ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

シュタイナー的生活を楽しむコミュの「夜と霧」にみる「精神の自由」 30週

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
11/1〜11/7 30週
魂の陽光の中で
思考の熟した果実が実る。
すべての感情が
自己意識の確かさを受けとる。

喜びにみちて、私は秋の霊性の
目覚めを感知する。
冬は私の中に
魂の夏をよびさますであろう。
(シュタイナー 高橋 巌訳)
----------

「自由の哲学」の一つのテーマは「認識に限界はあるのか」という

内容であるが、今読んでいる『夜と霧』(V・E・フランクル 池田香代子訳)

も「認識」をテーマにして読むと色々と考えさせられることが多い。

この本は、心理学者である著者フランクルが第二次世界大戦中に、

ナチスによりアウシュヴィッツの強制収容所に入れられていた時の体験について
書いたものだ。

日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万部を超える読者に読み継がれており、
原題は「強制収容所における一心理学者の体験」である。

(以下のサイトにには、アウシュヴィッツにて演奏されるグレツキ作曲「交響曲3番 悲歌のシンフォニー」の動画がある)
http://www.aritearu.com/Influence/Frankl/Frankl.htm

彼はユダヤ人であった。

ただそれだけの理由で、何の罪もないのに、彼の一家は他のユダヤ人と共に逮捕され
アウシュビッツに送られた。

そして、ここで彼の両親、妻、子どもたちは、ガスで殺され、或いは餓死した。

この著書には、人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。

この本を読むと「人間の限界」について考えさせられる。

フランクルは以下のように語っている。

「私たちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった『人間』を知った。

では、この人間とはなにものなのか。

人間とは、人間とは何かを常に決定する存在だ。

人間とはガス室を発明した存在だ。

しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ」(『夜と霧』より)

人間がある事物、ある現象、ある大きな試練に出会ったとき、

そのことへの「認識」のしかたは、様々であり、ガス室でさえ、

祈りの言葉をする高貴な存在でもあるのだ。
 
筆者の収容所生活は以下のようにはじまる。

「そうこうするうちに、列車はかなり大きな駅にすべり込んだ。

貨車の中でおののきながら成り行きを待ち受けていた人々の群れから、

ふいに叫びがあがった。

『駅の看板がある――アウシュヴィッツだ!』
 
この瞬間、だれもかれも、心臓が止まりそうになる。

アウシュヴィッツと聞けばぴんとくるものがあった。

あいまいなだけいっそうおぞましい、

ガス室や焼却炉や大量殺戮をひっくるめたなにか!」(『夜と霧』より)

 
この本の中で心に残っている部分をメモしておこう。

強制収容所へ送られた自分の運命を賜物と「認識」したある若い女性の話である。

この女性は強制収容所で亡くなった。

「これは、私自身が経験した物語だ。

単純でごく短いのに、完成した詩のような趣きがあり、

わたしは心をゆさぶられずにはいられない。

この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。

なのに、じつに晴れやかだった。

『運命に感謝しています。だって、わたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの』

彼女はこのとおりに私に言った。

『以前、なに不自由なく暮らしていたとき、私はすっかり甘やかされて、

精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした』

その彼女が、最後の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。

『あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友達なんです』

彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。

外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。

板敷きの病床の高さにかがむと、病棟の小さな窓からは、

花房をふたつつけた緑の枝が見えた。

『あの木とよくおしゃべりをするんです』

わたしは当惑した。彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。

譫妄(せんもう)状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。

それでわたしは、木も何か言うんですか、とたずねた。

そうだという。

ではなんと?

それに対して、彼女はこう答えたのだ。

『木はこう言うんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、

わたしは命、永遠の命だって・・・・』 」(「夜と霧」より)

この部分を、「自由の哲学」の第7章と照らし合わせて読んでみよう。

私達は、日常生活の中で知覚内容と名づけた時間的空間的に制約された
部分を見出しながら生活している。

しかし、自分の周囲にある「事物」が何かの象徴であることを学んだとき、

人間は初めて物質界から自由になるのである。

例えばスミレの花を見たとする。

その時、自我意識の内部にある「静かで敬虔な心情」と結びついたとき、

スミレのなかに、私は、「静かで敬虔な心情の象徴」をみることができる。

この女性は収容所の病棟の小さな窓から見える一本の「マロニエの木」の中に

「永遠の命」の象徴を実感として見たのである。

「マロニエの木」が「永遠の命」をもっているなら、

このわたしも「永遠の命」を持っていると、木によって勇気づけられたのだ。

そして、開悟の境地にいたり、死の恐怖をも「感謝」の感情に変容することができたのである。

このように、外にある事物と私の自我意識の内部にある宇宙の全体性に関わる概念を

自我意識がひとつに結びつけるとき、そのときはじめて認識衝動は満足するのである。

この女性の認識衝動は満足したのである。

このように、人間は現実の知覚内容と内なる概念を高次の在り方に向けて
統合させていくことができるのである。

さらに、以下の部分にもとても感銘を受けた。

「長らく収容所に入れられている人間の典型的な特徴を心理学の観点から記述し、

精神病理学の立場で解明しようとするこの試みは、

人間の魂は結局、環境によっていやおうなく規定される、

たとえば強制収容所の心理学なら、

収容所生活が特異な社会環境として人間の行動を強制的な型にはめる、
との印象を与えるかもしれない。

しかし、これには異議がありうる。反問もありうる。

では、人間の自由はどこにあるのだ、あたえられた環境条件に対してどうふるまうか
という精神の自由はないのか、と。

人間は、生物学的、心理学的、社会学的と、なんであれさまざまな制約や条件の
産物でしかないというのは本当か、

すなわち、人間は体質や性質や社会的状況がおりなす偶然の産物以外のなにものでもないのか、と」
(『夜と霧』より)

これに対してフランクルは経験をふまえ人間には「ほかのありようがあった」
と述べている。

さきほどの若い女性の例もそうである。

感情の消滅を克服し、感情の暴走を押さえて行動していた人。

通りすがりに思いやりの言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人。

このような人は、収容所において最後に残された「精神の自由」を失わなかったのである。

人は強制収容所にぶち込んで全てを奪うことができるが、

たった一つ、与えられた環境でいかに振る舞うかという、

人間としての最後の自由、「精神の自由」だけは奪えないのである。

この本を読むと人間の「精神の高さ」があふれている。

改めて、人間に「認識の限界があるのか」について考えさせられる。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

シュタイナー的生活を楽しむ 更新情報

シュタイナー的生活を楽しむのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。