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城下町コミュの伊予新谷

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 伊予国喜多郡新谷(ニイヤ)郷は、大洲盆地の北東部、北方の妙見山(535.2m)と南方の神南山(カンナンザン;710.1m)の間を西流する矢落川流域に位置し、弥生時代中期の遺跡もある事から、太古より開けた地であった事が判る。
 室町時代には大津城主宇都宮氏に属する津々木谷氏の所領となっており、永禄11(1568)年の伊予宇都宮氏滅亡後も歴代大津城主の統治下に置かれていた。
 元和9(1623)年、大津藩主加藤貞泰は跡目の届け出をしないまま急死したが、嫡男の泰興が2代将軍徳川秀忠の特別の配慮で相続を認められた。この際、次男の直泰が幕府から10000万石分知の内諾を得て新谷藩が成立したが、これを認めようとしない本藩との間で騒動が続き、寛永16(1639)年に至って藩内分知という事で漸く決着した。但し、幕府は新谷藩公認を続けたため、新谷藩主は陪臣の身でありながら大名と公認される全国唯一の例となった。
 なお、加藤泰興は大津城を大洲城と改めている。
 また、陽明学者中江藤樹(1608〜48)は、寛永9(1632)年に大洲藩から新谷藩に配置換えになった藩士であったが、寛永11(1634)年に脱藩した人物である。
 寛永19(1642)年、初代新谷藩主加藤直泰は上新谷村多郷(タゴウ)に新谷陣屋と31軒の侍屋敷を建設し、陣屋町が成立した。陣屋町は妙見山から発して南流し、矢落川に注ぐ大久保川によって川東・川西の両町に区分され、侍屋敷の南側に幅半間の溝を隔てて町人町が形成されて、東から上の町・中の町・下の町と呼ばれた。さらに、南方の矢落河畔には陣屋成立前からの町人町である古町があった。
 4代藩主加藤泰広治下の元文5(1740)年には侍屋敷は83軒に増加していた。
 下の町や古町は頻繁に矢落川の氾濫で浸水し、周辺農村も甚大な被害を受けていたため藩財政は慢性的に苦しかったが、6代藩主加藤泰賢(ヤスマサ)の代に至って、天明3(1783)年の藩校求道軒創設による出費増大も加わり藩財政は遂に破綻、新谷藩は事実上大洲藩の財務管理下に置かれる事となってしまった。このため、泰賢は責任を取って文化7(1810)年に隠居に追い込まれた。
 7代藩主泰儔(ヤストモ)は藩財政再建のため、豊凶に関わらず一定の年貢を納める事を定めた定免制を採用している。
 9代藩主泰令(ヤスノリ)は大洲藩主加藤泰秋同様尊王攘夷派で、元治元(1864)年に農民鉄砲隊である郷組を組織し、戊辰戦争に際しては藩兵と共に出陣させている。
 明治4(1871)年7月の廃藩置県で新谷藩は大洲県とされたが、同年11月に宇和島県に併合され、明治5(1872)年6月に神山(ジンザン)県と改名された後、明治6年2月に石鉄(イシヅチ)県と合併して愛媛県喜多郡新谷村となった。
 なお、旧藩主加藤泰令は大洲藩主加藤泰秋と同じ子爵に叙されている。
 新谷陣屋は新谷県庁舎として用いられた後、新谷小学校敷地として提供され大洲市指定史跡となっている。謁見所・評定所だった麟鳳閣〔愛媛県指定文化財〕は小学校講堂や公民館として利用されて現存し、また、藩札の収納・管理場所であった会所の金蔵〔大洲市指定文化財〕も残っている。
 新谷村は昭和29(1954)年、大洲市に併合された。

*城下町伊予大洲
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63991828&comm_id=194642
・新谷藩陣屋跡
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=64216369&comm_id=398257

コメント(4)

7月30日土曜日に行って来ました。

左;JR内子線新谷駅
中;金蔵〔大洲市指定文化財〕
右;金蔵石垣
藩主菩提寺の臨済宗妙心寺派大恩寺にも行ってみましたが、墓所は非公開でした。

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