ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

MIXI民事法律相談コミュのあるサイトの引用なんですが、合ってるのか間違ってるのかが判りません。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
原理的には犯罪性のない売春は、一般には侮蔑の対象とみなされている。たしかに売春婦を侮蔑する言葉はすでに流通性がなくなっている。昔、アメリカ人相手の売春婦をパンパンと呼んで侮蔑していたそうであるが、いまや女性を罵倒するために売女(ばいた)と言っても、相手はきょとんとするだけであろう。しかし、今でも、ある女性が元風俗嬢、元ソープ嬢だと聞いたりすると、侮蔑の対象となるらしい。一時、スポーツ新聞が巨人のK投手の奥さんが元ソープ嬢だと書き立てたことがあった。ソープはお金を貰って石鹸で体を洗うサービスが建前だが、実際は性器の一時使用貸借、性器結合サービスを含んでいるのだそうだ。つまり売春婦だと書き立てたわけである。売春婦を奥さんにしている奴というわけだ。風俗情報、助平情報を新聞を売る一つの基本手段としているスポーツ新聞が、ソープ嬢を保護しないのも仁義のない話だが、いずれにせよ、この暴露記事は売春婦侮蔑に立脚しているのである。
 昔、神戸三宮の新聞会館の裏にあった居酒屋へ友人と飲みに行った人がいる。横に仕事を終えた売春婦が座って酔っ払い、客を多く取った日は痛くてしようがないのだとか、ゆで卵を、おめこ一つちょうだいとかいろんなことを言っていた。私はああ過酷な仕事なんだと思った。彼女の周囲の状況がどのようであり,彼女がどのような選択をしてきたのかは知らない。しかし,お金を貰って性交する売春という過酷な仕事をして,それで生活収入を得ている女性をそれだけで侮蔑していいわけはない。あるいは,エッセイを出版したろうあ者の風俗嬢がいる。彼女は自分がお金を貰ってする性交擬似行為を「お仕事ですから」と仕事だと割り切っていた。彼女にとってそれが最も大きい生活収入になると判断し,そういう仕事をしているのを侮蔑する権利が誰にあるというのか。売春,風俗はお金を貰って,男性に性器,肉体を一時貸し,性器結合,肉体接触の一時サービスをする仕事の一種にすぎないのである。単に仕事をしているにすぎない売春婦,風俗嬢に対する侮蔑が続くのはいったいなぜなのか。
 その日通りかかったある家の屋根に雪が積もっているのを見て、手間賃を貰い、腕や体を貸して雪かきサービスをしたからといって侮蔑する者はいない。つまるところ、売春が侮蔑されるのは、女性性器をチンコに貸し、チンコを女性性器に挿入するサービスをするからにちがいない。しかし、腕もチンコも同じく身体の一部であり、足もマンコも同じく身体の一部にすぎない。体の他の部分はその働きを貸したり、売ったりしてもよいのに、マンコとチンコはなぜ貸したり、売ったりしてはならないのか。以前、オナニーは手淫とか自涜とか呼ばれた。手による姦淫、自ら涜(けが)す。体の他の部分、たとえば眼はこすってもよいのに、なぜチンコをこすってはいけないのか。たとえば鼻の穴はほじくってもよいのに、なぜマンコをほじくってはいけないのか。いまや全身を普通に統合すべき時ではないか。おそらくチンコとマンコが特別扱いされるのは、それらを、カソリック風に崇高な生殖のための神器と位置づけているからであるか、または、純愛主義者風に性交を人格的結合の行為と位置づけているからであろう。だが、どんなにそう位置づけようと努力しても、崇高な生殖がオスとメスの発情に依存している事態、人格の結合であるそうな性交がオスとメスの発情に依存している事態は変えられない。つまり姦淫なしに生殖はなく、欲情なしに人格の結合たる性交もないのである。勝手に朝立ちするチンコ、勝手にむずむずするマンコが、どうして生殖のためだけに存在し得ようか。どうして人格の中心であり得ようか。チンコ、マンコがただ快楽のために、無人格的に使用されるのは、いわばチンコ、マンコの本来の必然性、自然であると言うべきである。ただし、こう言っても、性交が相手の身体との性器による連結である以上、性交から人格の結合のイメージを払拭するのは容易ではないだろうが…。だが、性器を局所化し、人格から隔離することは不可能ではないのである。
 チンコとマンコには別段,神聖性も絶対的な人格性もない。したがって、手足や頭脳と同じようにその働きをむやみに使っても,貸しても売っても,特に悪徳とするいわれはないわけである。以前、一夫一婦制を唱え、不倫や売春を姦淫だと非難し続けたアメリカのテレビ伝道師ジミー・スワガットが、その説教の一方で、実は売春婦と何度も性交していたことがわかり、泣きながら信者に、妻に謝り、テレビから姿を消したことがある。彼の罪はチンコとマンコには別段,神聖性も絶対的な人格性もないということを認識できなかった罪なのであり、謝るならその偽善を謝らなければならなかった。買春、売春するのも、しないのも、たまたまの周囲の状況とその瞬間の選択によるものであり、年中発情している自分のチンコを統制しきれるものではないということを徹底自覚することができなかったのである。彼は売春婦侮蔑の方向で解決を見出し、伝道から去った。宗教者として非常に無責任だと言わなければならない。
 しかも、売春は過酷な仕事である。身体を接触するサービス、脱衣しないと貸せない身体の一部を貸す仕事が楽な仕事であるはずがない。しかもこの仕事を繁盛させるためには、よく知らない目の前の男を受容しなければならない。排除したり、無視したりし続ければ、おそらくたちまち客はいなくなる。客商売に共通の過酷さが売春にもあるだろう。また相手の身体との性器による連結である性交から人格の結合のイメージを払拭するのは容易ではないという問題もある。仮にそれがその他の仕事より、多少報酬が多いとしても、そういう仕事をどうして侮蔑できようか。

コメント(7)

上記レスに同様、その書き込み自体が侮辱行為ではないかと。謹みましょう。
短く文章を纏めろ。
それが終わったら民俗学の本でも読め。以上。
>合ってるのか間違ってるのかが判りません。
がご相談なのですね。

多分、合っているように思います。

このコミュや他の法律相談コミュじゃなく、別のコミュで相談されたほうが良いと思います。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

MIXI民事法律相談 更新情報

MIXI民事法律相談のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。