 今ある物や技術で満足し過去からの延長線上で良いとする人
私は明らかに後者の人間が多いと思います(私もそうです…生来の怠け者です…)
 そうであるならば、西日本(渡来人)の押売り無しには、それまでの各ブロックを超える国家と呼べるようなものの誕生はなかったかもしれませんね。
 ちょっちょりーなさんの「経済圏を急激に広げる必然性があまりない」というの、まさにその通りだと思います。少し自論を練り直す必要を感じます(これが楽しいんですよね(笑))。

 天神と国神については、そのうち別トピ(記紀や大和王権についての)を立てたいと思いますのでとっておきますね。

 最近の疑問を一つぶつけさせて下さい
 これも大局的には別トピでいきたいので、ここではこの3世紀に限った話でいきたいと思います。
 それは日本と大陸のルートです。当然、海路しかないわけですが。私が疑問に思っているのは朝鮮半島ー日本間のルートなんですが、北九州(対馬、壱岐も含みます)に寄らずに直接、出雲(というか山陰)に行けたと思いますか?
例えば朝鮮半島の東岸から、鬱陵島→竹島→隠岐→出雲というルートは存在したと思いますか?
 『魏志倭人伝』には、日本の特産物として「真珠・青玉を出だす」とあります。日本海ルートはあったと思いますよ。貿易の代価は、姫川流域のヒスイ。
 出雲の勢力は、中国地方と北陸の一部を広く支配していたと思いますが、出雲が中心地となり得たのは、貿易の港がこの地にあったからだと思っています。姫川流域までイビツに勢力圏を広げる必要性と、広域を統治する政治的な技術は、貿易によってもたらされたと思います。ただ、決定打がないんですよね〜、ここらは。
 ヤマタノオロチの尻尾から天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ、草薙剣)が出てきたってのが気になりますね。
 朝鮮半島とのルートが一つだけだと、北九州と出雲はどちらかが主でどちらかが従とならざるを得ないと思うんですよ。
 くどいのを承知で書きますが、対馬→壱岐→松浦・博多のルートしかないとなると、これらの地域(島)を抑えた勢力が貿易を独占できるわけで、そうなると大和より先にこのルートを抑えようと出雲VS北九州となるんじゃないかと思うわけです。
 ですので、出雲と北九州を対等と考えた(考えたい)場合
 ?それぞれが独自のルートで大陸と貿易を行っていた
 ?港を中立地帯とするような共存・協力体制があった
の、どちらかなのかなと…

>ヤマタノオロチ
 非常に意味深げな神話ですよね。
 ヤマタノオロチ=タタラとする説やヤマタノオロチ=越・吉備とする説など、どれももっともらしく聞こえてしまいます。
 スサノオは天津神ですが血が繋がってるはずの大国主は国津神というのも不思議です。
 そうですね。私も吉備津彦が吉備を制圧するまでは、立場的には対等だったと思います。ただ、安芸を7年かけて制圧した段階で、国力自体は北九州の方が上回っていたと思います。で、北九州、出雲の共通の敵である大和制圧に、北九州主導の同盟を組むに至ったと考えてます。

 貿易ルートに関しては、ある程度貿易船の自由にできたのではないでしょうか。というのは、鉄や技術、後の馬等は、安くはなかったと思います。それなりの代価を支払わなければならず、船に積んである物品の全てを買えたとは限らないですし、商売相手は北九州だけではなかったわけですからね。

 ヤマタノオロチ自体はアラハバキ神だと考えています。3世紀頃の製鉄所跡が見つかったら決定的なんですけどね。

 スサノオはですね...もともとは出雲の神様ですよね。後に皇族支配の正当性をでっち上げるために書かれたのが記紀神話ですので、出雲の神をムリクリ天孫にしてしまっているわけですな。
 時代が前後して矛盾が生じやすくて、物語を作る上でとっても厄介なところなんですが・・・
「泣いてばかりいて言うことを聞かないスサノオ←貿易競争相手で従わない出雲」
    ↓
「ねーちゃんのところで悪行狼藉を働くスサノオ←同盟後反乱を起こした出雲」
    ↓
天野岩戸事件
    ↓
「出雲に追い出されて大人しくしているスサノオ←行政執行部から追い出された出雲」

なんて感じになるのかな。そして、国譲り神話では、天照大神がタカミムスビノ神とペアで登場することから、女王がトヨになってから吉備を制圧。大国主は島根に引っ込んだってところでしょうか。う〜ん。そうすると吉備津彦と時代が...

 ま、それはそれとして、天孫が天孫いじめるよりは、大国主は国神であってくれた方がいい感じですからね。「そこはツッ込んじゃイヤ〜」ってところじゃないですか?
はい、突っ込まないでおきます(笑)

北九州主導、私も賛成です。
大陸との一番有力かつ安全なルートは半島から北九州に至るルートであったことは間違いないでしょうし、そうであるならば北九州の方が良いもの(まぁ鉄でしょうね)を先に買うことが出来たと思うからです。

アラハババキ神は、縄文時代から日本にいた人達が信仰していた神の一人だったと思います。大和王権(渡来系)に従わなかった「ネイティブジャパニーズ(まつろわぬ民)」が信仰していた神じゃないでしょうか。
そしてその中心にいたのは物部氏ではなかろうかと思います。

ヤマタノオロチ=アラハバキってのは的を射てますねぇ。
蛇と鉄というキーワードをおさえてますもんね。
「まつろわぬ民」の軍需工場があった出雲をスサノオが攻略した。そして大和王権は瀬戸内海ルートで真珠を日本海ルートでヒスイを交易することが可能となった。
こんなストーリーでいいんでしょうか?
但し、時代は私もおいときます。
 うんうん。そうなるのがとっても自然な気がするんですよね。ただ、もともとは出雲のカッコイイ役の神様であるスサノオが、記紀神話に組み入れられることによって、悪行狼藉のわがまま役にされてしまったのは、非常〜に気の毒です。

 物部氏。う〜ん、まぁ、私の持論では物部氏の祖であるニギハヤヒは北九州人としていますので、当時の右翼だったのかなって思っています。また、物部氏は代々、布都御霊を守るお役目だったことから、かなり八百万の神に傾倒し、皇族ベッタリの家系だったと思います。
 だから革新である仏教流布で、急激に力を増した蘇我氏と対立したのかな。下位であった崇峻天皇は、蘇我氏、大伴氏の後押しがなければ、天皇になれなかったでしょう。ありゃ、クーデターですよ。物部氏は正統な皇室を守りたかったんじゃないでしょうか。
 ただ、氷川神社の祭祀が物部氏だったことから推測すると、後の世にたたら製鉄と鍛造の技術が確立し、国産の鉄器が製造される頃になってから、武器を司る物部氏が縁起をかついでアラハバキ神を信仰するようになったのかな。

 日本にはですね、祟りという素晴らしい文化があるんですよ。祟りを恐れ敗者の神を祭るというのは、八百万の神に「荒ぶる神」を包容し、信仰の自由を認め万民の抵抗を抑える、実に合理的な方法だと思っています。
 だから私たちの習慣の中にも、古来の日本の作法が残っているんですよね。例えば、神社に行ったとき鈴をガランガラン鳴らすのは、その昔は銅鐸だったという説を支持します。風習自体が残っていても、正当化すれば別に執政に影響ないですからね。多神教ってとっても便利。
多神教、世界平和のキーワードですね!!
一神教では厳しい(キリスト教とイスラム教のように)
養老先生が曰くところの「バカの壁」を作ってはいけないと思います。
トピズレ、失礼致しました。

皇祖霊を各地の豪族に敬わせることにより勢力を拡げた大和王権は同時に各地の豪族が崇拝していたそれぞれの祖先の霊を荒ぶる神、祟る神として自らも敬うことを忘れなかった。
私も日本人が世界に誇れる素晴しい文化・風習だと思います。

さて、自ら「物部」というキーワードを出しておきながら恐縮なのですがトピ名である「邪馬台国はどこ?卑弥呼はだれ?」からは議論が発展しすぎてしまったなと感じています。
ここはひとつ非常にオールマイティなトピを立てたいと思います。
考古学会では畿内説がかなり有利、というか九州説は絶滅寸前?ということですが、まだまだ九州説も捨てたもんじゃないとも思います。

以下に私が九州説も捨てたもんじゃないという理由を挙げますね。
?卑弥呼没後、トヨが女王に立つという記載ののち、中国の文献から倭についての記事がなくなる、これはこの時期中国が五胡十六国という混乱期に入ったこともあるが、中国と交渉を持ったことの無い勢力が邪馬台国を倒したという考えも成り立つのでは?
?前方後円墳が大和王権の勢力拡大を表すとすれば、邪馬台国の時代、大和王権の勢力は畿内に留まっており、大陸に使者を送れるような勢力ではなかったのでは?
?魏志倭人伝に書かれている方位が間違ってるのであれば、距離も間違ってると考えるのが自然であり、ここからは畿内も九州も確定させることは出来ない。ただ書かれている風俗(入墨)・気候(一年中暖かい)など南方系を思わせる記事が多く、奈良盆地っぽくないのでは?

取敢えずこんなところで、皆さんの意見お待ちしております。
ちなみにこのトピを上から読んでもらうと分かりますが、私は現在畿内派です。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=308510&media_id=20

うーん、やっぱり 邪馬台国は奈良(マキムク)が最有力でしょうか?
箸墓=卑弥呼の墓?
ヤマトトトヒモモソヒメ=卑弥呼?
邪馬台国=大和・河内を中心とした、畿内・瀬戸内・北九州連合?
はじめまして

いろんなことがわかってきて、大河ドラマになれば、おもしろそうですね。
いいですねー
かなりマンネリですもんね「大河」
もしやったら、NHKのチャレンジ精神に拍手ですねわーい(嬉しい顔)
はじめまして。
先日、鹿児島は隼人にある「卑弥呼神社」に行って来ました(^−^)/
割と新しい建物でしたが、資料になりそうなものはあまり。。。

そこの掲示には卑弥呼がこの地を統一していたということで神社を建てるとありました。

一個人としては地元っこなので南九州ならうれしいです(笑)

私が聞いた話は、邪馬台国は郷の中から霊力の持った少女を集め、修行をさせ、その中で最も霊力の高い娘が次の女王となる。というものがあり、卑弥呼も例外なくそうだったようで。彼女がその力を示したのは皆既月食の予言だったみたいですね。
 卑弥呼の没後、その弟がしばし王位についたものの戦が耐えず、弟は戦死したため、これまでどおりの方法で伊与を後継とした。とききました。
最近、テレビなんかで盛んに邪馬台国=四国(徳島)説がいわれています。

私としては、九州と畿内以外は考えられない、と思ってるのですが…これは実際問題、真剣に研究されてるのでしょうか?
最近、箸墓がニュースや新聞紙上を賑わしてるようです。
内容は箸墓を卑弥呼や邪馬台国と繋げるようなもので、 出土物をC14で検査したらちょうど良い時代であったとか。
確か橿考研の発表だったかと…私的には調査対象物がちょっと少ないのが気になりますが。

ついに邪馬台国決定!となるのでしょうか?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1016463&media_id=2

 大型建物遺構発見!ということです。
 マキムク(変換の手抜き御容赦下さい)遺跡からは、あまり生活臭がしないという記事を読んだ記憶があります。
 発掘された土器の生産地が多様で広いこと、近辺の古墳の密集度、三輪山との位置関係、これらを総合すると祭祀用の建物ではないかと思います。
 邪馬台国(連合?)の地域長のような立場の人々が全国から集まり、奉納品を納め、祭祀を執り行い、時には会議のような政治的なことも行うような建物であったのではないかと…その時の今でいう神主的な存在が卑弥呼や台与であったのか…想像は膨らみますねわーい(嬉しい顔)

 箸墓や今回の大型建物遺構の年代観が正しいとした上で、これらの施設を建設・維持するには当時どのような条件が必要だったのでしょう?
 これらを造るには膨大な人数が必要だったはずです。なぜ人々はこれらの施設を造ったのか、国は何をもって人々を国民とでき、労役を課せられたのか?
 それは「社会保障(身の安全と食料の補償)」なのか?それとも「信仰」や「民族高揚」なのか? 
 
 ここに日本国誕生の産声を感じます。
 
 去年から今年にかけてのマキムク周辺の発掘の成果はすごいものですね。

 大型の建物遺構、東大寺山古墳の太刀の再調査結果、箸墓出土土器の年代測定、そして今回の大量の銅鏡(破片)と、まさに発見ラッシュといえますね。

 あとはマキムク周辺で金印さえ見つかれば邪馬台国論争も完全決着となるでしょうが…でてきますかねぇ、金印exclamation & question
>>[39]
巻向の県営住宅群を強制移転できれば可能でしょうねぇ〜。
私にはあの下に埋まっているように思えてならないです。
あんな何が出てくるかわからないところにいくら戦後で土地がなかったにせよ住宅作ってしまった奈良県の愚策振りにも、それに意を唱えなかった当時の人にも色々おもわなくもないですが、まずは県や国に陳情するところから始まるかと。

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