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オモロイ坊主を囲む会.コミュの『北朝鮮托鉢行』(12)

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第二章『北朝鮮の仏教事情』(最終回)

正方山成仏寺
 
平壌の南約七十キロのところにある正方山。北朝鮮最古の木造建築物、應真殿が残されていることで知られる成仏寺は、その中腹にある。この寺の住職はなかなか感じのいい男だった。
『お会いできて嬉しいです。お寺を訪ねてくれてありがとうございます。遠くタイから来ていただいて感激しています』と、住職はまず俺に対する歓迎の意を言葉にしてくれた。
 初対面の人間に挨拶をするのは当たり前のことだし、宗派は異なるとはいえ、同じ仏教に帰依する僧侶が訪ねてきたとなれば、歓迎するのが普通だろう。だが北朝鮮で俺にこういう言葉をかけてくれたのは、この住職が初めてだった。

『信者は何人くらいいらっしゃるのですか?』
『五百四・五十人くらいです』
『なぜ僧侶になったのですか?』
『両親がお釈迦様を信じていたからです』
 
大学で歴史を専攻したあと、仏教学院に通って仏教を学び、その後成仏寺に来て十年になるという住職は『仏教が好きですか?』という俺の質問に『好きではない僧侶がいますか?』と笑って答えてくれたので、俺は『日本には仏教を好きではないし、信じてもいないのに、寺に生まれ跡継ぎだからとしょうがなくやっている僧侶もいる』と答えた。
 
住職は戒律についても話してくれた。本当は『出家式はどのように行われるのか』と聞きたかったのだが、その質問に返ってきたのが『仏教学院での勉強が終わると、半年ほどお寺で師について修行してその後出家となります。最初は十の戒律を守り、だんだんその数が増えていき、最後に二百五十に達すると正法師という名前がつきます。私は現在上から二番目です』という答えだった。このあたりの会話になると通訳はまったく役に立たず、住職も正確に訳されていないことに少しイラついていたようだ。
 
テーラワーダ仏教で守るべき戒律は全部で二百二十七ある。
戒律の仕組みと言われても困るが基本的には『戒=戒め・修行者としての以前に人間として守るべきこと。修行者として守るべきこと。それに人間として・特にサンガと言う共同社会で生活していくのに欠かせない道徳やエチケットなど』と『律=僧団(サンガ)の運営上の規則・戒に違反した比丘の処罰の規定・僧団(サンガ)内に問題が生じたときの処理方法(比丘同士の争いや、僧団(サンガ)が得た財などの分配および処理)など』の二つを合わして一般に戒律と呼んでいるのだが、この戒律について述べれば、それだけで最低でも10ページくらい必要となるので、今回は深く触れずに、出家者がまず身に付けなければならない十戒のみを下記に列記させて頂く。

一、 生きものを殺さない。ニ、与えられないものを取らない。 三,淫欲行をしない(自慰を含む)。 四、嘘を言わない。 五、穀酒・果酒を飲まない。 六、時間外の食事をしない。(早朝の太陽が上がる前と、正午を過ぎてからの食事)。 七、踊り、歌、音楽など修行の妨げになる、それらを見たり聴いたりしない。 八、花飾りをつけたり、香(香水)を塗ったり、化粧をしたり、装飾品(アクセサリーなど)を着けたり、着飾ったりしない。 九、高い寝床(ベット)や立派な寝床(ベット)に寝ない。 十、金銀をうけとらない(本来はお金も)・金銀を身に付けない。

タイではと言うより上座部佛教では、出家年数に応じて戒律が増えて行くとか、高位になるほど戒律が増えると言う事は無く、正式な比丘と沙弥出家者(見習僧)との間にだけ差があり、比丘は227の戒律を授受するが、沙弥出家者(見習僧)は十戒だけだ。

『智慧は戒めによって清められ、戒めは智慧によって清められる。智慧は戒めのごとくであり、戒めは智慧のごとくである。両者は対応関係にある。戒めある者には智慧があり、智慧ある者には戒めあり。戒めと智慧は、この世における最上なるものと称せられる。』
ディガハーニカヤより

