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城下町コミュの糸魚川(清崎)

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 姫川下流域の現糸魚川市域は、糸魚川静岡構造線とフォッサマグナという日本列島の形成に関わる重要な地質構造を持つ地質学上の特性から、貴重な鉱物や多様な岩石・地層が産出する地域であり、日本で唯一の高品質翡翠(ヒスイ)産地となっている。約5000年前の縄文時代中期に翡翠加工が始まり、世界最古の翡翠文化が成立した特異な地域で、寺地遺跡〔史跡〕や長者ヶ原遺跡〔史跡〕で翡翠工房跡が確認されている。
 その後、弥生時代・古墳時代を通じて翡翠は非常に珍重されたが、日本各地の縄文〜古墳時代の遺跡で発見されている翡翠装身具は全て、糸魚川で産出・加工された物である事が確認されている。糸魚川産の翡翠装身具は当然、日本海側で多く出土しており、青森県の三内丸山遺跡は固より、遥か北の果ての北海道礼文島、さらには沖縄でも発見されているが、一方、何故か畿内・山陽・四国・南九州ではあまり発見されていない。
 この点に関しては『古事記』に記された奴奈川姫(ヌナカワヒメ;沼河比売)伝説が多くの示唆を与えている。奴奈川姫は高志(コシ)国(福井〜新潟県)の沼河(現在の姫川)に住む女神で、出雲国の大国主命から求婚されて結婚したとの記述のみが残り、『日本書紀』には登場しない。糸魚川に残る伝承では、奴奈川姫は色黒の醜女だったとされるが、大国主命の子である建御名方神(タケミナカタノカミ)を産んだとされ、『先代旧事本紀』でも諏訪大社の祭神たる建御名方神は沼河比売の子とされている。また、奴奈川姫は『出雲国風土記』では高志国の意支都久辰為命(オキツクシイノミコト)の子の俾都久辰為命(ヘツクシイノミコト)の子と記され、大国主命との間に御穂須須美命(ミホススミノミコト)を産んだとされる。
 『万葉集』には作者未詳の「渟名河(ヌナカハ)の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも 惜(アタラ)しき君が 老ゆらく惜(ヲ)しも」の歌が残るが、「底なる玉」とは翡翠(ヒスイ)を指していると考えられ、奴奈川姫は日本唯一の翡翠産地である姫川を支配した祭祀女王であり、既に須勢理毘売命(スセリヒメノミコト)を正妻としていた大国主命は、翡翠利権目当で奴奈川姫を側室としたと考えられる。これに対し、須勢理毘売命が激しく嫉妬、辟易とした大国主命は一旦大和国への脱出を考えた程だとも伝えられている。
 糸魚川の一部の伝承では、大国主命は奴奈川姫を連れて能登国へ赴いたものの、元々醜悪な容姿だった奴奈川姫は次第に疎んじられるようになったため、とうとう大国主命の下から逃げ出して故郷へ戻るものの、追手に探索されて次第に姫川上流に追い詰められ、草原に潜んだところ、追手が姫を燻り出そうとして草原に火を放ち、姫は脱出出来ないまま焼死してしまったされている。また、別の地元伝承では、奴奈川姫は出雲族に攻撃されて姫川上流に逃れたともされており、日本海側で勢力を伸ばした大国主命麾下の出雲政権が、翡翠利権確保のため姫川へ来襲、姫川の女性首長、若しくは首長の娘だった奴奈川姫は無理やり大国主命の妻とされ、一旦は脱出したものの結局殺害されたというのが本来の伝承ではないかとも推定される。延喜式内社の大神(オオムハ)社は奴奈川姫を祭った神社である。
 つまり、古代遺跡の翡翠の分布は、糸魚川の翡翠利権を獲得した出雲政権が、畿内の大和政権と張り合っていた情況を示すものだと言えるだろう。
 ところが、奈良時代以降は翡翠は何故か全く利用されなくなってしまい、糸魚川で翡翠が採れる事すら忘れ去られてしまったたのである。
 さて、糸魚川の地は白鳳時代には頚城(クビキ)郡沼河(沼川;ヌナカワ)郷と呼ばれ、人皇第12代景行天皇〔位;71〜130〕の時代の創建と伝えられ、人皇第36代孝徳天皇〔位;645〜654〕の勅願所であったと伝えられる天津神社(祭神;天津彦々火瓊々杵尊・天児屋根命・天太玉命)の所在地であった。なお、頚城郡は大宝2(702)年に越中国から越後国に編入されている。
 近年、新羅からの渡来人が糸井造(イトイノミヤツコ)と名乗り、この地に住み着いて後に糸井荘の荘官となったとの説が登場、「糸魚川」の語源となったとされる。この説によれば糸魚川とは姫川の別名である事になるが、史料の裏付けは無い。
