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戦国時代ゆかりのお城や古戦場コミュの革籠原防塁跡(幻の白河決戦)

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歴史背景
大老の一人徳川家康は、前田利家亡き後の前田家を標的にする。しかし、前田家は徳川家康に逆らうことなく人質を出す。次に標的となったのは上杉家。上杉家は「勝手な言いがかりを付けているのはあんただよ!」と世に有名な直江状を送りつけ、家康の怒りが爆発する。徳川家康は豊臣恩顧の大名を従え、上杉軍討伐に乗り出す。

決戦地の選択と土塁の構築
上杉軍が革籠原で上杉討伐軍を迎え撃とうとしていたことや、上杉家では卑怯なことをしないことがコンセプトにあり、背を向けている敵を討たなかったことなどは知っていたが、土塁を築いていたことは知らなかった。上杉軍がなぜ土塁を築いたのか、築いた土塁に敵が必ず攻めるとは限らないのではないか。また、どの程度の土塁が必要だったのかいろいろ疑問が出てきたため革籠原の地を訪れた。
江戸から福島県会津地方へ上杉討伐軍約12万を進軍させるルートを推測した場合、埼玉県、栃木県を通過し福島県の白河に至る陸羽街道を進軍することは地理的条件から誰でも推測できる。陸羽街道は高速道路の東北道とほぼ同じルートであり、東北へ行く場合の道筋は今も昔もかわらないようである。
その陸羽街道(294号線)は栃木県伊王野あたりから白河関がある蓑沢街道(76号線)が分岐して白河へ通じている。この蓑沢街道は地図の航空写真など
から、山道であり道幅が細いと推測され、ここを通過した場合、細く伸びた討伐軍の横腹を常陸の佐竹軍にさらすかたちとなる。よって上杉討伐軍は陸羽街道を通過することになり、また、通過できないように上杉軍も蓑沢街道を封鎖したと言われている。どのように封鎖したのかわからないが、細い山道を封鎖することは容易であったと思われる。
進軍ルートを特定したあとは、どこで討伐軍を迎え伐つかという点を議論することになる。「上杉からは絶対に仕掛けない。」というコンセプトから、上杉領内へ侵攻したら戦うということが大前提となる。下野との国境付近の地形等を調べ、小峰城(現白河城)南西4キロに広がる湿地帯である革籠原を決戦の地として選択する。陸羽街道(図の赤線部分)は山と山との間の平野部を通る街道で、革籠原はその両脇の山が一番接近している場所であり、平野部が狭くなっている。一番狭くなっているところにフタをするような形のわずか3キロ程度の土塁を築くことで、10万以上の敵を迎え撃つ要塞ができあがる。
さらに土塁の唯一の迂回路である革籠原の西側を迂回しないよう、どれくらいの範囲かわからないが、阿武隈川や谷津田川の水を利用し泥沼状態にして土塁を
迂回できなくする。
以上のことから、決戦の地に革籠原が選ばれ、土塁が築かれたのだと思われる。
http://www.shirakawa.ne.jp/~kyokai/kankou/(白河観光協会HP)

コメント(4)

上杉討伐軍殲滅作戦
内陸側の山には直江率いる伏兵、太平洋側の山には上杉と佐竹の伏兵、土塁を構えた正面には3万程度の上杉軍を配置し景勝が後方から支援する。
上杉討伐軍の先鋒は徳川秀忠率いる3万8千、おとりの本庄隊4千が負けを装い土塁方向へ退却することで、先鋒の秀忠軍を確実に土塁へおびき寄せたところを、上杉軍が左右から攻撃し、秀忠軍を窮地に追い込む、秀忠軍の後続部隊として進行していた徳川家康軍が秀忠軍の窮地を知れば救援に駆けつける。徳川家康軍が鬼怒川を渡り革籠原近くまで進軍したところで、内陸側の山から直江軍、太平洋側の山から佐竹軍などが徳川家康軍の両サイドを攻撃し家康軍も総崩れに追い込む、退却しようとしても、鬼怒川が邪魔をして家康を必ずしとめることができるという作戦である。
進軍する順番が豊臣恩顧の大名軍、秀忠軍、家康軍であったら家康の首をとることはできないが、敵戦力を大幅に削減することができるし、兵の士気も上がり、上杉討伐も一時撤退したかもしれない。更に、一度攻められれば大義名分もたち、関東出兵も可能ということになる。
画像は防塁跡で配付されていた「白河口戦闘配備之図」
革篭原の名前の由来
平安時代、源義経を奥州藤原氏のもとに送り届けたと伝えられる金売り商人吉次兄弟が、この地で盗賊に襲われ、盗賊が吉次兄弟の皮籠を開き、財宝を分けたことから、皮籠という地名がついたと言われている。殺害された金売り吉次兄弟のお墓が旧陸羽街道沿いにある。
革籠原防塁跡
個人の私有地になったいるようだが、所有者の好意で駐車場まで整備してあり、配付物も用意してあった。
見学したところ一直線の防塁ではなく、館跡の防塁であるとする説もあることから、上杉軍が築いた土塁か判明しないが、
いずれにしても上杉軍の土塁として利用したのは間違いないだろう。
土塁は2重になっており、所有者の説明では、当時は現存する土塁より、もっと高い土塁を構築し、見張り櫓などを配置したと説明してくれました。

左 敵から見える防塁
中 2重になっている防塁箇所
右 人と防塁の大きさの対比
防塁跡

左 説明板
中 説明板
右 防塁前に広がる田んぼと山々

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