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玉那覇有公コミュの幕末と現代との和服の形状の違いについて

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幕末と現代との和服の形状の違いは大きく分けて二つあります。まず、これ幕末と明治に和服の違いを証明する必要あると思います。幕末から明治にかけて、大きな違いは身八ツ口が狭くなったこと。つまり、帯の幅の違いが大きな違いです。これは明治にかけて、女性の社会的進出(当時にしては)と、家庭の補助者からの(多少の)解放、外国文化の流入とファッションの選択の多様化、それに伴った所得が増えたことで、丸帯とか色んな帯を選ぶお洒落な女性がよろしく増えたこととか、おっきいと思います。

それによって、幕末から現代にかけて、さらにそれが深化し、丸帯とかになると身八ツ口とか狭くなり、帯がかなり下の方で、下がる印象がある思います。それが「ややだらしない」という印象をもたれるのでしょうか。次に、布地の違いです。舶来もんは固めの織もん、日本もんは柔らかい織物が大きな特徴です。前者の知識はこんまえ、歌舞伎とか長年松竹芸能の衣裳もんの大親分であった江木良彦さん(珠に仕事でご愛好してもらってます)にちょっと聞く機会ありました。

これ、ちょっと論証してみます。大切な論点は、平安期、公家女性の衣服の変遷がちょうど、幕末、明治そして現代の和服の変遷史とその違いを象徴しています。キーワードは、儀式(立儀式→坐儀式)とその和装の質的変化、外国文化の影響(背子から唐衣もん)と生地の質感の違い(柔い→固い)、地域的特質(寒いか暑いか)、があると思います。

平安期。この時期には、公家女性の衣服は、背子(日本もん)から、唐衣(舶来もんの影響)になってます。それ知識としては、背子は奈良時代から平安時代初期に着用された女子朝服で、衣の上に着た袖なしの短衣です。また唐衣は、十二単いう女房装束の最上層に重ねるもんです。これ、ポイントは、三つです。

まず、一点目。背子の生地は「柔め」であること(源氏物語絵巻の世界を想像してください。)。また、唐衣の生地は「固め」であること。これが日本もんと舶来もんの大きな違いです。次に、平安時代中期以前は身丈の短いもん(背子)でした。その理由は、朝廷の儀式では、前方からの女性の「立ち姿勢の儀式」が中心です。よって、身丈の短いもんが主でした。それが平安時代中期以降、「坐る儀式」が増えたことで、後身頃(和服の袖を除いた後ろの部分で、背中を覆う部分)がロングスカートみたいなもんに代わってます。

つぎに、二点目。当時の女性は人前で顔をさらすのは恥であった理由から、袖の長さに大きな違いがあります。それ、美意識が現われていたこと。そして、袖の長さが長いほど、美を意識する女性の姿が現われていたのではないか。そして、三点目。十二単を代表として、舶来もんの影響のある和装は沢山着るように背子を重ね,重装備な印象があります。ご専門さんによれば,これは地理的な条件が理由と言います。京都は寒い土地であるから京都もんは重ね着していったらしいです。これは検証が必要と思います。以上、これは幕末と現代の和服の形状の違いに大きく影響を与えてると思います。

さらに、これについて、江木さんによれば、二点特徴をあげられました。まず、「衣が大きく、身丈も裾を引く長さとなったこと。それが夜着の袿衣と形が同様となって、衣とも袿ともよばれるようになった」。その結果、その上に重ねて着る背子も、それにしたがって大きくなった。それが、身丈がやや長く、広袖形式で、唐衣と称されて、四季を通じて用いられたいいます(パラフレーズ:言い換えしました)。これは腰に着装する裳とともに正装の象徴のように考えられたもんと一致します。

最後に、生地の特質の合理性を考えてみます。和もんの布地は、あまり伸び縮みしないこと、反物を切る線のほとんどが直線である理由で、布地は柔らかいのではないかと考えております(私見)。その結果、切れやすい糸を使い柔らかい布を損傷する危険を回避する合理性が一点。そして、しなやかで豊満な女性の体をずんどうな布地によって、そっと隠しながらも柔らかい布地でその体を包み込む女性美を実現しているというのが一点。これ、私見です。

