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実用のカオス理論コミュの塩をくれ

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ひさしぶりに母子水入らずでのんびりしていると、昔話にも花が咲くのである。それにしてもひさびさに実家の料理を食べていて気が付いたことがある。あーそうだ。うちってそういえばみんな甘口な味付けだったよなー。母の煮物は昔から近所に配るととても評判が良かったが、その時聞いたうちの秘伝は「砂糖しか使わない」という事であった。うちは長男が俺で妹が一人。おやじとおふくろの4人家族であったが、父親は企業家で多忙を極め、家などに帰ったこともかまったこともなかった。1ヶ月に1日しか帰らないなんていうのはざらである。家で晩酌をしながらTVの野球中継を独占することもなければ、自分の特殊な生き方を子供に強制しようともみじんも思っていなかったようだ。またうちは母方のおじいちゃんの家が隣にあって一緒に生活していたが母方は女3姉妹そして母は長女であった。つまり女系な環境下であった。そしてさらに母方は広島のあの年代出身なので親戚が一人もいない。つまり原子爆弾でみんな影になってしまったのである。うちの一家だけ偶然にもおじいちゃんの海軍の用事でそのとき呉にいて生き延びた。また父方は男3兄弟の長男であり立川周辺に親族が山のようにいる大家族であったが、なんと孫と呼ばれる存在は俺と妹しかいなかった。しかも長男の長男。ちょっと変わった子供であることを除けば(のっちによるとユニークというのは英語圏では誉め言葉だそうだな)見た目も女の子のように育てられ、申し分なく成績優秀であった俺はどこへいっても溺愛された。うちに父親の存在感がない。それは男の子である俺にとっては家庭での天下を意味した。と。これだけではないのである。うちの母親は徹底的な自由主義であった。夜間の外出から。遠出から。夜更かしから。食事まで全て幼児のころから自由であった。まあその背景には自営業をハードに営んでいるためにかまえないというのもあったと思うんだが。それにしても異常である。忙しくて子供を遊びにつれていけない親を尻目に。小学校2年生ぐらいから俺は「東京の博物館ガイド」を買って毎週日曜日になると順番に一人で見学に出かけていた。一度行って気に入ったところがあると次回は妹をつれて遊びに行った。当然同級生の子らはそんな遠くへは子供だけで行かせてはもらえなかった。一度友達達を無理めにつれていって問題になったことがあった。道に迷ったのである。そんなものそこらのおばちゃんに道を聞いてクリアしていくのが常なんだが、友達は怖くなってしまったのである。しかたないから近くの交番からその子の親を呼んだ。一番好きだったのは「科学技術館」。当時行きたくてしょうがなかったが研究者のみにしか開館していなかった「日本寄生虫博物館」もいまでは一般に公開されているらしい。いい時代になった。まあいい。一度山を越えて行かねばならないところへ行ったとき帰りが夜になってしまった。山道に街頭はなく自転車のライトが照らす2mぐらいしか見えない。ちょっと心細いのでうたをうたいながら進んだがやはり道に迷い、なんとか家にたどりついたのは夜中であった。父親以外の親族がみんな家の前で心配して帰りを待っていた。母は親族にひどくおこられたが。「私は送りだすときに全ての覚悟はしている。それでも経験させる」と親族に力説していた。俺はただほっとかれてるわけではないんだな。とその時思った。話がそれたが、俺は食事が嫌いだった。特に油分があるものや、肉類、炭水化物。うちでは食べたくなければたべなくてよかったが、さすがに何も食べないので苦肉の策としての母親との妥協点は「果物」であった。あとはヨーグルトや、子供が好んで食べる海苔などの乾物類。そんなものしか食べなかった。俺は氷菓が死ぬほど好きで、おやつが家にころがっている家ではなかったので(それにスナック菓子などは俺にとっては食事であった)カルピスや果汁や砂糖などを駆使して自分でそれを作り。毎日それを腹いっぱい食べていた。