タイでの出家式は簡単に言えば、出家希望者が『尊師よ、私は輪廻輪転の苦から解脱するために出家を乞い求めます。尊師よ、私は三帰依と共に出家者としての戒を乞い求めます。尊師よ、恵みを垂れて私に戒をお授け下さい。』と師に求め、式に参列する比丘(奇数=多数決・すなわち過半数以上の賛同で決めるため)の賛同を得て、師が具足戒を授けサンガの一員として認める式典だ。
 
この成仏寺で最も印象に残ったのは、韓国の僧侶との交流会の話だ。五月に南から十人くらいの僧侶がやって来て、北の僧侶二十人くらいと合同で会合を開いたという。会場となった成仏寺には、その時に使用した看板が残されていた。そういった交流は初めてだそうだ。これはとてもいいことだと思った。

本来佛教(仏の教え)に大乗だとか、小乗だとかの違いは無いはず、ましてや国によって違う事は無い、北と南は今一時の間の政治体制が違うだけ、もともと同じ歴史を生きてきた同じ民族、同じ仏法を伝えてきた仲だ、その法に違いなど無い。仏法とは政治体制や国の違いによって異なるものではない。仏法は一つだ、言い換えれば仏法は一乗だと俺は考えている。それが何よりの証拠に俺は自由主義国も、共産主義国も、社会主義国も、軍事国家と呼ばれる国さえも周ってきたが、俺のような日本語しか話せない中途出家の半端坊主でも、何処の国の民衆も寺院も(大乗を報じている寺も、テーラヴァーダを報じている寺も)俺を修行者・ブッタの弟子として温かく迎え入れ、もてなしてくださった。俺がこの法衣を着ていると言うだけで。
ブッタを、仏法を信じ、幸せを願う者に民族や国の、ましてや社会体制の違いなどは何も無い、と言うのが俺のこの13年間で得た持論だ。

朝鮮半島では今でも肉親が南北に裂かれ、連絡が取れないばかりか、その消息さえ判らない人たちが多く居られるとか。韓国の海印寺には版木が保管されているが、今、新しく刷ればその原版は古くとも刷られた経本は、あくまで今の時代の新しく刷ったもの、北朝鮮の寺に古い昔に刷られ今に保存されている経本を『ウン百年前に刷られたものだ』と言って今また新しく刷るにもその原版が無い。夫婦は二人揃って初めて夫婦、この印刷物も原版と一緒に拝見できてこそ、その価値があるもの。
北朝鮮のお寺に保存されている経本を見ながら、俺の心は引き裂かれた肉親の苦しみを考えていた。一日も早く半島が統一され、引き裂かれた肉親が手を握り合える日の、一日も早からん事を願って。

住職は『タイに行って、僧侶になったという話を聞いて感激しています。いつでもまた来てください。大歓迎です』と言って、俺を見送ってくれた。

北朝鮮の仏教についての私見
 
俺は、北朝鮮のような特殊な体制の国で仏教が成り立つわけがないとは思っていた。だが一方で、もしかしたらお釈迦様を信じている人と出会えるかも知れないとも期待していた。そういった人が全くいなかったわけではない。法雲庵にいたおばはんの涙に嘘はなかった。だが今回の旅だけで判断すれば、俺は北朝鮮には生きた仏教はないと思う。

