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ペテルソン世代のF1を語るコミュのMike Spence

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マイク・スペンス。
1936年生まれの、イギリス人ドライバー。
ロータスからF1にデビューし、64年からジム・クラークのセカンドドライバーとしてレギュラードライバーに。

67年よりBRMのワークスドライバーとしてジャッキー・スチュワートのセカンドドライバーを務め、BRMの偉大なる失敗作?H16型エンジン搭載のマシンもドライブ。

68年インディレースのテスト中にクラッシュして、死亡。
31歳であった。

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私の執筆した同人誌「シャパラル2D/2F」(風虎通信)からの引用です。


 マイク・スペンス(1936年生−1968年死)は遅咲きのドライバーである。レースを始めたのが22歳のときで、ジュニア・フォーミュラで腕を上げ、1961年には24歳でF1のノンチャンピオンシップ・レースに出場した。1963年にはロータスのフォーミュラ・ジュニア・チームに加わり、負傷したF1チームのナンバー2ドライバーのトレヴァー・テイラーの代理として、1963年9月のイタリアGPでF1ワールドチャンピオンシップ戦にデビューした。
 1964年シーズンにはロータスのF2チームに加えられたが、F1のナンバー2のピート・アルンデルが負傷欠場、またもスペンスが代役で出場することになる。彼は1964年のイギリスGPからF1に参戦し、イタリアGPでは6位に初入賞、USGPでは序盤戦に2位を走る。
 1965年シーズンには、スペンスはチーム・ロータスのナンバー2ドライバーに正式に昇格する。ナンバー1は言わずと知れたジム・クラークである。スペンスは南アフリカGPとイギリスGPに4位入賞、最終戦のメキシコGPでは3位で表彰台に上がった(優勝はホンダのリッチー・ギンサー)。またシーズン初めのレース・オブ・チャンピオンズでは、ノンチャンピオンシップ戦ながらF1初優勝を記録している。
 スペンスにとって不幸だったのは、彼がいくら健闘しても、天才中の天才、ナチュラル・ドライバーの典型のクラークと比較されてしまうことであったろう。このシーズンのスペンスの成績も、一般には可もなし不可もなしくらいにしか評価されなかった。
 1966年には負傷癒えたアルンデルが復帰、スペンスはシーズン初めのノンチャンピオンシップF1レース、南アフリカGPの優勝をロータスへの置き土産に、BRMチームに移籍した。しかしこの年のBRMはベテランのグレアム・ヒルと新進ジャッキー・スチュワートの二枚看板で、スペンスはBRMの二軍チームのパーネル・レーシングに出向することになる。この年はオランダGPとイタリアGPでともに5位に入賞しただけに終る。
 G・ヒルのロータス移籍で、スペンスは1967年シーズンにはBRMチームのナンバー2に昇格するが、こんどもまた天才スチュワートの影に甘んじることになる。それでも彼はモナコGPで6位、ベルギー、カナダ、イタリア、メキシコの各GPで5位に入賞する。信頼性劣悪のBRMのH型16気筒を入賞圏に導くあたりに、彼のメカニカル・シンパシーが見て取れる。
 翌シーズンのスチュワートのティレルへの移籍で、スペンスはBRMチームを担ってゆく立場になるが、古巣のロータスに招かれて初めて出場するインディ500のプラクティス中、1968年5月7日ロータス56タービン・カーのクラッシュで命を落とすのである。
英国には昔からMike Spenceのようなドライバーが多くいますね。その時代を代表するという訳ではなく何に乗っても速いというドライバーたちです。Spenceの時代にはPeter ArundellやRichard Attwoodなど。Brian Redman, David Hobbs, Chris Irwinもいました。Piers CourageやVic Elfordも。時代を下ると Geoff LeesやJohn Watson,Brian Henton等々。今ではAnthony Davidsonも。

非常に層の厚い国です。

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