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城下町コミュの名張

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 淀川水系木津川の上流名張川と宇陀川の合流地点である伊賀国名張は、大和国長谷寺から伊勢神宮へ通じる初瀬街道の宿駅として発展した地で、672年の壬申の乱に際しては、大海人皇子が吉野から東国へ逃れる際にも当地を経由している。
 『万葉集』には、持統天皇6(692)年、天皇の伊勢行幸に同行した当麻真人麻呂(タギマノマヒトマロ)の妻が夫の帰りを待ちわびて詠んだ「吾(ワ)がせこは いづく行くらん おきつ藻の 名張の山を 今日かこゆらむ」の歌が収録されており、名張駅前には、この歌を刻んだ万葉歌碑がある。
 神亀2(725)年に大来皇女(オオクノヒメミコ)が父天武天皇の菩提を弔うために昌福寺を建立したとの記録も残り、その跡と推定されるのが夏見廃寺跡《http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=30315356&comm_id=398257》である。
 名張は宇奈根命を祭る延喜式内社の宇流富志弥(ウルフシネ)神社の鎮座する地でもあり、この神社の一ノ鳥居は名張市指定文化財となっている。
奈良時代以後、名張は東大寺の荘園となり、お水取りの際に用いられる薪は当地の木が使われた。
 しかし、鎌倉時代になると、荘園支配に抵抗して自治を求める悪党が跳梁跋扈するようになるが、彼等こそが、いわゆる伊賀忍者の源流となる。
 また、観世流能楽の祖観阿弥(1333〜84)が初めて座を立てたのが、名張市小波田であり、名張駅前には観阿弥の銅像も建っている。
 その後、天正7(1579)年から2年間に及ぶ天正伊賀の乱で織田信長・信雄父子によって名張を含む伊賀地方は焦土と化され、やがて名張は城下町として復興し、江戸時代には宿場町として栄える事となる。
 名張城・名張陣屋については以下を参照。
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=30319248&comm_id=398257

 名張川に沿った初瀬街道沿いには、江戸時代の薬商細川家の支店建物が残る。細川家は大宇陀の薬商で、後の藤沢薬品(現;アステラス製薬)の創業家である。
 名張には寺院も多く、このうち、浄土真宗大谷派富瀬山一心院専称寺の梵鐘は名張市指定文化財となっている。また、名張藤堂家の菩提寺は曹洞宗龍雄山徳蓮院である。
 なお、作家の江戸川乱歩(1894〜1965)は名張出身で、生家跡には石碑が建っている。

コメント(5)

5日水曜日に行って来ました。

左;万葉歌碑
中;細川家支店
右;江戸川乱歩生家跡
左;徳蓮院
中;専称寺
右;平尾山の紅葉
左;宇流富志弥神社一ノ鳥居〔名張市指定文化財〕
中;酒蔵
右;名張川・宇陀川合流地点
 武甕槌命(タケミカヅチノミコト)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・経津主命(フツヌシノミコト)・姫大神(ヒメオオカミ)・五男三女神(ゴナンサンジョノカミ)・伊邪那美神(イザナミノカミ)・天押雲命(アメノオシクモノミコト)・建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)・火之迦具土神(ホノカグツチノカミ)を祭る積田(ツムタ)神社です。
 神護景雲元(767)年に武甕槌命が常陸国鹿島から大和国に遷座される途中で一時鎮座した地なので、春日大社奥宮とされています。11月12日火曜日に訪れました。

左;拝殿
中;本殿
右;名張川一の瀬
 積田神社近くの名張川に架かる宮橋です。増水時には橋板を流出させ、後日ワイヤーを引っ張って戻す「流れ橋」です。

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