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シュタイナー的生活を楽しむコミュの知覚内容としての世界 26週

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10/4〜10/10
ミカエルの情景

大自然よ、母なる生命よ。
私の意志の力があなたを支えます。

この意志の灼熱は
私の霊のいとなみに光をなげかけ
自分で自分が支えられるような
強い自己感情を育てます。
(シュタイナー 高橋 巌訳)

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私にとっての『自由の哲学』(5)
〜第四章 知覚内容としての世界〜素朴実在論・バークレー・カント

『自由の哲学』第四章は「知覚内容としての世界」というテーマで、
さらに深く「知覚内容」と「思考」について考察している。

一見難解であるが、何度も読むと頭が活性化されるようで、
とても思考の訓練になる。

この章も『自由の哲学』の基礎的部分となっているので、
ひたすら文脈にそって理解を深めていきたい。

「思考から概念と理念が生じる。

概念とは何かを言葉で述べることはできない。

言葉は人間が概念を持っているという事実に
注意を向けさせることができるだけである。

誰かが木を見たとき、その人の思考は自分の観察に刺激されて、
その観察対象に観念上の対応物を付け加える。

そして対象とその観念上の対応物とを不可分のものと考える。

観察の視野から対象が消えてしまうと、観念上の対応物だけが後に残る。

そしてこの対応物こそが対象の概念なのである。

われわれが経験を拡げれば拡げる程、われわれの概念の総体も大きくなる。

・・・中略・・・理念は質的には概念と区別されない。

理念とはより豊かな、より飽和した、より包括的な概念であるにすぎない。

ここで特に強調しておきたいのは、私にとっての出発点が思考であり
決して概念や理念ではないということである。

概念と理念は思考によってはじめて獲得される。

それらは思考をあらかじめ前提にしている。

したがって、それ自身に基礎を持ち、他の何者からも規定されないという
思考の本質を、そのまま概念に当てはまることはできない。

(この点で私の立場がヘーゲルと異なっていることをここで
明らかにしておきたい。
ヘーゲルは概念を最初のもの、根源的なものとしている。)

概念を観察の中から取り出すことはできない。

この点は、すでに次の事情からも明らかであろう。

成長する人間は、自分を取り巻く周囲の対象に対応する概念を
後からゆっくりと作り上げていく。

概念はそのようにして観察に付け加えられる。」(『自由の哲学』p73〜74)  

例えば、私が木を見たとき、私の思考は木の観察に刺激されて、

その観察対象に観念上の対応物を付け加える。

そして対象とその観念上の対応物とを不可分のものと考える。

観察の視野から木という対象が消えても観念上の対応物だけが後に残る。

そしてこの対応物こそが対象の概念だというのである。

さらに、概念を観察の中から取り出すことはできない。

概念は思考によって獲得されるのである。

成長する人間は、自分を取り巻く周囲の対象に対応する概念を
後からゆっくりと作り上げていく。

概念はそのようにして観察に付け加えられるのである。 

この部分でシュタイナーが一番強調したいのは、

「思考」の本質というのは、それ自身に基礎を持ち、
他の何者からも規定されないということである。

その意味で概念とは異なるのである。

このことを、シュタイナーは以下のように分かりやすく述べている。

「物音を聞いたとき、まず私はそのための概念を見つけようとする。

物音以上の何かへ私を導くのは、この概念なのだからである。

そもそも物音について何も考えようとしないのなら、

ただその音を聞くことだけで満足してしまうであろう。

けれども考えることによって私はその物音を何かの結果であると理解する。

すなわち、物音の知覚と結果の概念とを結びつける。

そしてその時はじめて私は個々の観察に留まらず、
原因を探求するように促される。

結果の概念が原因を求める。

それから私は、その原因となる対象を探し、山ウズラを見出すのである。

このような原因と結果の概念は決して単なる観察によっては獲得できない。

たとえ同じような観察をどれだけ多く重ねたとしてもである。

観察は思考を求める。

そして思考によってはじめて、或る体験を別の体験と結びつける途が見出せるのである。」
(『自由の哲学』p75)
何か物音を聞いたとき、普通、その物音を何かの結果と理解する。