俺の感じでは、この国のお寺は信仰の対象として、民衆の心の拠りどころとして再建され、民衆に仏法を伝え民衆の苦しみを救う為にあるのではなく、いみじくもある寺の住職が胸を張って『この国では、宗教・信仰の自由が憲法で保障されています』と言う事を言ったが、この事を内外の人々に納得させるためだけに寺がある。またこれもある住職がいった言葉だが『金日成書記長様が、貴方は我が国が何千年も前から中国文化を導入し、我が国でその花を咲かせ日本へも伝えて来た、世界にも誇る立派な古き歴史を持つ国だ。と言う事を人々に伝えるのが仕事だ、と言ってこの金時計を下さった』と言った言葉に象徴されるように、国の歴史の権威付けの為に、文化の宣伝のためにだけに、国家権力をもって寺が再建され、僧が養成され、国家の方針・政策に従った形だけの宗教では?そして俺の胸に『ヒョットすると民衆が現在の体制に、日々の暮らしに疲れはて苦しみ悩み、仏さんをすがって寺へお参りに来た時に、過っての日本の歴史にもあった農民一揆のように、金体制への反抗が起こるのを未然に抑え、金思想を徹底する思想教育をする役を、かれら住職は与えられて居るのでは』と言う疑いが沸いてきた。日本で聞いて来た朝鮮の食糧事情では考えられぬくらい、何処の寺の僧侶も豊かとは言えないが貧しそうでもなかった。あの国の現在の経済状態で、あの国の思想から考えれば何の必要性も無い佛教に、僧を教育するための学校を建て給料付きで教育したり、金思想には無駄だと言える寺を再建し(再建したと言ってもいたってチャチな、京都の映画村のセットのような建物だったが)給料まで支給し生活の保障をしてまで寺に僧侶を配置する必要は無いはずだ。

佛教とは元々、悩み苦しみ悲しみを抱え現に今を生きる民衆を救うために、ブッタが説かれたもの。葬式や法事などの儀式のためのものではなく、また人に見せる観光のためのものでなく、ましてや国家や権力者の政策のため・宣伝のために存在するものでは絶対無い、生きた佛教とは、今を現に生きる、悩める民衆の拠り所、道標であり、寺はそんな民衆が心を休める場として、心身ともに安らぐ場を提供するところでは、と俺は常々考えているのだが。

タイの寺を見てみろ、葬式会場にも時にはなるが、毎日近所のおっちゃんやおばちゃんが大した用も無いのにやって来て、仏さんの前で大声で笑い大声で話して帰っていく。  
子供達といえば学校の帰りに寄り道しにやって来て、寺の庭で駆けっこしたり鬼ごっこしたり、時には喧嘩したり、泣いたり笑ったり。また何かで悩みを抱える人が長老に会いに来て、悩みやグチをぶちあけたり相談したり。

寺とは庶民の喫茶店代わりの休憩・集会所・気晴らしのための溜まり場・子供の遊園地・安全この上ない遊び場所・そして庶民の人生相談所。
こんなにいろいろな要素を持つ、誰のものでもない・民衆の・信者さんのための場。その一方では道を求めて家を出た修行者の修業道の場だ。
こんな寺が日本にもあったら、日本は今とは違った人間中心の素晴らしい道を歩めたのでは。

どこの寺でも僧侶が座れと言ってくれず、ほとんどのお寺では立ちっぱなしでの話だった。これには困まった、仏さんをお参りしたあと、仏さんの前でユックリお話を聞こうとして座ろうとしたが、何処の寺の僧侶も座ろうとはせず、また『座ってユックリお話でも』とも言わないので、仕方なく立ち話になり、それも僧侶は何故かジリジリと建物の外へにじり出ようとするのを俺が引き止めて。
通訳は通訳で『次の予定がありますので』と何故か急かしユックリ話をさせてくれなかった。これは何処の寺院でも同じだった。
建物が建てられた時期などは丁寧に説明してくれるのだが、肝心の仏法の話になるとはぐらされてしまう。何処のお寺でもお茶は出なかったが、安和寺で『喉が乾いた』と催促したら、庭にあった井戸の傍へ連れて行かれ、手動ポンプでガチャ・ガチャと水を汲み上げコップで飲ませてくれた。
俺の感じでは、僧侶はあまり俺を歓迎したくない、ハッキリ言えば俺に来て欲しくない、あまり話を聞かれたくない、と言う感じ丸出しで、通訳も宗教の深い話は避けたいような感じだった。今回の旅行は日本の北朝鮮系旅行代理店へ依頼した時点から、全行程のスケジュールが当局の承諾の元に組まれていて、訪問したお寺にも前もって『ここまではよいが、これ以上は喋るな』と言う通達が届いていて、彼らも話辛かったのでは?
宗教に国家権力が介入し、僧などの聖職者がそれに従っているのを見たり聞いたりすると、俺は背筋に泡が立ち冷たいものが流れるのだ。
過って朝鮮半島では李王朝によって佛教が弾圧にされたとき、時の心ある僧達は山深くへと逃れ、時の権力者から非人と下げすさまれ蔑視され迫害されながらも、仏法をおよそ400年も守り伝えてきた、その流れを汲む彼の国の僧侶達が、権力を恐れ権力に利用されているのを見るのは俺には無性に悲しかった。

