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ゴスペルハウスコミュの「パリサイ人と取税人のたとえ」 2022.02.27

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ゴスペルハウスメッセージ 2022.02.27
「パリサイ人と取税人のたとえ」ルカ18:9-14

9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

今週の聖書箇所は、パリサイ人と取税人の二人の祈りのたとえです。

パリサイ人は、イエスさまにいつも対立していた人々です。
彼らのことを一言で言い表すなら、律法主義の人たちと言えましょう。
神様が人間に与えた律法を守ることを大切にしている人たちです。
律法を守ることは、もちろん悪いことではありません。
ただ、人間にはそれは無理なのです。
だれ一人、律法の要求する基準を満たすことができなかったために、イエスさまが十字架にかかって、身代わりになったのです。
パリサイ人も、もちろん律法を守り切ることはできません。
では、律法を守ることを大切にしている彼らは、どうしたらいいでしょう。
彼らにできることは、律法を守ることができないことを、隠すか、ごまかすしかありません。

取税人は、ユダヤ人の中にあって、嫌われ者でした。
当時のユダヤは、ローマに支配されていたので、ローマへ税金を収める必要がありました。
ユダヤ人から税金を徴収し、ローマに収める役割を担ったのが取税人です。
神様の民のユダヤ人であるのに、ローマ皇帝に従い、税金を徴収する取税人です。
ときには、不正な徴収をして、私腹を肥やすこともある取税人です。
ユダヤ人から、「強盗・人殺し・取税人」と並び称されるほどの嫌われ者でした。

こんな二人が、宮で祈ったのです。

パリサイ人は、通常、必要以上に大きな声で祈るそうです。
しかし、ここでは、「心の中でこんな祈りをした。」(11節)とあります。
口語訳聖書では「ひとりで」、英語の聖書には、「with himself(自分自身と)」「to himself(自分自身に)」「by himself(自分自身で)」などとあります。
いずれにしても、彼は一人で、自分自身だけで祈ったのです。
そう、彼は、神様抜きで、祈ったのです。
しかもその内容は、他人をこき下ろすことで、自分が潔白であるかのように主張するものでした。

淡い灰色の四角い紙を2枚用意します。
このうちの1枚を黒い紙の上に置くと、その灰色は白っぽく見えます。
もう1枚を、白い紙の上に置くと、今度は逆に、その灰色は黒っぽく見えるのです。
もともとは同じ灰色なのに、違って見えるのです。目の錯覚ですね。
パリサイ人は、周りにいる人たちを「黒」「黒」「黒」と断罪していくことで、自分自身の白さ(聖さ)を認めさせようとしました。

実際は、自分自身も薄汚れているのに、律法を守り切ることもできないのに、他人をこき下ろすことで、比較して自分自身が上位であろうとしたのです。
自分ができていることだけを誇示して、自分自身を励まし、ごまかし、自分自身にごまかされているのです。

取税人は、自他ともに求める汚れた存在です。
ですから彼は、「遠く離れて立ち」(13節)ました。
神様の前に出る資格がないからです。
ですから彼は、「目を天に向けようともせず」(13節)にいました。
神様に顔向けすることができないからです。
ですから彼は、「自分の胸をたたいて」(13節)いました。
自分自身の汚れによって、強い悲しみの中にあったからです。

そして、『神様、罪人の私をあわれんでください。』(13節)と祈ったのです。
彼は、「神様、私の罪を赦してください」とは祈りませんでした。
この二つの違いがわかりますか。
それは「人に優しくしましょう」と、「優しい人になりましょう」の違いと同じです。
前者は、行為・行動についてです。
それに対して後者は、存在・あり方についてです。
行為や行動は、変えることが少し容易ですが、存在位・あり方は、変えることは困難です。

取税人は、顔向けできないような存在として、深い悲しみをもって、神様にあわれみを求めました。
あわれみとは、正しさではなく、愛です。
裁きではなく、赦しです。
正しさにも、裁きにも耐えることができないから、そんな汚れた存在。
徹底的な神様の聖さの前に、言い訳できない自分自身に、絶望する姿。
それは、真っ白の紙の上に置かれた灰色の紙のように、際立った汚れです。

この二人のうち、神様に義と認められたのは、取税人でした。
その秘訣は、取税人が謙遜だったからではありません。
高慢でなかったからでもありません。

それは、イエスさまが語ったからです。
ここに、救い主・イエスさまがいるからです。
そうでなかったら、二人ともに失格です。
律法を完全に履行できる人間は、一人もいないのですから。

世界初のクリスチャンはだれでしたか、覚えていますか。
それは、ルカ福音書23章39-43節に記されています。

39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

この二人の罪人の姿は、パリサイ人と取税人の姿そのものです。

あなたが、神様の徹底的な聖さに照らされ、自分自身の罪を、いえ、罪人である自分自身を認めて、神様にあわれみを求めるなら、神様は、イエスさまの十字架によって、あなたを義と認めるのです。
ヨハネの第一の手紙1章8-10節にこうあります。

8 もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
10 もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

ヨハネは、イエスさまを「神のことば」と表現しました。
そう、あなたが罪がないと言うのなら、あなたのうちに、あなたの生涯に、イエスさまはいないのです。

自分自身の汚れをごまかして、自分自身に祈り、ニセモノの神になって生きますか。
それとも、神様に顔向けできないほどの罪人である自分を認めて、赦された人として生きますか。
あなたの祈りは、だれに向けられた祈りですか。

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