物音の原因を求めるには、単なる観察をいくら重ねても獲得できない。

観察は思考を求め、思考によって、或る体験を別の体験とを
結びつけるのである。

そして、思考は本質的に観察を超えて先に進もうとする。

「そこで思考そのものから、思考する存在へ考察を移さなければならない。

なぜなら思考はそのような存在を通して観察と結びつけられるのだからである。

概念と観察とが出会い、互いに結び合うのは人間の意識という
舞台においてである。

そしてこう述べることで、この(人間)意識が特徴づけられたことになる。

すなわち意識とは思考と観察の仲介者なのである。

対象を観察するだけなら、対象は外からわれわれに与えられたものとして
現われるが、思考する場合には、人間は自分を能動的な存在にする。

その人は対象を客観と見、自分を思考する主観と見る。

思考を観察するものへ向け、対象意識を持つ一方で、思考を自分自身へ向け、
自分についての意識、つまり自己意識を持つ。

人間の意識は思考する意識である故に、
必然的に自己意識でもなければならない。

なぜなら思考の眼を自分自身の活動に向けるとき、
思考は自分の最も固有の本性である主観を、客観対象として持つのだから。

しかもわれわれは、思考の助けを借りてのみ自分を主観として措定し、
そして自分と対象とを対置させることができる。

だから思考を、単なる主観的な活動であると解することは許されない。

思考は主観と客観の彼方にあって、この二つの概念をすべての他の
概念と同じように作り上げるのである。

思考する主観としてのわれわれが、概念を対象と関係づけるとき、

この関係は単なる主観的なものとは解されない。

この関係を生じさせるのは主観ではなく、思考なのだからである。」
(『自由の哲学』p76-77)
 
この部分は、「思考」は単なる主観的な活動ではないことを述べている。

思考を外的対象に向けられたときが客観で、

思考を自分自身へ向け、思考する意識(自己意識)に向けられたとき
主観となる。

そして、思考は、これらの主観と客観の彼方にありこの二つの概念は
思考によって作り上げられたものである。

だから思考は単なる主観的な活動ではないというのである。

このことにより、思考は無から有を生じさせる、
生産活動であり創造活動であることが強調されるのである。

「人間の二重の本性は、次の点に基づいている。

第一に、人間は思考することによって自分と世界を包摂する。

第二に、人間は思考によって自分を事実と向かい合う個体にする。

そこで次のような問いが生じる。

『それでは一体、これまで観察対象と名づけてきた、
意識の中で思考と出会うところの要素は、
どのような仕方で意識の中へ入ってくるのか』。

この問いに答えるには、われわれの観察領域の中から、
思考によって持ち込まれたすべてを取り除かなければならない。

なぜならわれわれのその時々の意識内容は、常に多様極まりない仕方で
概念と絡み合っているからである。

そこで次のような情景を心に描いてみよう。

完全に発達した人間知性を身につけた存在が無から生じて、
いきなり今、世界と向かい合っているとするのである。

そのような存在が思考活動を行なう以前に見出すところのものが、
純粋観察内容であろう。

その場合、世界はこの存在に対して、色、音、圧力、熱、味、匂い等の知覚内容の、互いに関連を持たない寄せ集めしか示さないであろう。

快、不快の感情もそこには働いているかもしれない。

このような寄せ集めが、思考内容を持たない純粋観察の内容である。

このような観察内容に対して、思考はそのためのきっかけが見出されるや否や
活動を開始しようと待ちかまえている。

そしてそのようなきっかけが見出されることを、経験がすぐに教えてくれる。

思考は一つの観察要素から、別の観察要素へと糸を張りめぐらす。

そして観察要素に対応する概念を結びつけ、
それらをひとつの関連の下にもたらす。

そのようにしてわれわれが耳にする物音を他の観察内容と結びつけ、

その物音を別の観察内容の結果と見なすことができるようになる」
(『自由の哲学』p77〜78)

