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戦国時代ゆかりのお城や古戦場コミュの館山城

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館山城

JR館山駅より洲崎方面行きJRバス、又は館山航空隊行き日東バスで、「城山公園前」停留所下車か、
車で行く場合は、駐車場が完備されているので、そこから山を登ることとなる。
車で本丸下まで行けるが、本丸下の駐車場は台数も少なく一般の方は利用できない。
築城は、里見義頼の時代に築城されたもの。
太平洋戦争時代に高射砲などが設置されたため、その遺構はほとんど破壊されており城マニアとしてはおもしろくない。
博物館には上杉謙信からの書状などが展示されており、上杉家との友好関係を感じることができる。
独立した山の上につくられたお城で、本丸から館山市を一望できる。
お城としてはこの程度の説明であろうか。

里見氏

里見氏は新田義俊が、上野国碓氷郡里見郷(現在の群馬県高崎市里見)に移り里見を名乗ることに由来する。
鎌倉時代の里見氏は幕府のもと、戦功をあげ活躍したが、結城合戦において里見家基が反幕府側について敗れ滅亡する。
その後、家基の子里見義実が安房国の領主安西氏を追放し安房の領主となり、安房里見氏の祖となる。
後北条氏と同じく、その素性は定かではないようだ。
いづれにしても結城合戦を境に、前里見氏(本物)と後里見氏に別れるように感じるが、里見家の最盛期を気づいた里見義堯の1人目の正妻は上野国の長野業正の妹であったようである。
正当な里見氏であることを裏付けるためなのか、武蔵野国侵攻には上野国と同盟関係が必要と考えてのことなのか想像すると面白い。
1533年里見家において謀反が起きる。天文の内訌(稲村の変)と呼ぶ。
里見義豊が領主の里見実堯を討ち一時実権を握るが、実堯の子、里見義堯が義豊を討ち家督を継ぐ。
義豊による下克上がはじまったことから、義豊以前を「前期里見氏」、義堯以後を「後期里見氏」ともいうらしい。
つまり、後期里見氏は戦国期の里見氏という位置づけでそのように呼ぶ人がいるとのだと思うが、群馬県民が千葉県民の領地を奪った時点で里見氏における戦国期の始まりと考えた方が自然であると思う。

里見義堯は家督を奪還するため後北条氏の力を借りていた、その後は反北条となり越後上杉氏と同盟を組むなどして北条氏に対抗していることから、長野業正の妹を正妻にしたのはやはり北条氏に対抗するためなのだろうか?
豊臣時代、安房、上総、下総を安堵されるが、小田原の役で遅参し、秀吉の怒りを買い、上総・下総を没収される。
最後まで反北条氏の姿勢を貫いたはずの里見氏が、なぜ小田原攻めに遅参したのか、この頃の里見氏と北条氏の関係などとても興味深いが調べ切れていません。
地理的にとても近く、水軍もあったことから、故意に遅参したことは間違いなく、その理由が知りたい。
関ヶ原の戦い後、常陸鹿島3万石を加増されるが、その後、大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆倉吉3万石に転封となり、跡継ぎなく里見氏は改易される。
徳川政権の中心は江戸であり、その直ぐ近くに10万石レベルの外様大名がいたら、適当な理由を付けて転封し改易するのは当然かもしれない。
栃木県佐野市の佐野城は晴れた日は江戸城まで見ることができ、ある日、江戸城が火事になっているのが見え、これは大変ということで急ぎ江戸城に駆けつけたところ、江戸城を上から見下ろしているとは何事だと逆に因縁を付けられ、当時の佐野藩が廃藩になったなどと言われているように、江戸を中心とした関東一円は、徳川家の身内や譜代で固めたかったのかもしれない。
里見氏が改易になった際、8人の家臣が殉死し、戒名に共通して「賢」の字が入っており、八賢士とよばれ、この八賢士を八犬士のモデルにしたという説がある。

コメント(4)

左 館山城を見上げる
中 駐車場から本丸まで整備された道が続く
右 当時の土塁か??
左 模擬天守閣
中 説明板
右 里見城?の石碑
左 本丸跡からの眺望
中 本丸跡にある説明板など
右 説明板

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