 中世にはこの地は頸城郡沼川保と呼ばれ、国衙領となっていた。治承4(1180)年頃には木曽義仲軍の進撃を阻止するため、平家方が西方の要衝親不知(オヤシラズ)を扼する標高328mの山上に勝山城を築いている。
 承久3(1221)年の承久の乱の際には、北条義時の次男である名越朝時(ナゴエトモトキ)麾下4万の幕府北陸道方面軍が、朝廷方の宮崎左衛門尉を親不知西方で撃破、その付近は「浄土崩れ」と呼ばれるようになった。
 南北朝時代の至徳4(1387)年の市川頼房軍忠状に「糸井川」の地名が登場した頃からイトイガワの地名が定着したと推定される。しかし、糸魚川と言う河川は存在せず、その地名由来は謎に包まれており、糸井造説も糸魚川の地名初出が14世紀である事と矛盾している。
 伝説では地名由来として色々な話が伝えられているが、糸魚川市は清溂な河川に棲む淡水後である糸魚(イトヨ)が姫川一帯に多く棲んでいた事に由来するとの話に基づいて「名産の糸魚三尾をもって市民を表わし、密接に連繋するが己の分を守り、他を尊重する意味である」市章を定めている。なお、糸魚は昭和40年代前後から河川の汚染等で市内では殆ど見られなくなった。
 戦国時代には長尾(上杉)氏の統治下にあり、南方山間の根知(ネチ)城が拠点となっていたが、天正11(1583)年に上杉景勝が平野部に小規模な糸魚川城を築き秋山定綱が横目(城代)となった。この頃、勝山城も改築されて織田信長軍の越後侵攻に対抗する拠点となり、天正13(1585)年に上杉景勝と羽柴秀吉が勝山城で会見した事が知られる。
 慶長3(1598)年の景勝会津転封後、越後の領主となった堀秀治は一族の堀正家を根知城主としたが、慶長6(1601)年に正家の孫の清重が平野部に近い丘陵に清崎城を築いて根知城から当地の拠点を移した。
 慶長15(1610)年、大御所徳川家康の六男松平忠輝が600000石で越後高田藩主となると、清崎城には重臣の松平信直が16500石で入り、元和元(1615)年の一国一城令布告後も存続が認められた。しかし、翌年忠輝は改易され、糸魚川地方は天領とされた。
 元和4(1618)年、結城秀康の次男松平忠昌が250000石で高田藩主となると、糸魚川地方は高田藩領となり、その附家老稲葉正成が20000石で清崎城に入った。
 寛永元(1624)年、松平忠昌が越前国福井に転封され、その甥松平光長が260000石で高田藩主となると、次席家老の荻田主馬長繁が14000石で清崎城代となり、以後、城代職を荻田氏が世襲した。
 糸魚川は北陸道(北国街道)と松本街道(千国街道)の分岐点だったため、宿場町としても繁栄、信州問屋6軒が指定されている。さらに、糸魚川は最大の外様大名である越中加賀百万石前田藩領と接する軍事要衝でもあったため、寛永年間(1624〜45)初頭、3代将軍家光は光永に命じて越中国境に市振(イチブリ)関を築かせ、越中・越後間の海上交通を禁止した。この結果、北陸往来は難所の親不知を通らざるを得なくなり、東側入口の糸魚川は宿場町として一層重要性を増す事となったのである。
 清崎城下町は北陸道に沿って東西に広がり、寺町・大町・新屋町・七間町・横町が形成された。承応元(1652)年には松本街道沿いに新田町と鉄砲町も設けられ、同年、大町には加賀前田藩の本陣が置かれた。
 加賀藩本陣は、慶安3(1650)年に小林家二代目の九郎左ェ門が古賀坂家から酒屋を譲り受けて酒造りを始めた酒蔵に置かれたが、宿泊した前加賀藩主の権中納言前田利常が献上された酒をいたく気に入って、加賀国では無いにも拘らず加賀の字の使用を許し、酒銘を「加賀の井」とした。小林家は本陣の役と糸魚川の町年寄を兼ねて幕末まで世襲した。加賀の井酒造株式会社は新潟県最古の酒蔵として現存しており、酒造りが行なわれた蔵は、現在も出荷蔵として使用されている。平成18(2006)年に営業不振で事業休止状態となったが、ジャパン・フード&リカー・アライアンス(JFLA)の支援を受け、翌年、JFLAの100%子会社が、新・加賀の井酒造として発足、さらにJFLAより分離独立した伝統蔵の100%子会社となって現在に至っている。
 第2代糸魚川城代の荻田隼人長磐(ナガイワ)は藩主光長を補佐して重きを成したが、寛文5(1655)年、高田城下において越後高田地震により圧死、息子の主馬本繁が15000石で第3代糸魚川城代となった。
