ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

ゴスペルハウスコミュの「十字架上のイエスさまの言葉 -2-」2023.03.04

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
ゴスペルハウスメッセージ 2023.03.04
「十字架上のイエスさまの言葉 -2-」ルカ23:39-43

39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

今週の聖書箇所は、十字架上のイエスさまの二つ目の言葉です。
クリスチャンは、イエスさまの十字架によって罪赦され、神様の御国への切符を約束された者ですから、第一号クリスチャンの誕生の場面でもあります。
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)は、そういうわけで、約束の言葉とも言われます。

イエスさまは、二人の犯罪人とともに十字架にかけられました。
三本の十字架のうち、真ん中がイエスさまで、両側に犯罪人がいたことになります。
十字架は、死刑です。
十字架につけられる者は、死ななければならないほどの罪を犯した者ということです。
旧約聖書には、「死ななければならない」と何箇所にも死刑が規定されていますが、ローマの支配下にあるユダヤでは、聖書の定めによる死刑はなされません。
ですから、宗教的な理由の死刑ではなく、ローマの方に則っての死刑ということになります。
殺人や強盗をするとか、ローマの体制に対して反逆するとか、大きな罪を犯したということです。
「だれかに誘われて、ちょっと出来心で」というレベルではないのです。
死刑以外にも、それよりも軽い刑罰はいくつもあったわけですから。

二人の犯罪人は、大きな悪いこと、死刑になるほど目立った悪いことをした人だったのです。
本人たちも、その悪さの大きさ、自分の行いの大きさをわかっていますし、どこかで誇っていたことでしょう。
そんな二人の真ん中に、何も悪いことをしていないイエスさまが、無実の罪で、いっしょに十字架につけられているのです。

十字架に太い釘で打ち付けられた時点で、もう、死刑は始まっています。
そして、死ぬまで、十字架から降ろされることはありません。
朝から夕方まで、半日かけて死んでいくのです。
それまでに死ななかったら、とどめを刺されるのです。
引き返すことのできない死が、もう、三人に始まっていたのです。
苦しく、痛く、辛い、死への半日、そのカウントダウンの中にいるのです。

一人の犯罪人は、それでも、今までの悪さの自分を捨てられず、イエスさまを責めることで、まるで、自分自身を、その悪さを、誇っているような姿です。
どんなに悪ぶったって、どんなに威張ったって、これから半日かけて惨めな姿で死ぬ以外はないのです。
なのに、彼は自分の過去を、自分の起こしたことの大きさを、自分のなした悪を、自分の支えにしているのです。
そうしたところで、惨めさは何一つ、軽減されることもないのにです。

もう一人も、逮捕されるまでは、同じように生きてきました。
十字架につくまでは、同じように考えていました。
聖書には記されていませんが、きっと、そうでしょう。
イエスさまの三年間の伝道の公生涯と同じ時期に生きていても、その言葉を聞こうとも、受け入れようともしなかったのです。
なぜなら、自分の力、自分の行動力、自分の悪さが、彼の人生の支えだったのですから。
でも、十字架につけられて、釘を打たれて、引き返せない死を自分のものとして、すでに死んでいるものと同じようになった時、彼は何もかもを失った自分を見つけたのです。
自分の力、自分の行動力、自分の悪さの、無力なこと、無意味なこと、無価値なことに、直面したのです。
このまま、滅びるだけの自分を理解したとき、せめて思い出の中にだけでもと、イエスさまに願ったのです。
「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)

自分の誇りとしていたこと、自慢していたこと、支えにしていたことをすべて失ったときに、やっと、イエスさまと自分との関係を、イエスさまの存在を、イエスさまの正しさを、見つけることができたのです。
十字架につけられて、引き返せない死に向かって、いわば死んで、初めてわかった自分と神様、自分と天国、だったのです。

私も、自分のすべてに絶望して、生きるエネルギーを失って、自殺をしようとして失敗して、初めてイエスさまと出会うことができました。
それまでの、自分の力や能力に頼っていたときには、神様を裏切っていることにも、人を傷つけていることにも、なんの呵責もなかったのです。
自分の人生は、自分が支えきれると、過信していた、錯覚していたのです。

「もうちょっと早く気がついて反省していたら、違う人生になったのに」と、考えることもあります。
それは、私自身のことでも、この十字架の犯罪人のことでもあります。

しかしイエスさまは、そんな愚かな犯罪人に、やっと気がついた犯罪人に、こう言うのです。
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)
救いの約束を、しかも、即座の約束を、イエスさまはくれたのです。

人は、様々な形で、様々なきっかけで、教会や聖書に出会います。
その人たちの中には、自分の力、自分の財産、自分の誇りを、すべて捨てたときに、初めてイエスさまに出会う人もいます。
彼は、何もかも失って、初めて本当の自分の価値を知るのです。
クリスチャン第一号のこの犯罪人もそうでしたし、私もそうでした。
そして今、孤独と無力感の中にいるあなたも、そうなのです。

神様は、あなたの、その絶望的な孤独や無力感に気が付かない方ではありません。
そして、それを見放す方でも、見捨てたりする方でも、決してないのです。

十字架につく前に、この犯罪人は、何一つイエスさまに対して、神様に対して、いいことをしていません。
十字架の後には、もう死んでいるのですから、何もできません。
彼にできたことは、絶対的な無力と喪失を味わい、すべてを失って、そこで虚勢を張らずに、イエスさまに助けを求めただけです。
そんな、教会にも宣教にも伝道にも、まったく役に立たない無価値といってもいい者を、イエスさまは、愛し、赦し、第一号のクリスチャンにしたのです。
いっしょにパラダイスにいると約束したのです。

この愛は今、あなたに注がれている愛です。
何ができてもできなくても、揺るぎない愛は、あなたに注がれているのです。
さあ、愛されている者として、生きましょう。
イエスさまといっしょに、生きましょう。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

ゴスペルハウス 更新情報

ゴスペルハウスのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング