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ゴスペルハウスコミュの「史上最強のフリクラ」2021.06.26

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ゴスペルハウスメッセージ 2021.06.26
「史上最強のフリクラ」マルコ10:41-45

35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」

41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」

今週の聖書箇所は、マタイの福音書第20章にも記されているできごとです。
十二使徒のヤコブとヨハネの兄弟が、母親とともに来て、天国のナンバー2,3の地位をイエスさまに願いました。

さて、今週のテーマは、「史上最強のフリクラ」です。
史上最強のフリクラと聞いても、なんのことだかわからない人も多いと思うので、説明します。
将棋の名人のタイトルは、順位戦を勝ち抜いた棋士が名人に挑戦できます。
順位戦には、組(クラス)が分かれていて、上から、A級(10人)、B級1組(13人)、B級2組、C級1組、C級2組と構成されています。
各組ごとに対戦を行い、その順位によって昇級や降級がなされます。
A級の1位の棋士が、名人への挑戦権を得るのです。
そして、C級2組から降級することになった棋士は、フリークラス(略してフリクラ)となり、一定の基準を10年以内に満たせばC級2組に復帰できますが、そうでないと、引退になります。

それとは別に、B級1組以下の棋士が、自ら宣言してフリークラスになることもあります。
宣言してのフリークラスは、復帰することができません。
この宣言してフリークラスになった棋士に、森内俊之九段(十八世名人)がいます。
彼は、フリークラスなのに、昨年〜今年、羽生善治九段(国民栄誉賞)や藤井聡太二冠にも勝利するなど、強さを見せています。
その森内九段が、一部ファンの中では「史上最強のフリクラ」と呼ばれているのです。

順位戦は、成績が振るわなければ棋士として引退を余儀なくされる、厳しい戦いです。
また、はっきりとした組分けの序列があり、一つでも上の組に行けるよう、全力で戦います。
森内九段は、その順位戦から離れ、将棋の普及や後進育成などにも力を入れています。

さあ、聖書に戻りましょう。
ヤコブとヨハネは、つまり、十二使徒の中で、自分たちだけのA級入りを願ったのです。
それで、他の十人が怒ったのです。
そこでイエスさまは、こう言いました。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」(43節)

この言葉を、謙遜のすすめや、自分を低くすることが大切であると、考える人もいます。
しかし、イエスさまは、自分を低くすることはありませんでした。
むやみに謙遜になることも、また卑屈になることもありませんでした。
イエスさまの話を聞いた人たちは、権威ある言葉に驚いたのです。
ただ一つ、神様が人になって、十字架の上ですべての罪と呪いを受けて死ぬ、という究極の謙遜以外は、イエスさまは神様のひとり子として、凛と生きていたのです。
さらに、横柄な振る舞いや、権力や権威をかざして人々を従わせることもありませんでした。

では、イエスさまは一体、順位戦では何級何組でしょう。
イエスさまは、完全なる神様であり、完全なる人です。
神様としてのイエスさまは、もちろん、名人位ですね。
そして、人としてのイエスさまは、そう、フリクラです。
第一コリント第13章4-6節にこうあります。
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。

この愛の部分が、まさにイエスさまの性質です。
イエスさまは寛容であり、イエスさまは親切です。また人をねたみません。イエスさまは自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、 不正を喜ばずに、真理を喜びます。

誇らず、驕らず、高ぶらず、人に押し付けず、圧力をかけず、卑屈にならず、自由であるのです。
史上最強のフリクラは、イエスさまのためにある言葉でもあるのです。
人としてのイエスさまに倣う者としてクリスチャンがいるなら、あなたもフリクラであるべきです。
そして、人を通してではなく、教会組織を通してではなく、神様とあなたが直結するのです。

フリクラ視点で聖書を読むと、新しい気付きが与えられます。
マタイ第18章1-5節に、こうあります。
1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。

子どもは、どのクラスにも属せません。
ただ神様だけを見上げなさい。

第1コリント第9章19-23節です。
19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。
20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちには──私自身は律法の下にはいませんが──律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。
21 律法を持たない人たちには──私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですが──律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。
22 弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。
23 私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。

だれの上位とか下位とか、関係ありません。
何者にでもなっていられる、自由を得るのです。

その他にも、マタイ20:1-16、第1コリント7:21-24、第2コリント6:3-10など、フリクラであれば、しっかりと御心が見えるでしょう。

一方で、クリスチャンになっても、神様信じても、イエスさまとともに歩んでも、フリクラになれない人たちもいます。
人の作った階層や権威や正しさに、こだわり続ける人たちがいます。
そんなあなたに、聖書はこう言うのです。
「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2)
この世の調子、それは、神様抜きの調子、愛抜きの調子です。
そんな秩序は、無意味です。

あなたが、この世の調子でがんじがらめの正しい人になっているときに、サタンは巧みに自分のクラス、自分の順位戦を作っているのです。
「また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。」(黙示録3:16)
すべての者、小さくても大きくても、富んでいても貧しくても、自由でも奴隷でも、だれでも構わず、サタンは刻印を与えようとしているのです。
あなたが、この世の調子に合わせるなら、あなたが、他人と比べて生きるなら、獣の刻印があなたに刻まれてしまいます。

他の人と比べるのをやめましょう。
神様の前でフリクラになって、神様に直結して、水入らずの愛をたっぷりと味わいましょう。
この世の基準も権威も、フリクラになったあなたを縛ることはできません。
あなたは、イエスさまの足あとに従って、史上最強のフリクラになれるのです。

いえ、自由(フリクラ)にされたクリスチャンですから、フリクリ。
そう、「史上最強のフリクリ」です。
「史上最強のフリクリ」、これが、あなたに与えられる称号であり、いのちなのです。



【参考聖書箇所】

マタイ20:1-16
1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

第1コリント7:21-24
21 あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。
22 主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
23 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。
24 兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。

第2コリント6:3-10
3 私たちは、この務めがそしられないように、どんなことにおいても決してつまずきを与えず、
4 むしろ、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しています。すなわち、苦難にも苦悩にも困難にも、
5 むち打ちにも入獄にも騒乱にも、疲れ果てた時も眠れない時も食べられない時も、大いなる忍耐を働かせて、
6 また、純潔と知識、寛容と親切、聖霊と偽りのない愛、
7 真理のことばと神の力により、また左右の手にある義の武器によって、
8 また、ほめられたりそしられたり、悪評を受けたり好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
9 人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、
10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。

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