ここでは、まだ概念となっていない「純粋観察内容」について述べている。

これにより、観察内容と意識する主観との関係が良く理解できる。

「思考活動は、主観的なものではあり得ない。

この点をここで改めて思い起こすならば、

思考を通して生み出されるさまざまな関係づけが、単なる主観的な意味しか持っていない、と信じる必要もなくなる。

上に述べたような直接的に与えられている観察内容と意識する主観との関係を、

思考による省察を通して明らかにしようとするのがこれからの問題である。

そこでこれから私はひとつの言葉を使用しようと思うが、

この言葉は色々に使われているので言葉の使用について、
ここで読者との合意を得ておくことが必要のように思われる。

私は上に述べた直接的な知覚対象を、知覚内容と名づけようと思う。

これは意識的な主観が観察を通して、対象についての知識を得る場合に用いられる言葉である。

したがって、観察の経過ではなく、観察の対象をこう名づけるのである。」
(『自由の哲学』p78〜79)
 
そして、ここから素朴実在論の考え方を検討している。

「素朴な人は、自分の知覚内容を観察するとき、
それが媒介を経ずに直接現われるので、

それを自分からまったく独立したものだと思っている。

そのような人は、樹木を見るとき、その樹木が見える通りの姿で、

それぞれの部分が示す通りの色彩で、今見ているその場所に立っている、と信じている。」(『自由の哲学』p79)
 
このような素朴実在論への批判として、知覚行為なしには、いかなる知覚対象も存在しないと考える見方がある。

知覚内容以外にはいかなる対象もないし、そのような対象を考えることもできないというのである。

このような唯心論的な観念論はバークレー George Berkeley (1685-1753) に始まるといってよい。

バークレーについてシュタイナーは以下のように述べている。

「われわれの知覚内容が主観的な性格を持っているということを認めると、

そもそも何か客観的なものがその根底に存するかどうかも疑問に思えてくる。

例えば、赤い色や特定の音の知覚がわれわれの身体組織の在り方を前提にしなければ不可能だ、ということを知らされるとき、

そのような主観的な身体組織の在り方なしには、
そもそもいかなる知覚対象の存在も存在し得ない、と思わざるを得ないし、

知覚行為そのものなしには、そもそもいかなる知覚対象の存在も考えられない、
と思わざるを得ない。

ジョージ・バークレーは、このような観点の古典的な代表者である。

彼の意見によれば、知覚内容にとっての主観の意味を知った瞬間に、

人はもはや意識する精神なしに存在する世界を信じることなどできなくなる。

彼は述べている。
『いくつかの真理はあまりににも明らかなので、それを見るには眼を開けさえすればよい位である。

そのような真理の一つは以下に示す重要な命題である。

すなわち天上の全合唱、地上に生起するすべて、一言でいえば全宇宙という壮大な構造物のすべては精神の外では決して存在し得ない。

それらの事物は知覚され、認識されることによって成り立っている』」
(『自由の哲学』p81〜82)

