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城下町コミュの播磨高砂

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 加古川の河口に位置する播磨国高砂は、西暦200年に神功皇后が半島遠征の帰途、鹿子の水門(カコノミナト)に大己貴命(オオナムチノミコト)等を祭る高砂神社を創建したとされる地で、高砂神社には一つの根から雌雄二本の幹を持つ松があり、尉(伊弉諾尊)と姥(伊弉冊尊)の二神が宿る霊松とされ、相生の松と称されて古来歌枕として有名であった。初代相生の松は天禄年間(970〜973)に枯死したが、すぐに二代目が育てられた。
 室町時代に播磨守護赤松氏家臣の杉岡蔵人が高砂神社近くに高砂城を築城し、嘉吉元(1441)年、赤松満祐が6代将軍足利義教を殺害した嘉吉の変の際、杉岡蔵人は満祐の下に馳せ参じて滅亡した。
 文明元(1469)年に赤松氏が播磨守護に復帰すると、初代播磨守護梶原景時の子孫と称する梶原氏が赤松氏の水軍の将として高砂城主となった。織田信長が羽柴秀吉に播磨平定を命じた際、高砂城主梶原景秀は徹底抗戦を貫き、天正6(1578)年、秀吉が別所長治の拠る三木城攻めを開始した際にも、毛利輝元や石山本願寺の支援も受けて頑強に抵抗したが、結局、秀吉の軍門に下って本領を安堵された。この戦乱の際に、二代目相生の松は焼かれてしまった。
 天正8(1580)年、播磨を平定した秀吉の城割り令によって高砂城が破却された後も、梶原景秀は知行を維持していたが、天正15(1587)年の秀吉の九州遠征の際に遅参したため改易されてしまい、備前の宇喜多秀家の下へ寄寓する事となった。
 その後、高砂の地は、加古川城主糟屋武則(賤ヶ岳の七本槍の一人)の所領に加えられたが、武則は慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で西軍に属したため改易され、高砂の地は姫路520000石の領主となった池田輝政の所領となった。
 輝政は、家臣中村主殿助に高砂城再建を命じ、主殿助は高砂神社を移転させて、その地に大規模な近世城郭を築城した。堀を兼ねた運河が掘削されたのみならず、加古川の流路も付け替えられて、河口に大規模な港が築造された。
 だが、元和元(1615)年の一国一城令により、姫路藩主本多忠政は高砂城を破却し、高砂の城下町としての歴史は終焉する事となった。
 この結果、高砂神社が元の場所に戻され、三代目相生の松も植えられる事となった。
 以後、高砂は加古川舟運と瀬戸内海運の結節点の港町として殷賑を極め、姫路藩の御用蔵も設けられた。高砂の大庄屋は代々塩屋甚兵衛を名乗っていたが、北条早雲によって滅ぼされた相模の名族三浦氏の子孫と称していた。
 江戸時代の高砂からは、与謝蕪村と親交のあった俳人田中布舟(1734〜1808)や、幕命で択捉島に埠頭を建設した工楽松右衛門(1743〜1813)等が出ている。
 明治時代には加古郡高砂町となり、昭和29年に周辺町村と合併して市制が施行され、工業都市として発展した。
 なお、三代目相生の松は国の天然記念物に指定されていたが、昭和12(1937)年に枯死し、現在も高砂神社に保存されている。現在の相生の松は五代目である。

コメント(8)

7月29日に行って来ました。

浄土宗西山禅林寺派宝瓶(ホウビョウ)山十輪寺

左;山門〔高砂市指定文化財〕
中;大玄関〔高砂市指定文化財〕
右;小玄関〔高砂市指定文化財〕
十輪寺です。

左;庫裏(クリ)〔高砂市指定文化財〕
中;本堂〔兵庫県指定文化財〕
右;庭園
十輪寺墓地です。

左;高砂城主梶原景秀墓
中;大庄屋三浦(塩屋)氏歴代墓
右;俳人田中布舟墓
十輪寺です。

左;御影堂
中;宝篋印塔(高麗仏) 文禄の役で海難死した93人の水夫の慰霊塔
右;貴僧門〔高砂市指定文化財〕
左;国鉄高砂線高砂駅跡
中・右;高砂城の堀として掘削された堀川
高砂神社〔県社〕 祭神;素盞鳴尊・大己貴命・奇稲田姫

左;一ノ鳥居
中;神門
右;拝殿
高砂神社です。

左;本殿
中;三代目相生の松
右;五代目相生の松
高砂神社です。

左;高砂城跡石碑
中;本殿玉垣 高砂城石垣の石材を利用
右;工楽松右衛門銅像

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