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彦根藩主(井伊家各藩の物語)コミュの井伊直政生誕450年

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永禄4年(1561)2月19日、井伊直政が遠江国井伊谷で誕生しました。
つまり2011年2月19日は、直政誕生450年の記念日になります。


晩年は徳川四天王として赤備えの軍団を率いて華々しい生涯を送りますが、その幼少期は決して恵まれた物ではありませんでした。
まずは祖父の直満が今川義元に殺され、そのときに父の井伊直親はまだ幼子だったので、密かに井伊谷を離れて流浪の生活を送ります。
この時に井伊家の当主だった井伊直盛(直満の兄の子)は、いずれ娘の婿に直親を迎えて井伊家の当主にしようと考えて、娘を直親の婚約者としたのです。
ですが、長い逃亡生活の中で直親は奥村親朝の娘を正室としていたのでした。直盛の娘はこれを聞いて出家して次郎法師と名乗ったのです。
しかし、桶狭間の戦いで直盛が戦死。直親が井伊家の当主となります。この翌年に誕生したのが直政でした。

桶狭間の戦いで今川義元が亡くなった後、今川領は大いに混乱しそこに徳川家康が調略の手を伸ばしたので、義元の跡を継いだ今川氏真は疑心暗鬼にかかっていました。
そんなおり、井伊直親も徳川家康に従ったとの噂が流れたのです。直親はこの弁解のために19騎の家臣を連れて井伊谷から駿府に向かいますが、その途中にある掛川城主の朝比奈泰朝によって掛川城下で殺害されてしまったのです。

幼子の直政は、母と共に井伊谷を逃れ、父と同じように流浪の旅に出ることとなりました。
この後に、井伊家の家督を継いだのが、出家した次郎法師で、彼女は還俗し、井伊直虎と名乗り女地頭と呼ばれるようになります。
直虎は、徳川家康の遠江侵攻の影響で井伊谷を失うこととなりますが、直政が徳川家康に臣従するために奔走し井伊家再興を晩年の目標とします。
さて、井伊谷から逃れた直政は、母が松下清景と再婚したために一時松下姓になり、井伊家の相続権を失うこともありました。この松下家は、『太閤記』などで豊臣秀吉が織田信長に仕える前に世話になっていた松下嘉兵衛の一族です。

様々な苦難と井伊家が一時期所領を失うなどの逆境を経て、井伊直政は天正3年(1575)に徳川家康に仕えるようになったのです。
この時の徳川家はすでに戦国大名の一家として多くの家臣を抱えていました。そんな中で直政は15年ほどで徳川家の筆頭重臣へとのし上がって行くのです。

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