 延宝7(1679)年、高田藩で越後騒動と呼ばれる御家騒動が発生、荻田本繁は「お為方」と称する一派の最高幹部として、「逆意方」と呼ばれる城代家老小栗美作の一派と敵対したが、天和元(1681)年、5代将軍綱吉の親裁により高田藩は喧嘩両成敗で改易とされ、荻田本繁は八丈島へ流罪となった。
 こうして清崎城は破却されて、一帯は天領となったが、元禄4(1691)年に有馬清純が50000石で入った。清純は悪政による一揆勃発の責任を取らされての日向延岡からの懲罰転封だったため、無城大名の扱いを受けて清崎城再建は認められず、横町に糸魚川陣屋が設けられたため、有馬藩は糸魚川藩と呼ばれる事となった。清崎城跡と元の家中地は糸魚川七町と上刈村に払い下げられている。
 清純は元禄8(1695)年に越前丸岡に転封され、糸魚川は再び天領になったが、元禄12(1699)年に譜代の本多助芳が10000石で入り糸魚川藩が復活した。
 助芳は享保2(1717)年に飯山藩へ転封され、越前松平家一族の松平直之が10000石で入府、越前松平家が加賀前田藩を東西から挟撃する体制が採られた。以後、幕末まで糸魚川藩では越前松平家が続くが、江戸定府大名であったため、実質的な統治は郡代が行なっていた。藩領は頚城郡内の62村だったが、寛保3(1743)年、第3代藩主松平堅房が高波の害を受けやすい能生(ノウ)村以下17村3000石を幕府に上知し、代わりに魚沼郡内の天領24村2886石を下賜された結果、実高は12164石となった。
 糸魚川は西廻り海運と信州への物資流通のの中継地として繁栄し、特に信州問屋6軒(中村家・水谷家・木藤家・野本家・町沢家・谷内家)は信州に出入りする物資を独占管轄する権限を与えられて殷賑を極めた。信州からの牛方やボッカ(背負い人夫)の定宿も6問屋に限定されていた。
 小藩ながら名門の糸魚川藩主は幕府の要職を歴任したり公用を命じられる事が多かった上、御用金・前納金等が頻繁に課されたため、藩財政は慢性的に苦しかった。しかも海岸から強風が吹く糸魚川は頻繁に大火にも見舞われ、安永6(1777)年の大火の翌年、第4代藩主松平直紹(ナオツグ)は火難避けの神である秋葉社を横町の火元民家跡に勧請(カンジョウ)したが、その後も大火が頻発した。
 特に第5代藩主直益の時代には、文化7(1810)年の江戸屋敷焼失に続き、翌年には陣屋町一帯で大火災が生じたため、藩財政は破滅的な状態に陥った。この結果、領民には重税が課され、文政2(1819)年には黒川騒動と呼ばれる農民一揆が勃発、一揆勢が陣屋にまで迫る事態となったため、直益は課税の直接責任者だった黒川郡代黒川九郎治と町年寄松山察右衛門を罷免せざるを得なくなった。
 天保4(1833)年、第6代藩主直春の時に数ヶ村の村替えが行なわれ、糸魚川藩領は81村13067石となった。
 直春は、安政4(1857)年に四男の直廉(ナオキヨ)へ家督を譲って江戸で隠居したが、安政5(1858)年に至り、安政の大獄で越前藩主松平春嶽が隠居させられた結果、直廉が茂昭(モチアキ)と改名して越前藩主となったため、その養子の直静(ナオヤス;播磨国明石藩主松平斉韶の子)が第8代糸魚川藩主となり、幼少の直静に代わって直春が藩政を執る事となった。
 文久2(1862)年、15歳になった直静が従五位下日向守に叙されたのを機に、直春は糸魚川で藩政に当たる事となり、清崎城跡が上知されて御殿・隠居殿・藩士長屋が建設された。この結果、糸魚川陣屋よりも清崎隠居殿の方が藩庁として重要な機能を果たすようになった。直春は元治元(1864)年に清崎を亀ヶ岡と改名している。
 慶応4(1848)年の戊辰戦争に際して、直春は越前本藩に従って新政府に恭順したが、軍需品等を官軍に提供しただけで出兵はせず、実質的には日和見を決め込んでいた。
 明治2(1869)年の版籍奉還によって直静は清崎知藩事となり、初めて糸魚川に入って亀ヶ岡の地名を清崎の旧名に復した上で清崎御殿に居を構えたため、糸魚川藩は清崎藩と改称された。また、同年、清崎の家老綾部家邸宅を仮校舎として藩校明道館が開設されている。明道館は翌年から平民子弟の入学も許される事となり、郡代役所に移転した。
 明治4(1871)年7月の廃藩置県によって清崎藩は清崎県となり、同年11月に柏崎県に併合された。この結果、明道館は明治5(1872)年に閉校となり、代わって旧糸魚川陣屋に柏崎県校の糸魚川分校が開校、後の糸魚川小学校の前身となった。