お小遣いは高校生ぐらいになるまでほとんどもらったことがないがうちでは親父の方針(かなこれは)かなんかで本を買うといえば誰もがお金をくれた。実際本しかほしいものはなかった。山のように本をためては児童図書館に寄付していた。もちろんまんがもありである。それ以外のものがほしい時はがらくたをあつめ。大人が喜びそうな的屋のゲームやくじなどを作って1回100円で親族を廻った。100円くれと言ってもなかなかくれるものではないが、面白いと2回も3回もやってくれるんである。スカを巧みに混ぜるのがポイントでスカだったときのリアクションで大人を笑わせるのがポイントであった(笑)まあいい。長くなったがここまで聞くと普通の人は天国のような家庭だと思われるかもしれない。実はそれは違うんである。「自由」というものが完全に委ねられたときには必ず「責任」も委ねられるからである。一人で遠出して疲れ果て何度交番に飛び込もうと思ったかわからないし、少年好きのおじさんにいたずらされそうになった事など何度となくある。果物と糖分しか摂取していない俺の全身は今で言う皮膚アレルギーのような状態。歯などは医者に健康な歯を針のようなものですかっと突き刺されながら「あーお子さんの歯は全部歯質がだめですねー。生え変わるまでに全て虫歯になるでしょう」と宣言される始末。ものごごころついてから毎週歯医者を欠かしたことがなかった。かろうじて自然に抜けた歯の残骸はたった2本であった。背ものびなかった。だいたいクラスでいつも3ばんめぐらい。これは中学2年生の時はたと直感して母に頼み込み夏休み中1日パック牛乳を3本飲んでほとんどの時間を寝転がって背伸びしてすごした。結果一夏で25センチ身長が伸びた(笑)始業式の列に並んだ俺を見たみんなの目が忘れられない。夜更かしをして起きられなくても自分のせい。肝油を一缶食べて胃が痛くてころげまわっても自分のせい。風呂上りそのままで風邪をひいても自分のせい。それは子供に課せられるべき「責任」であろうか?おかげで一切を我慢するということが出来ず、そのつけをあとで払っていく生き方しか選べなくなってしまった。あーあー。父親はアップサイドダウンで自己の野望にひたすら打ち込む人。昔レーサーであったのではぶりがいいときは毎週違った当時のスーパーカーのような自動車で帰ってくる。友達(じゃないやつも)はうちに写真をとりにきていた。しかしつれてってくれるといえば自分が見たい「寺院」ばかり。食事に行けば冗談も言えないようなレストラン。まあそれはいいんだが。うちはまんが図書館で。友達でもないやつが「まんがみして」と来て。読んだら帰っていった。友達達からは常にいいなーいいなーと言われた。なにがいいもんか。俺はまんがが欲しくても教育に悪いからといって学習雑誌しか買ってもらえない友達が。遠出も夜更かしも禁止されている友達が。日曜日の夜には家族でファミリーレストランに行く友達が。どれほどうらやましかったことか。俺は父性的なもの規律的なものを激しく求めていた。小学校5〜6年生のころには。ついに俺も耐えかねて。母に直談判したことがある。母には思春期までに何度か直談判した事があるが意味を理解してもらったことがない。「ねえママ。僕がたとえば大人になってこじきになるのが僕にとって一番の幸せな事なら。僕はこじきになるべきだよね」など。真剣に話しているのに。たいがいは「また〜」とか「も〜」とか「いいかげんにしなさいよ〜」とかしか言ってくれない。父親ならたぶん客観的な意見を言ってくれたと思うが、彼はその時身近にはいなかった。中学を出るころにはもう母親に相談事をするのはやめてしまった。だみだこりゃと。まあそれはいいが。長くなったが。母がひとつだけ。大変印象深く感慨を持って覚えている談判がひとつだけあった。母は事あるごとにいつもその時の話をする。それは何を隠そうこの自由と責任についての談判についてなのだが。小学5年生の俺は、許されるばかりの生活と、それによって溶けてしまった歯と、そしてこの煮物の味を評して。一言でこういった。「うちには砂糖ばかりで塩がない。ママ頼むから。塩をくれ」と。

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