ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

城下町コミュの伊勢多気

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 伊勢国一志(イチシ)郡多気(タゲ)の地は、雲出(クモヅ)川の支流八手俣(ハテマタ)川(多気川)とその支流立川(タテカワ)が合流する地点に当たり、標高400m前後の盆地を成している。大和国境も近い。「タゲ」とは「タギ」と同じく、水が滾(タギ)る(沸き立つ)意で、多芸とも表記された。
 川の合流地点の上多気村とやや下流の下多気村に分かれ、下多気の地からは弥生式土器が出土し、小田古墳も存在する事から、古くから開けた地であった事が判る。上多気村は伊勢本街道(初瀬街道)が通り、北方の一志郡衙方面へ向かう多気街道との分岐点となっており、山間僻地ながら古来交通の要衝であった。
 建武2(1335)年、准大臣北畠親房が次男の左近衛少将北畠顕信(アキノブ)と三男の顕能(アキヨシ)に命じて多気の地に城を築かせたとされる。
 当時の伊勢国は内大臣吉田定房が知行国主を務めていたと推定されるが、同年8月、足利尊氏が鎌倉を制圧して不穏な動きを見せ始めると、嫡男の参議北畠顕家と共に陸奥国府滞在中だった親房は10月に京都に戻っており、顕信・顕能が伊勢まで出迎えに行き、尊氏叛逆に備えて邀撃のための城を伊勢に築いた可能性はあろう。なお、同年12月、顕家は尊氏討伐のため大軍を率いて西上を開始している。
 南北朝時代開始後の延元3(1338)年7月、吉野山に拠る後醍醐天皇は北畠顕信を鎮守府将軍、顕能を伊勢国の国務を総攬する伊勢国司に任命、同年9月、北畠親房と顕信は義良(ノリヨシ)親王を奉じて伊勢国大湊から東国制圧のため出航した。
 顕能の方は、度会(ワタライ)郡田丸城に拠っていたが、興国3(1342)年、足利幕府伊勢守護高師秋(コウノモロアキ)・仁木義長等に田丸城を攻略されて多気の地に落ち延び、多気城を本格的に築いて新本拠地とした。この山間僻地が本拠地とされたのは山伝いに南朝の本拠吉野山と往来が容易であり、峻険な山岳部なため足利方の大軍による攻撃が行ないにくい点が考慮されたものと思われる。
 多気城は、多気御所・詰城・霧山城の三つの城塞から成っていた。
 先ず、上多気村の八手俣川西岸の標高350m地点に伊勢国司家の居館である多気御所が築かれた。御所北方から下多気村にかけては北畠氏傘下の武家屋敷や社寺が立ち並び、八手俣川沿いに町人町が形成された。
 御所の西北側に聳える標高570mの霧山中腹の尾根先端部、御所を直下に見下ろせる標高430m地点には詰城が築かれていた。、
 そして、霧山山頂に築かれた山城が霧山城である。南北の曲輪に分かれ、土塁と堀切が巡らされた要害堅固な城で、南曲輪の方が標高566mと、本丸のある北曲輪よりも若干低い。北曲輪は西から米倉・本丸・矢倉が連なっていた。
 正平9(1354)年に顕能の父で南朝の最高実力者たる准大臣北畠親房が大和国賀名生(アノウ)の行宮で死去すると、顕能は多気城を息子の顕泰(アキヤス)に委ねて賀名生に出仕、後に右大臣となった。
 明徳3(1392)年の南北朝統一により北畠顕泰は室町幕府からも権大納言・伊勢国司の地位を公認され、伊勢国南半の一志・飯高(イイタカ)・飯野(イイノ)・多気(タケ)・度会の五郡の外、志摩国英虞郡・伊賀国名張郡・大和国宇陀郡の統治を委ねられたが、応永10(1403)年に宇陀郡は没収されている。
 その後、顕泰は応永21(1414)年に至り両統迭立の約定が反古にされた事に反発し、第4代将軍足利義持に対して挙兵に踏み切った。顕泰は既に高齢だったため、息子の満雅が阿坂城に拠って指揮を執った。
 義持は、侍所頭人・美濃守護の土岐持益(トキモチマス)に命じて北畠氏を討伐させ、翌応永22(1415)年5月には阿坂城攻防戦が展開された。この際、幕府軍は城を囲んで水源を絶ったが、満雅は米を水に見せかけて馬の背に流したため、幕府軍は城内には水が豊富にあると誤認したとされるため、阿坂城は白米城の異名でも呼ばれるようになった。
 しかし結局、阿坂城は落城し、満雅は多気城に近い川上城に逃れたが、土岐持益は6月に川上城も攻略、満雅は多気城に入った。