でも、それなら日本仏教はどうなのだ、と聞かれると俺は何も言えなくなる。過っての明治維新の時には国の政策で半強制的だったとは言え、日本仏教は戒律を曲げ僧の妻帯を許し、戦時には政府の意向もあっただろうが、各宗派の本山では『戦争勝利』の祈願をし、真言宗の高野山では毎日『チャーチル死ね!ルーズベルト死ね!』と護摩を焚き祈ったそうで、また軍の要請で朝鮮半島へ僧侶を送り込み、朝鮮の僧に妻帯を強要したそうだ。

寺は博物館、坊さんはガイド役?俺はむしろ寺は金将軍思想の宣伝機関の一つで、民衆の不満の汲み上げ機関だと思う。

『六方礼経』より

・ ・・・仏は次のように詩をもってお説きになりました。・・・・・

一、 飲み友達と言われるものあり、友よ友よという友あり。しかし、もろもろの事件が起こったとき仲間であるのが、真の友達である。
ニ、太陽が昇っているのに寝床にあること、他人の妻とねんごろになること、怨みを生じること、無益なことをすること、悪友、慳貪、これら六つの原因が人を破滅させる。
三、悪友あり、邪悪な友だちあり、悪い行いをし、悪い所に生活する人はこの世とあの世の両世界から堕ちる。
四、賭博、女遊び、酒を飲むこと、歌舞を聞き見ること、夜に出歩き昼寝すること、悪友、そして慳貪、これら六つの原因が人を破滅させる。
五、サイコロで遊び、酒を飲み、他人の妻に手を出すのは卑しい者の行いであり、賢者の行いではない。彼らの財産や名声は下弦の月のように減少する。
六、財物も無く、何も持っていないのに、酒を飲みたくて酒屋へ行く酔いどれは、石が水に沈むように、彼は借金に沈みたちまち自分の家門を亡ぼすであろう。
七、昼寝る癖あり、夜はいつも酔っている道楽者は、無事に家を守って暮らすことは出来ない。
八、寒すぎる、暑すぎる、今夕は遅すぎると言って、仕事を置き去りにする若者から利益は去っていく。
九、この世に於いて仕事を行って、寒さ、暑さをなにほどにも思わぬ人は、幸福を逸することはない。

(南方仏教『基本聖典』ミャンマー ウ・ウエープッラ大僧正 訳より)

{第二章 『北朝鮮の仏教事情』はこれで終わらせて頂き、次回からは第三章『北朝鮮 やじ馬見聞記』を掲載させて頂きます。}

コメント(2)

私たちが生きている同じ時に地獄があるというのは、救いがたいことですね。戦地や北朝鮮に生まれてこなかったという事だけでも、カルマをさらに汚すことのないよう、私にとっては警笛として聞こえます。
大きなことは言えませんが、せめて自分なりに修行し、徳を積んで、苦しんでいる人達への祈りだけでも届けたいと思っています。  たかこ
たかこさん

いつも書き込み有り難う。

普通何でも人に分け与えれば、あげた分だけ減りますが、功徳と言うのは、分け与えれば分け与えるほど、大きく膨らんで自分に帰って来る、とタイでは信じられています。

たかこさんが徳を積んで、苦しんでおられる人たちへ祈りを届ければ、その祈りは大きく膨らんで、たかこさんへ帰ってくるのです。

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