 明治6(1873)年1月の廃城令で清崎御殿・糸魚川陣屋は破却され、清崎城跡には10軒程の民家が並ぶだけで大半が桑・麦・茶の畑と化してしまった。なお、同年6月、柏崎県は新潟県に合併されている。
 明治12(1879)年からは新潟県西頚城郡の郡庁所在地となり、七間町に郡役所が設置されたが、清崎は糸魚川七町とは別の町とされた。明治15(1882)年には親不知を通る道路が開設されたため、糸魚川は交通の要衝として一層重きを成す事となった。
 明治17(1884)年の華族令で旧藩主松平直静は子爵に叙されている。
 明治22(1889)年、清崎町等も吸収合併して新潟県西頚城郡糸魚川町となり、町役場は大町に設けられた。
 大正2(1913)年には北陸本線が開通して糸魚川駅が設けられた。
 近代考古学では日本には翡翠の産地は無く、遺跡から出る翡翠は大陸から持ち込まれた物だと考えられていたが、昭和13(1938)年に糸魚川の文人相馬御風(ソウマギョフウ)が知人の鎌上竹雄に、奴奈川姫が翡翠の勾玉を装着していた神話からして、糸魚川で翡翠が産出するのかもしれないと語ったため、鎌上の親戚である伊藤栄蔵が地元の小滝を流れる小滝川に注ぐ土倉沢を探索したところ、滝壷で緑色の綺麗な石を発見、この石は鎌上の娘が勤務していた糸魚川病院長小林総一郎の親類の東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野義礼博士へ送られた。
 河野が神津俶祐教授の所有していたビルマ産の翡翠と比較した結果、小滝川で取れた緑色の岩石は翡翠に非常に似ている事が判明、河野の現地調査で翡翠である事が科学的に確認され、昭和14(1939)年に論文発表が行なわれた。
 昭和29(1954)年、市制が施行され、清崎城跡に市役所が建設された。
 糸魚川はジオパークの語を世界で最初に用いた地でもある。
 昭和62(1987)年に糸魚川市がまとめたフォッサマグナと地域開発構想に基づいて、平成2(1990)年には人工的に糸魚川静岡構造線を露出させたフォッサマグナパークが作られた。
 さらにフォッサマグナミュージアムの建設準備と市内の地質見学地のガイドマップや解説板の整備が進められる中、それまでの地質見学地に代わってgeoparkという名称が平成3(1991)年にフォッサマグナミュージアム学芸員によって造語された。平成6(1994)年に中央博物館としてフォッサマグナミュージアムがオープンすると、野外博物館としてジオパークの語が積極的に使用されるようになった。
 一方、21世紀に入って、地球科学的に見て重要な自然の遺産を含む、自然に親しむための公園を国際的に造って行く運動がUNESCOで開始され、糸魚川で用いられていたgeoparkの語が流用される事となった。
 糸魚川の場合は地質学に特化した語としてgeoparkの名称を使用したが、UNESCOの場合、地球科学的に見て重要な特徴を複数有するだけでなく、その他の自然遺産や文化遺産を有する地域が、それらの様々な遺産を有機的に結びつけて保全・教育・ツーリズム等に利用しながら地域の持続的な経済発展を目指す仕組みの意味でgeoparkを使用する事となった。
 平成16(2004)年、UNESCOの支援により、世界ジオパークネットワーク(GGN)が発足、ジオパークを審査して認証する国際的仕組みが作り上げられ、まずはヨーロッパでジオパークの指定が行なわれ始めた。
 日本では、平成20(2008)年に国内の認定機関として日本ジオパーク委員会(JGC)が発足、翌年、JGCの推薦を受けて北海道の洞爺湖有珠山・長崎県の島原半島と糸魚川が、GGN加盟を認められて「世界ジオパーク」となった。
 糸魚川は、言わば発明を盗まれたような形になったが、潔く国際的枠組みに服する事となり、従来の独自のジオパーク活動を発展的に解消する事となった。
 糸魚川ジオパークは24ヶ所のジオサイトと呼ばれるエリアで構成されている。
 糸魚川市では「ジオまる」と「ぬーな」と言うキャラクターを設定しているが、ぬーなは奴奈川姫(ヌナカワヒメ)がモデルである。
 平成17(2005)年、西頸城郡能生(ノウ)町・青海(オウミ)町と合併した。
 清崎城は天津神社境内に濠や土塁の残滓を残すが、糸魚川陣屋は跡形も無い。なお、天津神社境内社の奴奈川神社は大神社の後身と推定されている。