 天嶮に拠る多気城は持ち堪え、同年8月に南朝後亀山法皇の仲介で和議が成立した。その頃、顕泰は多気御所で死去し、満雅が左近衛少将・第3代伊勢国司となった。この際、大和国宇陀郡支配権も回復されている。
 ところが、正長元(1428)年、称光天皇が崩御して北朝の嫡流が断絶したにも拘らず、6代将軍足利義教は皇位を南朝系に戻さず、北朝伏見宮家から後花園天皇が践祚した。この措置を不服とした後亀山法皇の孫小倉宮聖承は北畠満雅を頼って多気城へ入り、満雅は当時幕府と対立していた鎌倉公方足利持氏と連合、小倉宮を推戴して再度叛乱に踏み切った。
 将軍義教は伊勢守護土岐持頼を北畠討伐に差し向けたが、満雅は雲出川合戦で幕府軍を撃破したため、更に土岐持益・長野満高・赤松満祐・山名宗全等の大軍が派遣され、同年12月21日、満雅は阿濃郡岩田の合戦で討ち死にしてしまった。
 満雅の嫡男教具(ノリトモ)は僅か7歳であったため、満雅の弟の大河内(オカワチ)城主大河内顕雅が伊勢国司家の政務を代行し、赤松満祐を介して永享2(1430)年に幕府との和睦を成立させて小倉宮を京都に送還した。この結果、伊勢国司家は赤松氏と関係を深め、満祐の子教康は顕雅の娘婿となっている。
 なお、この際、伊勢国司家の所領は一志郡・飯高郡・大和宇陀郡のみに削減され、飯野・多気・度会の三郡は伊勢神宮の所管となった。
 嘉吉元(1441)年、19歳と成った教具は元服して将軍義教から一字を拝領、公式に第4代伊勢国司となり、南伊勢守護の地位も認められた。同年、義教が赤松満祐に討たれる嘉吉の乱が勃発、赤松教康は伊勢に逃れて来たが、教具は教康を見捨てて自害に追い込み、その首級を京都に送っている。
 応仁元(1467)年5月に応仁の乱が勃発すると、教具は東軍に組して大和国長谷寺まで進出したが、8代将軍足利義政は教具が西軍に内通していると疑って入洛を許さなかった。同年6月、土岐政康が東軍方北伊勢守護として入国すると、教具はこれと対立、交戦状態に陥った。
 教具は、同年8月から翌年にかけて、戦火を逃れて伊勢に下向して来た足利義視を多気城に保護している。教具は応仁2(1468)年に北伊勢の三重郡・朝明郡にも進出して土岐政康を撃破した。最終官途が権大納言まで至った教具は実力で政康を駆逐し、文明2(1470)年に伊勢国全体の守護に任命された上で、文明3(1471)年に死去した。
 この結果、教具の嫡男の左近衛中将政郷(マササト)が第5代伊勢国司・伊勢守護となった。なお、教具の三男政房(政能?)は多気御所と八手俣川を挟んで向かい合う地に東御所と呼ばれる居館を建てたため、多気城下町は八手俣川東岸にも拡大する事となった。
 政郷は文明7(1475)年に北伊勢守護職を失い、文明10(1478)年に回復したものの翌年再び北伊勢守護職を失った。この間、政郷は飯野・多気・度会の三郡の支配権を回復して南伊勢の一円的支配を進め、戦国大名としての性格を強めた。但し、伊勢神宮神人組織が強い南伊勢では国人層が成長しにくく、北畠氏武力の中核は大和国宇陀郡武士団が占めていた。反覆常無き有力国人層が存在しない事は北畠氏の南伊勢一円支配には有利に働いたと言えよう。
 教具は文明18(1486)年には伊勢一国守護職の再回復に成功した直後に出家して家督を嫡男材親(キチカ)に譲ったが、永正5(1508)年まで存命して守護職を保持していた。
 第6代伊勢国司・権大納言材親は父教具の死後伊勢一国守護職を継承し、永正年間(1504〜21)に志摩十三地頭と称される海賊衆の盟主たる鳥羽城主橘宗忠を撃破、服属させて志摩国にも進出した。
 第7代国司・参議北畠晴具は、永正8(1511)年に父材親の出家で家督を相続した。なお、晴具以後の伊勢国司家当主が伊勢守護を兼帯したか否かは不明である。
 晴具は大永元(1521)年に管領細川高国を招いて歌合せを多気御所で行なったが、その際、高国の助言を得て池泉回遊式庭園を作庭している。晴具の正室は高国の娘である。
 享禄2(1529)年、管領細川高国が細川晴元に敗れて伊勢へ落ち延びて来た際、晴具は落ち目の義父高国を越前へ追い払ってしまったが、高国が京都を奪還して復権すると縁りを戻し、享禄4(1531)年に高国が晴元勢撃滅のため摂津に出陣した際には援軍を送っている。しかし、高国は播磨・備前・美作守護赤松政祐の裏切りにより大物浦で敗死してしまった。
