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史跡コミュの多気(タゲ)北畠氏城館跡

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 三重県津市美杉町上多気1148

 1936年09月03日、霧山城跡と北畠氏館跡庭園が個別に指定。
 2006年07月28日、館跡全域、山城と館跡を繋ぐ範囲を追加指定し名称変更。

 霧山城は、建武2(1335)年に築かれていた小城を、興国3(1342)年に南朝初代伊勢国司北畠顕能(アキヨシ;後に右大臣)が本格的城塞に改めたものである。
 大和国境に近い標高570mの霧山山頂に築城された山城で、以後、伊勢国司家は田丸城からこちらに本城を遷した。この山間僻地が本拠地とされたのは山伝いに南朝の本拠吉野山と往来が容易であり、峻険な山岳部なため足利方の大軍による攻撃が行ないにくい点が考慮されたものと思われる。
 南北の曲輪に分かれ、土塁と堀切が巡らされた要害堅固な城で、鐘撞堂が設けられていた南曲輪の方が標高566mと、本丸のある北曲輪よりやや低い。北曲輪は西から米蔵・本丸・矢倉が連なっていた。
 標高350mの山麓の盆地に城館の多気御所、標高430mの中腹の尾根先端部には詰の城が築かれ、多気御所・詰の城・霧山城の三城で多気(タゲ)城を構成していた。
 第7代国司・参議北畠晴具は、大永元(1521)年に管領細川高国を招いて歌合せを多気御所で行なったが、その際、高国の助言を得て池泉回遊式庭園を作庭している。 
 永禄12(1569)年、織田信長軍の南伊勢侵攻が開始されると、第8代国司・権中納言北畠具教は大河内(オカワチ)城に本拠を移して抵抗、霧山城には娘婿の北畠政成が城代として入った。やがて具教は信長の次男信雄を北畠の養子として家督を譲る事で和解、三瀬館に隠居したが、天正4(1576)年に信雄によって暗殺され、霧山城も織田軍の攻撃を受けて落城、城代政成は戦死して廃城となった。 
 寛永20(1643)年、北畠一族の末裔鈴木孫兵衛家次が多気御所跡に北畠顯能・北畠親房・北畠顯家を祭る小祠を設け、北畠八幡宮と称した。明治14(1881)年、北畠八幡宮は北畠神社と改名して村社に列せられ、昭和3(1928)年に別格官幣社に昇格した。
 現在、霧山城跡には土塁や堀切が残り、多気御所の庭園は復元・整備されている。

◆城下町伊勢多気
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=67283988&comm_id=194642

*北畠氏館跡庭園
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=66952334&comm_id=360748

コメント(16)

8日日曜日に行って来ました。
北畠神社です。

左;一の鳥居
中;神橋
右;二の鳥居
北畠神社です。

左;拝殿
中;幣殿
右;本殿
権中納言北畠顕家銅像と初代伊勢国司・右大臣北畠顕能歌碑です。
「いかにして 伊勢の浜萩 吹く風の 治まりにきと 四方に知らせむ」

左;摂社多芸神社 祭神:金山彦命他
中;末社留魂社 祭神:北畠具行・満雅・具教
右;多気御所大手入口跡
埋め戻されている多気御所石垣です。現地パネルに写真が載っていました。
左;多気御所土塁
中;多気城下絵図 津市美杉ふるさと資料館と道の駅美杉で販売されています。
右;多気御所石垣残滓
左;霧山城登山道から見下ろした北畠神社本殿
中;詰城跡
右;詰城跡からの旧城下眺望
左;詰城堀切
中;同上
右;霧山城登山道
霧山城登山道です。土塁や堀切っぽいものが続きます。
左;南曲輪
中;南曲輪
右;南曲輪からの眺望 左;大洞山(985m) 右;尼ヶ岳(958m)
南曲輪です。

左;国見山地眺望 後方は局ヶ岳(1029m)
中;鐘突堂跡
右;本丸眺望
北曲輪矢倉跡です。土塁や堀切が残ります。
左;矢倉跡から望む大洞山と尼ヶ岳
中;本丸土塁
右;本丸跡
左;本丸跡土塁
中;本丸史跡碑
右;本丸から望む南曲輪
左;北曲輪米倉跡
中;本丸跡から望む三峰山(1235m)
右;霧山城遠望

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