バークレーの観点に立てば、知覚されているもの以外はそもそもいかなる知覚内容も存在しないことになる。

誰にも見られていない色、誰にも聞かれていない音はそもそも
存在しないのである。

私の知覚対象はもっぱら私によって存在しているのである。

知覚行為が終われば、それと共に消えていくのである。

私の知覚内容以外にはいかなる対象もないし、そのような対象を考えることもできないのである。

「以上の主張に反対しようとすれば、知覚内容が私の主観の在り方に規定されている、という観点から一旦は離れなければならない。

けれども、どのような知覚機能が知覚内容を生じさせるのかを述べることができれば、この問題は本質的に異なってくる。

その場合には、知覚行為を行なっている間に、
何が知覚内容として生じてくるかを知るであろうし、

知覚される以前の知覚内容の中に何がすでに存在しているのかについても、
答えることができるであろう。
  
これと共に、われわれの考察は知覚の対象から知覚する
主観へ向けられることになる。

私は自分以外の事物を知覚するだけではなく、自分自身をも知覚する。

私自身を知覚する場合、その知覚内容は常に現われては消える知覚像なのではなく、永続する私自身である。

他の知覚内容を持っている間にも、私という知覚内容はいつでも意識の中に立ち現われることができる。

特定の対象の知覚に専念しているとき、私はまずこの対象についての意識だけをもっている。

しかしそれに加えて私自身についての知覚内容も現われる。

その時には、対象について意識するだけではなく、
その対象に向かってそれを観察する私の人格をも意識する。

私は一本の木を見るだけでなく、その木を見ているのが私であるということをも意識する。

私はまた、木を観察しているとき、私の中に何かが生じていることをも意識する。

その木が私の視野から消えてしまっても、私の意識の中にはこの知覚行為の名残として、木の像が残る。

この像は、観察している私の自我と結びついていた。

私の自我はそれによって豊かにされた。

私の自我の内容は新しい要素を自分の中に取り込んだ。

この新しい要素を、私は木についての私の表象と呼ぶ。

私の自我の知覚の中でこの表象を体験しなかったならば、
私は決して表象について語れないであろう。

知覚内容は現われたり消えたりするかもしれない。

私はそれが眼の前を通過するままにしておく。

しかし私が自分の自我を知覚するとき、そしてその自我の内容が
知覚内容と共に変化するのを認めるとき、

はじめて私は対象の観察と私自身の状態の変化とを関連づけて、

そして表象が生じたことに気づかされるである。」(『自由の哲学』p83〜85)

外なる対象の中に色や音を知覚するのと同じ意味で、
表象を自我の中に知覚するのである。

私は、外なる対象を知覚するが、表象をも自我の中に知覚する。

つまり外の事物を知覚しているのが自分であるということをも
知覚するのである。

このようにして、自分が向かい合う対象を外なる世界と呼び、
自分自身の知覚内容を内なる世界と呼んで区別することができる。

シュタイナーは、この内なる表象と外なる対象との関係を誤解することによって
近代の哲学は最大の誤謬に陥ったと述べている。

内なる変化の知覚、自我の変容の経験、が全面に押し出され、
この変化を惹き起こした外なる対象はまったく視界から消されてしまったのである。

そして、以下のような言い方が現れてきた。

「われわれの知覚するものは対象ではなく、われわれの表象にすぎない。

私の観察対象である机そのものについて、私は何も知ることができない。

机を知覚している私自身の中に生じる変化だけしか知ることができない。」
 
シュタイナーは、この考え方とバークレーの立場とを混同してはならないと語っている。

バークレーが主張しているのは知覚内容の主観的性質であって、
表象内容以上のものを知ることはできないとは言っていない。

私が見ている机はバークレーによると、私が眼差しを机に向けなければ
もはや存在しなくなるのである。

私が机を見るのは、神がこの知覚内容を呼び起こすからである。

バークレーは神と人間以外にも現実に存在するものはあるとは考えないのである。

われわれが世界と呼ぶものは、精神の内部に存在しているだけなのだ。

外なる世界、自然物はバークレーにとっては存在していないのである。

バークレーのこの見方に対立するものとして、支配的な影響力を持っているのが
カントの見方である。

カントは世界についての認識をわれわれの表象内容だけに限定している。

「カントがそのような立場をとるのは、
表象以外のところにはどんな事物も存在し得ないと
確信しているからなのではなく、

われわれの認識の在り方からいって、自分の自我の変化についてなら
経験できても、

この変化を惹き起こす事物そのものについては経験できないと
信じているからである。

この見方に立つことができるのは、私が私の表象内容以上のことを知ることができないからであって、この表象内容から独立した存在などどこにもあり得ないからなのではない。

主観はそのような存在を直接受け取ることはできない」
 (『自由の哲学』p86)