 その後、晴具は近江守護六角定頼の進出で北伊勢支配権を失ったが、志摩国を完全に制圧、紀伊国にも進出して新宮付近までをも領国に加える事に成功した。晴具は大和国吉野・十津川地方も制圧しているため、紀伊半島の約三分の二が北畠氏の支配下に置かれた事になる。
 晴具は天文22(1553)年に隠居して家督を嫡男の具教(トモノリ)に譲った。
 第8代国司・権中納言北畠具教は歴代伊勢国司が長年に亙って北伊勢安濃郡の支配権を争って来た長野氏を屈服させて、永禄元(1558)年に次男具藤(トモフジ)を長野氏の養嗣子とする有利な和睦を結び、北伊勢支配回復の足場を築いた。
 一方、志摩国では十三地頭の一人九鬼浄隆(クキキヨタカ)が勢力を伸ばし、永禄3(1560)年に具教に叛旗を翻すが、他の12地頭の総攻撃を受け、戦の最中に急死したため、九鬼氏の勢力は一旦壊滅した。
 永禄6(1563)年、具教は嫡男の左近衛中将具房(トモフサ)に家督を譲るが、依然として伊勢国司家の実権を握り続けた。
 永禄10(1567)年に六角氏勢力を駆逐して北伊勢を制圧した織田信長は、翌年、足利義昭を奉じて上洛、畿内制圧に成功したが、永禄12(1569)年に至って愈々南伊勢侵を開始した。九鬼浄隆の弟嘉隆もこれに呼応して志摩国へ来襲している。
 これに対し、具教は多気城から大河内城に本拠を移して抵抗、霧山城には北畠政能の孫で具教の娘婿である政成が城代として入った。具教は信長軍を翻弄して力戦したが、やがて信長の次男信雄を北畠の養子として家督を譲る事で和解した。なお、この際、信長の命を受けた木下藤吉郎秀吉麾下の堀尾茂介吉晴が多気城を攻めて具教等の妻女を捕虜としたため、具教は和解に応じたとの話も伝わる。
 具教は多気郡三瀬館に隠居したが、天正4(1576)年に信雄によって暗殺され、同時に霧山城も織田軍の攻撃を受けて落城、城代政成は戦死した。こうして多気城は廃城となり、城下町も灰燼に帰してしまった。
 その後、南北多気村は織田信雄の領土となっていたが、天正12(1584)年の小牧長久手の合戦を機に蒲生氏郷領となり、服部一忠領・冨田信高領を経て慶長13(1608)年に安濃津藩主藤堂高虎領となった。当時の多気は城下町こそ消滅したものの、伊勢街道の宿場町として一定の賑わいを保っていたようである。
 ところが、元和5(1619)年に安濃津藩と紀州藩の領地交換があり、上多気村は紀州藩松坂領に組み込まれ、安濃津藩領に留まった下多気村と分断されてしまった。この結果、町としての一体性を失った多気の地は山間僻地の寒村へと落ちぶれて行く事となったのである。 
 寛永20(1643)年、北畠一族の末裔鈴木孫兵衛家次が多気御所跡に北畠顯能・北畠親房・北畠顯家を祭る小祠を設け、北畠八幡宮と称した。
 明治4(1871)年の廃藩置県で上多気村・下多気村は共に度会県に含まれる事となり、250年以上続いた分断が漸く終了、明治9(1876)年に度会県は三重県に統合された。
 明治14(1881)年、北畠八幡宮は北畠神社と改名して村社に列せられ、昭和3(1928)年に別格官幣社に昇格している。
 明治22(1889)年に上多気・下多気・丹生俣(ニウノマタ)の三村が合併して一志郡多気村となり、昭和30(1955)年に多気村は美杉村に併合、さらに平成18(2006)年に津市に併合された。
 昭和11(1936)年、霧山城が史跡、復元・整備された多気御所の庭園が史跡・名勝に指定され、平成18(2006)年に多気御所跡全域・詰の城・霧山城登山道も史跡の追加指定を受け「多気北畠氏城館跡」として一つの史跡に統合された。
 また、昭和45(1970)年に多気城跡は室生赤目青山国定公園エリアに指定されている。
 江戸時代に作成された『多気城下絵図』に描かれた多気城下町の存在を疑う説も有力だったが、平成時代に入り、発掘調査が進められて大規模な城下町の存在が確認され、平成13(2001)年に美杉村主催で多気地域住民センターで開催された多気北畠氏遺跡シンプジウム「伊勢北畠氏と中世都市多気」で報告・討論が行なわれた。