*長者ヶ原遺跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=71470318&comm_id=398257
*寺地遺跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=71470126&comm_id=398257
*青海川の硬玉産地及び硬玉岩塊
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=71806223&comm_id=320240
+親不知子不知
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=71471088&comm_id=360748
+相馬御風宅
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=71470543&comm_id=398257

コメント(30)

9月29日土曜日〜30日日曜日に行って来ました。

JR糸魚川駅です。新幹線駅工事のため、グチャグチャになっています。
左;ヒスイ王国館 駅のコインロッカーは撤去されていますが、こちらの分が利用出来ます。
中;駅前の奴奈川姫像
右;ラベンダービーチの奴奈川姫像
左;寺地遺跡〔史跡〕
中;勝山城跡
右;同上
ホテルルートイン糸魚川に泊まりました。
ルートイン糸魚川のレストラン花々亭です。

左;ホタルイカの刺身 580円也
中;アサリの酒蒸し 380円也
右;ビーフシチュー 950円也
ルートイン糸魚川6階から見た北アルプスの朝焼けです。
新潟県産柿の種と花々亭の朝食ヴァイキングです。
左;糸魚川陣屋跡
中;糸魚川町道路元標 北陸道(北国街道)と松本街道(塩の道)の分岐点です。
右;加賀藩本陣だった酒蔵加賀の井です。
駅前海望公園です。

左;相馬御風歌碑「かりそめの 道出なれども 夕されば 旅のこころと なりにけるかも」
中;奴奈川姫・建御名方命銅像
右;虹の展望台
虹の展望台からの眺望です。

左;日本海の釣り船
中;姫川港燈台
右;浦本海岸
虹の展望台より望む北アルプス北端です。

左;明星岳(標高1189m)
中;駒ケ岳(標高1487m)
右;横前倉山(標高1160m)
相馬御風宅〔新潟県指定史跡〕です。
長者ヶ原考古館です。ここにも奴奈川姫がいました。
長者ヶ原考古館では清崎城関係の史料展示も行われています。
美山公園です。

左;相馬御風『春よ来い』歌碑
中;「注意 熊出没」の看板
右;軽便鉄道SL〔くろひめ号〕
曹洞宗昌禅寺飛地境内です。

左;左から羅漢堂・釈迦堂・七社
中;五百羅漢
右;同上
天津神社〔県社〕祭神;天津彦々火瓊々杵尊・天児屋根命・太玉命

左;表参道
中;衣紋所
右;拝殿
天津神社

左;左;奴奈川神社〔延喜式内社〕右;天津神社本殿〔糸魚川市指定文化財〕
中;表参道の清崎城堀跡と土塁跡
右;同上
左;糸魚川市役所 清崎城本丸跡
中;相馬御風胸像
右;相馬御風記念館
 相馬御風が昭和21(1946)年に作詞した『ふるさと』の歌碑です。本来は糸魚川駅前にあったんですが、新幹線駅工事のため御風記念館前に移されました。

1ふるさとの 山はなつかし
 ふるさとの 川はなつかし
 疲れたる こころいだきて
 足おもく かえり来たれば
 ふるさとに 山はありけり
 ふるさとに 川はありけり

2ちちのみの 父はなつかし
 たらちねの 母はなつかし
 おさなごの こころになりて
 身もかろく かどをくぐれば
 すこやかに 父はましけり
 なごやかに 母はましけり

3ふるさとの 友はなつかし
 ふるさとの 土はなつかし
 こみあぐる なみだのみこみ
 友の手を 土をにぎれば
 あたたかく 友はありけり
 やわらかく 土はありけり
糸魚川市立糸魚川小学校のC12蒸気機関車です。 
お土産各種です。

左;糸魚川翡翠ストラップ
中;糸魚川ジオパーク名湯だより
右;同上

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