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城下町コミュの宮崎

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 現宮崎市中心部は神話によれば、高天原(タカマガハラ)から高千穂峰(タカチホノミネ)へ降臨した瓊々杵尊(ニニギノミコト)が高千穂宮を設けて居住した地だとされ、その御陵である前方後円墳奈古山陵も築造された事になっている。
 高千穂宮の主は瓊々杵尊→彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)→鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)→彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)と受け継がれ、彦五瀬命は大和を征服すべく東征を開始するが戦死、結局、その末弟の神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が大和を征服して紀元前660年2月11日に畝傍橿原宮(ウネビカシハラノミヤ)で即位、神武天皇となったとされている。
 神武天皇は孫の建磐龍命(タケイワタツノミコト)を故郷の筑紫へ派遣するが、建磐龍命は高千穂宮の故地で祖父の霊を祀ったとされる。これが皇宮屋(コグヤ)であり、その後、人皇第10代崇神天皇〔位;148B.C〜29B.C.〕の御世に社殿が造営されたとされている。
 続いて、人皇第12代景行天皇〔位;71〜130〕が熊襲親征の際、日向国まで行幸し、皇宮屋西北の地を「良い瓜が成る所」だとして瓜生野(ウリウノ)命名したとされる伝承もある。
 次の人皇第13代成務天皇〔位;131〜190〕の代には、皇宮屋北方の奈古山陵の麓に瓊々杵尊・鵜茅草葺不合尊・神武天皇を祀る奈古神社が創建されたとされ、成務天皇に関しては大臣武内宿禰(タケノウチノスクネ)を派遣して皇宮屋西北に天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭る磐戸神社を創建させた伝説も伝わる。
 宮崎の地名は皇宮屋、若しくは奈古神社の宮前の意味であり、現宮崎市中心部は、律令制下に於いては日向国宮崎郡の郡衙が置かれ、その東方が江田郷であった。江田郷には瓊々杵尊の曽祖父伊邪那岐尊(イザナギノミコト)が、死んだ妻の伊邪那美尊(イザナミノミコト)に逢うため黄泉国へ赴いて帰還した際に禊を行った地だとされる禊池があり、伊邪那岐尊・伊邪那美尊を祭神とする江田神社〔延喜式内社〕が鎮座している。
 永承年間(1046〜53)に郡衙周辺の郡家院(グンゲイン)の開発によって宇佐八幡を本所とする宮崎荘が立券された。
 鎌倉幕府創設期の宮崎荘に関し、見過ごせないのが悪七兵衛伊藤景清伝説である。平家の猛将として勇名を馳せた景清は、寿永4(1185)年の壇ノ浦合戦の後も潜伏を続けたものの、建久7(1196)年に捕縛されて常陸守護八田知家(ハッタトモイエ;1142〜1218)の家に預けられ、絶食して果てたというのが史実のようだが、日本各地に伝承が残り、宮崎には以下のような伝承がある。
 景清は壇ノ浦合戦の後も源頼朝暗殺を狙って復讐の機会を狙っていたが、警備の堅固さのため遂に断念して自首、これに対し、頼朝はその勇力と潔さを惜しんで、景清を日向別当として日向国に下し、宮崎郡北方百町・南方百町・池内百町を領有せしめた。景清は文治2(1186)年11月、家臣大野・黒岩・高妻の諸族を従えて日向に下り、宮崎郡下北方古城に居して深く神仏を信仰、名田神社・帝釈寺・岩戸寺・浮の城正光寺等の社寺を次々に建立したが、過去に多くの殺生を行った罪悪感から自ら両眼を抉って投げ捨ててしまった。その目玉が落ちた場所が亀井山の「おめかけの松」、その目を祭ったのが生目(イキメ)神社である。景清は琵琶を引きながら無聊を慰めていたが、京都に居た頃に深く馴染んだ清水坂の美妓阿古屋(アコヤ)との間に出来た娘である人丸が日向に下って来て盲目の父を看護した。しかし、人丸は建永元(1206)年9月、27歳の若さで父に先立って病没してしまい、愛娘を失った景清は淋しい孤独の生活を続けたが、霧島神社参拝を思い立ち、不自由の身ながら祈願を果した。ところが、帰途山麓で病を発し、建保2(1214)年8月15日、62歳で没したため、その遺骸を持ち帰って皇宮屋北方に景清廟が建てられた。
 この伝承は一見したところ荒唐無稽なヨタ話の如く見えるが、妙に具体的な日時が記されており、当時の宮崎荘に悪七兵衛、若しくは景清という名の荘官が実在、有名人の話と混同されたとも考えられる。下北方古城と後の宮崎城の関係は不明だが、宮崎荘の中枢を成す城館だったと推定されよう。
 さて、一次史料で明らかになる鎌倉幕府成立期の宮崎荘の状況だが、幕府成立時に京都守護中原親能(ナカハラノチカヨシ)が宮崎荘地頭となり、建久6(1195)年に年貢を押領した記録が残る。続いて土持信綱(ツチモチノブツナ)が地頭に就任、建久8(1197)年に皇宮屋の神霊を南方へ遷座させて神武天皇社と名付けた。
 承久3(1221)年の承久の乱後、宮崎荘は征夷大将軍を本所とする関東御領とされ、地頭職を世襲する土持氏が預所を兼務したが、建武新政期に宇佐八幡領に復帰したようである。
 建武3(1336)年、後醍醐天皇に叛いて挙兵した足利尊氏が九州に入ると、宮方の図師(ズシ)六郎入道隋円・慈円父子が奈古神社西北の標高90mの台地に宮崎城(池内城)と呼ばれる山城を築いて拠ったが、足利方の日向守護代土持宣栄(ノブヨシ)に攻められて落城、隋円・慈円は斬られた。
 その結果、宮崎城は宣栄の一族の土持久綱に与えられ、その子孫が城主となったが、天授年間(1375〜81)に都於郡(トノコオリ)城主伊東氏の一族曽井氏が大淀南岸に曽井城を築いて勢力を伸ばし。15世紀に入ると宮崎城は曽井氏の属城となった。