*多気北畠氏城館跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66952524&comm_id=398257
*北畠氏館跡庭園
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66952334&comm_id=360748
・球状花崗岩
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=67211442&comm_id=320240

コメント(22)

8日日曜日に行って来ました。
道の駅美杉が周辺周遊の拠点になります。
道の駅美杉で鴨ラーメンとんこつ味噌味730円也を食べました。
連れが食べたのは伊勢うどん420円也です。

左;道の駅美杉より望む霧山城跡
中;津市美杉ふるさと資料館
右;同上
津市美杉ふるさと資料館です。

左;力石
中;初代伊勢国司・右大臣北畠顕能木像
右;イノシシ
津市美杉ふるさと資料館にある多気御所模型です。
津市美杉ふるさと資料館にある球状花崗岩[津市指定天然記念物]です。
北畠神社です。

左;一の鳥居
中;神橋
右;二の鳥居
北畠神社です。

左;拝殿
中;幣殿
右;本殿
北畠神社です。

左;摂社多芸神社 祭神:金山彦命他
中;末社留魂社 祭神:北畠具行・満雅・具教
右;多気御所大手入口跡
北畠神社です。

左;権中納言北畠顕家銅像
中;多気御所土塁
右;初代伊勢国司・右大臣北畠顕能歌碑「いかにして 伊勢の浜萩 吹く風の 治まりにきと 四方に知らせむ」
北畠神社境内で発掘された多気御所石垣です。現在は埋め戻されています。
北畠神社境内にある多気御所庭園〔名勝〕です。
左;霧山城登山道から見下ろした北畠神社本殿
中;詰城跡
右;詰城跡から望む城下町跡
左;詰城堀切
中;同上
右;霧山城登山道
霧山城登山道です。土塁や堀切っぽいものが連なります。
霧山城南曲輪です。右は南曲輪から望む本丸です。
霧山城南曲輪です。

左;国見山地眺望 後方は局ヶ岳(1029m)
中;鐘突堂跡
右;左・大洞山(985m) 右・尼ヶ岳(958m)
霧山城北曲輪矢倉跡です。土塁や堀切が残ります。
霧山城北曲輪です。

左;矢倉跡からの眺望 左・大洞山(985m) 右・尼ヶ岳(958m)
中;本丸土塁
右;本丸石碑
霧山城北曲輪です。

左;本丸から望む南曲輪
中;本丸から望む三峰山(ミウネヤマ;1235m)
右;米倉跡
道の駅美杉で購入したお土産です。

左;霧山城羊羹
中;アマゴ甘露煮
右;ゆずマーマレード

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

城下町 更新情報

城下町のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。