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ゴスペルハウスコミュの「トマス」2022.04.30

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ゴスペルハウスメッセージ 2022.04.30
「トマス」ヨハネ20:24-29

24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

今週の聖書箇所は、先週の続きです。
「十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」(24節)と書かれているトマスを通して、御言葉を開いていきましょう。

トマスというと、懐疑主義者とか、疑り深いとか、見なきゃ信じない人とか、ネガティブなイメージがある方も多いでしょう。
トマスは、イエスさまが選んだ十二弟子の一人です。
4つの福音書と使徒行伝にその名が記されていますが、ヨハネの福音書以外は、ただ名前が十二弟子の一人ということで記されているだけです。

イエスさまが復活したその日に、トマスが、どこで何をしていたのか、聖書は記していません。
トマスの言葉を記しているヨハネの福音書を開きながら、トマスがあの日、どこで何をしていたかを推測しましょう。

「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(ヨハネ11:16)
ヨハネの福音書に記されている、トマスの最初の言葉です。
エルサレムに近いベタニアのラザロのところへ、死んでしまったラザロのところへ、イエスさまは向かおうとしています。
しかし、エルサレムには、イエスさまを殺そうと手ぐすね引いて待っている人たちがいるのです。
イエスさまは、それをわかった上で、なおもベタニアへ行こうというのです。
トマスのこの言葉は、覚悟を決めたイエスさまへのエールでもあり、他の弟子たちへの激励でもある、熱い言葉なのです。
トマスは、熱い男、熱血漢なのです。
現代日本でいえば、松岡修造さんのような、ものすごいアツさなのです。
イエスさまへの復活の日に、鍵をかけた部屋で、くすぶっているはずもありません。

「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14:5)
ヨハネの福音書に記されている、トマスの第二の言葉です。
イエスさまは、惜別説教の中で、こう言いました。
「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」(14:4)
「あなたがたは知っています。」とイエスさまが言うのに、「私たちには分かりません。」と答えたのです。
トマスは、「分かりません」が言える男だったのです。

学生の頃を思い出してください。
先生が「ここは皆さんわかっていますね。」といった時に、手を挙げて「分かりません」と、あなたは言えましたか。
授業妨害目的ではなく、もし言えたとすると、あなたはクラスの中で中上位以上の成績だったはずです。
でないと、自信を持って言うことができません。

トマスは、自分がわかっていないことを恥じずに、「分かりません」と言えたのです。
知ったかぶりすることなく、真実を、真理を、本当のことを、追い求める男なのです。
それは、いい意味での謙遜でもあるでしょう。
彼のその探究が、イエスさまの次の言葉を引き出しました。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(14:6)

熱い男で、なおかつ真実を求め続ける男。
知らないことをそのままにできない熱血漢。
それがトマスなのです。
四字熟語にすれば、「熱血探究」です(「松岡修造」でもいいのですが)。

あの日、イエスさまがよみがえったと知ったあの日、熱血探究なトマスが何をしていたのか、聖書は記していませんが、推測できる一つの結論があります。

そう、トマスは、復活したイエスさまを見つけるために、駆けずり回っていたはずです。
イエスさまを葬った墓に行き、街中をさがし、大声で叫び求め、ゴルゴタの丘も、神殿も、城門もさがしたことでしょう。
あるいは、エマオの村まで全力疾走で行ったかもしれません。
さがしうる限りを尽くして、でも出会うことができなくて、ヘトヘトになって弟子たちのところへ帰ってきたトマスに、弟子たちが言うのです。
「私たちは主を見た」(25節)
「そんなバカな!私が一生懸命さがし続けたのに、イエスさまは見つからなかったんだ。ユダヤ人を恐れて隠れている人たちに先にイエスさまが現れるなんて!」と、トマスは思ったでしょう。
そこで出てきた言葉が、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(25節)だったのです。
ただ疑り深いのではなく、疲労困憊の中、混乱と困惑の中、トマスからこぼれてしまった言葉なのです。

そんなトマスのために、イエスさまは、八日後に再び弟子たちのところに現れます。
それは、熱血探究のトマスに、彼の最大の仕事、「道・真理・いのち」以上の大仕事をなさせるためです。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)
これは、叱責の言葉ではありません。
イエスさまの言葉は、天地創造をした神様の言葉です。
「光、あれ。」(創世記1:3)と同じように、生み出す言葉なのです。
「あなたは信じる者になりなさいよ」という命令ではなく、「あなたは信じる者になります」という宣言なのです。

その結果、トマスは、こう言います。
「私の主、私の神よ。」(28節)
地上でのイエスさまに対して直接、「神」と呼びかけたのは、聖書中でトマスただ一人です。
ユダヤ人が、創造主なるただ一人の神様以外を、「神」と呼ぶことは、とてつもなく大きなことです。
現代の日本人のように、やたらと神様がいるわけではありません。
しかし、トマスが、「イエスさまは神である」という、真実の扉を押し開けたのです。
それで今、私たちはイエスさまを「神」と言うことができるのです。

さらに、イエスさまはトマスに言いました。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(29節)
これも、イエスさまはトマスを叱っていません。
「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」(ヨハネ6:40)とあるように、見て信じたらいいのです。
それが、父なる神さまのみこころだったのです。
トマスの熱さが、真理を探究する姿勢が、「見ないで信じる」ことで救われるという、未来への救いのリレーを可能にしたのです。
イエスさまは、この後まもなく昇天し、見て信じることができなくなってしまうからです。
「見ないで信じる人たち」と、複数形になっているのも、トマス個人のことではないということを表しています。
トマスは「見ないで信じて救われる」という、扉までこじ開けたのです。

あの日、復活のあの日、トマスがいないときにイエスさまが弟子たちのもとへ来たのは、トマスによって二つの扉を開かせるためです。
イエスさまは、トマスの個性を認め、用いたのです。
トマスは、疑り深い者ではなく、熱く、真理を求め続け、二つの扉を開けたのです。

あなたも、他の人からの評価や自己評価で、無力感に押しつぶされる時があるかもしれません。
しかし、イエスさまはトマスの個性を用いたように、あなたの個性を認めて、用いるのです。
あなたは、トマスのように、聖書に記されることはないでしょう。
でも、あなたにしか開けられない扉を、イエスさまはあなたに開かせたいと願っているのです。

あなたには、あなたにしかできない、神様からの使命があります。
人から言われるものではなく、あなたが勝手に思いこんでいるものでもなく、神様のみこころです。
神様があなたのために用意している扉です。
あなたの人生に与えられる使命に、あなたが押し開ける扉に、期待しましょう。

あなたのためにお祈りします。


【参考聖書箇所】
ヨハネ 11:14-16
14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。
15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」

ヨハネ 14:4-6
4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

ヨハネ 6:38-40
38 わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。
39 わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

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