 しかし、曽井氏は伊東本家に反抗的だったため、伊東祐堯(スケタカ)は文安元(1443)年に曽井城、文安4(1446)年に宮崎城を攻略して曽井氏を撃滅し、家臣落合彦左衛門兼続を新たな宮崎城主とした。
 天文5(1536)年には伊東三位入道義祐が本拠の佐土原(サドワラ)城火災焼失に伴って一時居城を移し、島津氏の重要拠点飫肥(オビ)城攻略の重要な戦略基地として機能する事となった。義祐が佐土原城に帰還した後は、重臣の長嶺氏や肥田木(ヒタキ)氏が城主を務め、永禄10(1567)年には飫肥城攻略を達成している。
 宮崎城は、宮崎平野を一望するように南北に長く伸びた丘陵に築かれ、丘陵の南麓を大淀川が流れる天然要害で、自然の地形を有効に利用し、本丸・野首城・服部城・彦右衛門城・百貫城等の独立した曲輪からなり、船ヶ崎・万願寺・目引・野首の四つの登城口がある。この築城法は都於郡城と酷似している。
 伊東義祐は元亀3(1572)年の木崎原の戦で島津義弘に敗れて勢力を失い、天正5(1577)年には日向から逃れる身となったため、宮崎城は島津義久の支配下に入り、義久の弟歳久が城代となった後、天正8(1580)年に島津家老中上井覚兼が城主となって日向国内統轄の拠点とした。覚兼は城下町や港湾の整備を進め、宮崎は日向国の中心として大いに発展したのである。
 しかし、天正15(1587)年、関白豊臣秀吉の九州征伐の結果、宮崎城は松尾城主高橋元種53000石の支配下となり権藤平左衛門種盛が城代となった。一方、伊東義祐の子祐兵(スケタカ)も飫肥城36000石を与えられて日向帰還を果たした。
 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の際、伊東祐兵・高橋元種は共に大坂にいたため、西軍に参加させられる事となった。しかし祐兵は重病の床に伏していたために自身は出陣せず、密かに嫡男祐慶を領国へ送って軍備を整え、さらに黒田孝高を頼って徳川家康に通じた。
 この結果、伊東家家老で清武城主の稲津掃部助(カモンノスケ)重政は3000の兵を率いて高橋元種の属城である宮崎城を攻撃、城代権藤種盛は徹底抗戦を貫いた末、長男忠右衛門・次男八右衛門以下一族郎党500人と共に10月1日に玉砕したが、元服前だった三男百千代(モモチヨ)のみは城を脱出する事に成功、後に出家して、名を永伝と改めた。
 一方、高橋元種は兄の秋月種長等と共に美濃国大垣城の守備に当たっていたが、9月15日の合戦で西軍本隊が壊滅した報を聞くと、兄と共に東軍へ願える決意をし、9月17日、徹底抗戦を唱える西軍側守将の熊谷直盛・垣見一直・木村由信等を斬って大垣城を開城、東軍に下って徳川家康から本領を安堵されていた。
 つまり、稲津重政の宮崎城攻めは東軍陣営の同士討ちだった形となってしまい、宮崎城は翌年高橋元種に返還された。なお、この際、元種は松尾城から縣(延岡)城へ本拠を移している。
 他方、同士討ちの責任を擦り付けられた稲津重政は慶長7(1602)年に切腹を命じられたが、これを拒否して清武城に拠り、一族郎党と共に玉砕して果てた。その後、伊東家の御用船が日向灘で遭難する異変が相次いだため、重政の怨霊によるものだと恐れられ、日向灘に向いていた重政の墓の向きを変える措置が取られた。
 慶長18(1613)年、高橋元種は罪人を匿った咎で改易されたが、これは失脚した年寄(老中)・金山奉行大久保長安の縁戚だったのが真の理由だと言われている。翌年、有馬直純が53000石で縣藩主となったが、宮崎城は元和元(1615)年の一国一城令によって廃城となり、現在は土塁や空堀が残るのみである。
 宮崎城廃城後、下北方に縣藩宮崎代官所が設けられが、城下町は廃絶して農村に戻ってしまった。
 なお、権藤種盛の子永伝は父兄の菩提を念じて寺院建立の意図があったが果たせぬままになっていたところ、有馬直純は種盛父子の忠節に心を打たれて永伝とその子門解(モンゲ)に援助を行い、正保4(1647)年に寺院を建立させた。永伝は、直純の徳を称えて寺号を浄土真宗本願寺派笠置山直純寺(ジキジュンジ)とし、初代住職には門解が就任、永伝の方は縣(延岡)城下の浄土真宗本願寺派小林山光勝寺第2代住持となった。
 また、縣藩は三浦明敬(アキヒロ)が23000石で入封した際に延岡藩と改名し、以後、牧野氏80000石→内藤氏80000石へ受け継がれて廃藩置県に至った。三浦明敬が延岡藩主だった宝永7(1710)年には権藤種盛の僑墳(キョウフン;仮の墓)が直純寺に造られた。
 直純寺は宮崎郡随一の大伽藍を誇ったが、廃仏毀釈のため明治4(1871)年に一旦廃絶し、明治11(1878)年に再興されたものの、小規模な寺院に零落してしまった。
 明治4(1871)年7月の廃藩置県で宮崎は延岡県に属する事となったが、同年11月に美々津県、明治6(1873)年に宮崎県へ統合された。宮崎県庁は従来寒村に過ぎなかった宮崎郡上別府村に設置されたため、江戸時代に凋落していた宮崎の地は一躍行政の中心地となる事となった。
 明治9(1876)年、宮崎県は鹿児島県へ統合され、宮崎に鹿児島県の支庁が置かれたが、明治16(1883)年に宮崎県が復活している。明治22(1889)年の市町村制導入によって宮崎郡宮崎町となり、大正13(1924)年に市制が施行された。
 また、皇国史観の浸透によって宮崎は天皇家発祥の地として脚光を浴び、宮崎神宮と改称された神武天皇社は官幣大社に列したが、江田神社は県社、奈古神社・磐戸神社は村社に留まった。昭和15(1940)年の皇紀2600年祭に際しては、宮崎神宮北方に「八紘一宇」の文字が大書された37mの巨塔たる八紘之基柱(アメツチノモトハシラ)が建てられた。
 大東亜戦争末期の昭和20(1945)年3月から8月にかけて宮崎市は19回に及ぶアメリカ軍の空襲を受け、市街中心部は灰燼に帰したが、戦後は順調に復興、昭和40(1965)年に宮崎を舞台とするNHK朝ドラ『たまゆら』が放映されたのを機に観光地として注目され、昭和40年代は新婚旅行のメッカとして殷賑を極めた。