即ち、私たちが知覚するのは表象だけであって、
「物自体」について知ることはできないというのである。

「素朴な意識の観点を素朴実在論として退け、自らを批判的観念論と名づけている(カント)、以上に述べた立場の誤りは、

一つの知覚内容だけを表象であると規定しながら、
別の知覚内容を自分が克服したと思っている
当の素朴実在論のやり方で受け容れている点にある。

この立場は知覚内容も表象であることを証明しようとしているが、
素朴なことには、自分自身の生体を知覚するときだけは、

それを客観的に通用する事実であると考えている。

そしてその上何よりもひどいことには、自分がその間に道をつけることのできなかった二つの観察領域を混同していることに気づいていないのである。

批判的観念論が素朴実在論を克服できるのは、素朴実在論的な仕方で自分の生体を客観的に実在するものと仮定できたときだけなのである。

生体という知覚内容も、まったく同じものだと気づいた瞬間に、
この立場は生体を確実な土台として、その上に安住することがもはやできなくなる。

自分の主観的な生体組織をも単なる表象複合体に過ぎないと思わざるを
得なくなる。

しかしそうなってしまえば、知覚された世界内容を精神の機能によって産み出されたものと考えることはできない。

『色彩』という表象は『眼』という表象の変化したものにすぎないことになる。

いわゆる批判的観念論は素朴実在論に寄りかかることなしに、その正しさを
証明することができないのである。

素朴実在論を克服するには、その前提としているものを別の領域で無批判に通用させることが必要なのである

以上の点から次のことが明らかになる。
−批判的観念論は知覚世界に安住したままでは、何を探究しようとも、
自分の立場を証明できないし、知覚内容の客観的性格を否定することもできない。

いずれにしても『知覚された世界は私の表象である』を、
なんら証明を要しない自明の命題として立てることは許されない。」
(『自由の哲学』p94〜p95)
 


素朴な意識の観点を「素朴実在論」として退け、自らを「批判的観念論」と

名づけているカントの立場の誤りは、一つの知覚内容だけを表象であると規定しながら、

別の知覚内容を、自分が克服したと思っている素朴実在論のやり方で受け容れている点にある。

即ち「批判的観念論」は、自分の生体を知覚する生体だけは、素朴実在論になっているのである。

カントは、素朴実在論で自分の生体を、客観的に実在するものと仮定しているのである。

カントの認識論について簡単にまとめると以下のようになる。

彼は、人間の認識は世界の事物を受動的に写し取るのだという
基本的な姿勢を逆転させ、

人間が世界に能動的に働きかけ、認識の対象を自ら作り上げるのだと
発想を転換させた。

これが彼のいう「コペルニクス的転回」というものである。
 
もちろんこれは、神のように人間がすべての外界を無から創造するという意味ではない。

外界から感覚器官(感性)を通してデータが入ってくる。
しかしそれは混乱した雑多の情報である。

人間は生まれながらに備わっている理性の働き、形式を使ってこれを整理し、
秩序を与えるこうした対象が初めてできあがるというのである。

例えばコスモスを見たとしよう。

まず、最初に目に入ってくるのはピンク色であったり、花の形である、
それらのデータを構成し直して、コスモスというものとして認識するのである。

人間に先天的に備わった、諸情報を形式に沿って構成し直す、
そのような「内容をもたない形式」をカントは範疇(カテゴリー)呼んでいる。

まず、外界の事物がある。
外界の事物を人間は、目、耳、鼻、口など感覚器官を通して、そのもののデータを受け取る。

そしてそれを組み立てて一つの「表象」を作り上げるというのである。

そして、その表象、観念を組み立てる際に
いわば癖(傾向)があるというのである。

それがカントによれば、「時間」「空間」「因果律」・・・などなのである。

人間が、「いつ」「どこで」「なぜ」と考えるかというと、そういう癖(傾向)があるからである。

カントの批判的観念論は観察の対象に関しては、表象のみで物自体は知ることができないといいつつ、
自分自身の生体(目、耳、鼻、口など)を知覚するときは素朴実在論になっているのである。

「批判的観念論は知覚内容と表象との関係について、まったく見通しのきかないところに立っている。

八三頁以下に述べておいたが、知覚行為を行うときはじめて知覚内容として
生じてくるものと、それが知覚される以前にそこに、存在していなければならないものとの区別を、この立場はつけることができない。

したがってこの区別をつけるためには、別な道を辿らねばならない。」(『自由の哲学』p96)

批判的観念論を克服するには、知覚行為を行ったとき知覚内容として生じてくるものと、
その事物が知覚される以前に存在していなければならないものとの
区別をしなければならないのである。

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