色んな資料(和装史百年の資料もん、『日本百年13 行事祝祭図会 明治文献』、京都の西陣さん、東京の蕪しょう庵さんに伺ったり、冊子もろたり、歌磨や梅園の画集とか)とか適当に取り寄せてはぼんやり眺めてました。

これ、もとはここの議論です。「幕末の芸術と文化」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14951970&comment_count=7&comm_id=1786471

コメント(4)

写真:長着の穴の名称です。ご存知の通り、これ1番が身八つ口です。
まず、基本のとこで歴史をおそうと思います。これ、加筆もんです。

いつの時代も流行はたいてい「芸」能界から始めると言う点は、重要と思います。一般に、元禄以降の帯が太く長くなったのは、延宝時代(1673-80)に上村吉弥という女形が舞台で使ったもんが’最初いいます。これに一致するお話と思います。これ、江戸時代は歌舞伎の美の流行いいます。そして遊郭の美(谷崎文学の世界いいますか)の流行というもんもあります。

はて、前者といえば、女歌舞伎、男女歌舞伎が廃止されて、女扮する役者は女もんを表現するために、(骨太の身体を少しでも細く見せるため)帯の幅が太くした言います。で、江戸後期には以前お伝えした通り、「帯幅が狭くなった」にもかかわらず、胸を圧迫するような形でうえのほうにしめたのは、武家の女の影響いいます。それは明治以降、戦前までの山の手の風俗として続いたと。これ、後半はこの前先生さんいうとりました。思うにそれ、芸に生きる女の心意気思います。

さらに、江戸の芸者や水茶屋いうもんは。武家の女が胸高にきちんと帯を結ぶのは、昼間は乳房を目立たせず、女いう性を慇懃から乖離させるという役目あったといいます。雷さんが仰るように、文化文政期時代になって、芸者や水茶屋の女たちが女の妖艶なる身体に沿った良い帯を、負担の無い風に腰に締めて着る方法をとったいうのが当時のファッション形勢の大きな文脈いうのは、たいへんグッドなお話です。また、これ、太鼓結びの一般的な結び方は文化年間に亀戸天神の太鼓橋落成の時に芸者が締めたのを初めとしたもんが定説といいます。さらにいえば、着物の表が渋くなって、その代わり、色街の女たちが女の魅力を風体よく見せる一点の目的から、裾にちらりとみえる長襦袢にちりめんを使い始めたのもこんなんいいます。

またこれ、働く庶民の女が自由なる流行いう文脈で言えば、幕末いうもんは一致すると思います。寺井美奈子(1937-)によれば、雷さんの論考に沿うベクトルで、長い振袖を女の身体にあう程度に細く、そして袖も短くしたのは、先に挙げた江戸芸者や水茶屋の女いいます。江戸後期になると、身体を売る芸者と芸を売る芸者は分化したいいますが、どんなんでしょか。江戸後期、分化文政期は「いき」いわれる文化いいます。着物では、着物の華やかさよりむしろ、着こなしとか、着るもんの内面性に輝くもんという視点が強くなったいいます。

最後に、江戸時代、貝原益軒の『女大学』が女の生活を儒教精神の枠に押し込める力学を示しています。この前後には、元禄以降「地を引きずるような大振袖や胴をしめつける太く重い帯が流行した」という論点があると思います。以下、丸く上記で示した要素を纏めます。

1小袖(前で合わせてひもで結ぶ型)が着物の原型であること。
2現在の着物の形になったのは、江戸時代中期以降(要検証)であること。
3明治以後、戦前までは女の人の多くの普段着は着物(実際の数字は要検証)であったこと。
4また朝鮮の場合、チョゴリから推察すると、腰部を紐で結ぶのではなく,打ち合わせ結びであること。今後の課題として、これはどんなん歴史的な背景があるか。

以上です。議論や研究の前提や先行研究を模索する発端となれば幸いと思います。

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