+アカウミガメ及びその産卵地
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=72773045&comm_id=320240
◎一ツ葉海岸
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*蓮ヶ池横穴群
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*宮崎神宮のオオシラフジ
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+船塚古墳
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+宮崎市下北方古墳
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+池内横穴
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+瓜生野村古墳
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コメント(21)

1月14日月曜日に直純寺を訪れました。眼前を大淀川が流れます。
左;景清の両親の供養塔です。景清の父は上総介伊藤忠清です。
中;人丸姫の墓です。
右;八紘之基柱です。
平和台公園のレストラン待夢(タイム)でチキン南蛮定食を食べました。
左;宮崎県総合博物館
中;宮崎県埋蔵文化財センター分館
右;宮崎県立美術館
宮崎神宮です。

左;二の鳥居
中;神苑
右;透間垣[登録文化財]
宮崎神宮です。

左;三の鳥居
中;正門[登録文化財]
右;拝所[登録文化財]
宮崎神宮です。

左;御料屋[登録文化財]
中;幣殿[登録文化財]
右;神饌所[登録文化財]
1月15日火曜日に城跡と周辺部を巡りました。
磐戸神社です。
 宮崎城跡です。浄土真宗本願寺派落水山満願寺跡のある満願寺口から道標が整備されています。
インチキな冠木門が「復元」されています。
 入口に地図がありますが、杜撰な物です。みやざき歴史文化館特別展のパンフレットに正確な地図が載っています。
左;本丸土塁
中;本丸
右;本丸・斎藤城間の空堀
左;本丸・百貫城間の堀切
中;百貫城跡
右;斎藤城・彦右衛門城間の空堀
左;彦右衛門城
中;丸城堀切
右;野首城土塁
左;野首城
中;服部城土塁
右;宮崎城主権藤種盛墓(古賀総合病院敷地内)
お土産です。

左;ドライフルーツ マンゴー
中;日向夏みかん
右;きんかんマーマレード

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