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ゴスペルハウスコミュの「無理筋なとりなし」 2022.02.12

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ゴスペルハウスメッセージ 2022.02.12
「無理筋なとりなし」創世記18:23-33

23 アブラハムは近づいて言った。「あなたは本当に、正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか。
24 もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません。あなたは本当に彼らを滅ぼし尽くされるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにならないのですか。
25 正しい者を悪い者とともに殺し、そのため正しい者と悪い者が同じようになる、というようなことを、あなたがなさることは絶対にありません。そんなことは絶対にあり得ないことです。全地をさばくお方は、公正を行うべきではありませんか。」
26 主は言われた。「もしソドムで、わたしが正しい者を五十人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。」
27 アブラハムは答えた。「ご覧ください。私はちりや灰にすぎませんが、あえて、わが主に申し上げます。
28 もしかすると、五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町のすべてを滅ぼされるのでしょうか。」主は言われた。「いや、滅ぼしはしない。もし、そこに四十五人を見つけたら。」
29 彼は再び尋ねて言った。「もしかすると、そこに見つかるのは四十人かもしれません。」すると言われた。「そうはしない。その四十人のゆえに。」
30 また彼は言った。「わが主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは三十人かもしれません。」すると言われた。「そうはしない。もし、そこに三十人を見つけたら。」
31 彼は言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、そこに見つかるのは二十人かもしれません。」すると言われた。「滅ぼしはしない。その二十人のゆえに。」
32 また彼は言った。「わが主よ。どうかお怒りにならないで、もう一度だけ私に言わせてください。もしかすると、そこに見つかるのは十人かもしれません。」すると言われた。「滅ぼしはしない。その十人のゆえに。」
33 主は、アブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の家へ帰って行った。

創世記第18章は、「主は、マムレの樫の木のところで、アブラハムに現れた。」(1節)から始まります。
今週はここから、「無理筋なとりなし」というテーマで、御言葉を開きましょう。

今週の聖書箇所は、創世記第18章の後半です。
ここまでのこの章の内容は、次のとおりになります。
・アブラハムは神様たちをもてなし、食事をともにしました。
・約束の子の誕生、生まれるはずのない子の誕生を、神様は予告し、名前も決めました。
・ソドムとゴモラの罪の大きさと、裁きによる滅びを、神様はアブラハムに告げました。

神様は、アブラハムを、ソドムとゴモラに対するとりなし手として、人間の罪に対するとりなし手として選び、立たせたのです。
ソドムには、アブラハムの甥っ子のロトが住んでいます。
ともに故郷を旅立ち、先日まで一緒に旅も生活もしていた、ロトです。
アブラハムは、ロトのため、ソドムのため、神様へのとりなしを始めました。

「神様は、罪人と正しい人を十把一絡げにされるような方ではないでしょう。町の中に50人の正しい人がいたら、その町をお赦しになりますよね。」
神様は答えます。「ああ、その50人のために赦そう。」

アブラハムのとりなしは、アブラハムの神様への願いは、聞き遂げられました。
めでたし、めでたし・・・ではありません。
ここから、アブラハムの交渉が始まります。
「50人に5人足りないかも。」「ああ、赦そう。」
「40人しかいないかも。」「ああ、赦そう。」
「30人しかいないかも。」「ああ、赦そう。」
「20人しかいないかも。」「ああ、赦そう。」
「10人しかいないかも。」「ああ、赦そう。」
神様は、アブラハムの願いを、とりなしを、すっかり聞き遂げ、去って行きました。

神様に願うこと、神様に誓願することは、とても大切なこと、重要なことです。
偽りや軽率な願いは、聖書では良しとされません。
誓ったことは、願ったことは、簡単に変更してはいけないのです。
そして、誓ったことは速やかに果たす必要もあります。
レビ記19:12、民数記30:2、申命記23:21・23、詩篇15:4、など、多くの箇所で聖書はそう記します。

アブラハムは、神様への願いを変え続け、赦しの条件を変え続け、5回も条件を緩めさせました。
まさに、無理筋なとりなしです。
しかも、10人でやめてしまうあたりは、中途半端な印象もあります。
せっかくなら、ロト1人までとか、0人までとか、徹底したとりなしもあったはずです。

さてここで、無理筋なとりなし手のアブラハムの特徴を、まとめてみましょう。
・彼は、神様とともに食事をする、神様と親しい関係をもっていました。
・生まれるはずのない子どもの約束と、その事実がありました。
・滅ぼされなければならない者のための、無理筋なとりなし、赦しがありました。

「神様との親しい関係」「生まれるはずのない子ども」「滅びる者のためのとりなし手」、これがアブラハムの姿です。
もう、ピンときましたね。
そう、これは、イエスさまの姿です。
ここでアブラハムは、イエスさまの救いの雛形として、神様に立てられたのです。

イエスさまは、神様のひとり子、神様ととても親しい関係にありました。
イエスさまは、生まれるはずのない子どもでした。
処女マリアが、聖霊によって身ごもり、イエスさまは生まれたのです。
そしてまた、イエスさまは、無理筋なとりなし手でもありました。
ルカ福音書第13章6-9節のたとえばなしを読んでみましょう

6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

このぶどう園の番人が、イエスさまです。
「 罪の報酬は死です。」(ローマ6:23前半)という事実の前に、イエスさまは、無理筋なとりなしをしたのです。
しかも、アブラハムのような中途半端なとりなしではなく、イエスさまのとりなしは、徹底した無理筋のとりなしでした。
「私が身代わりに死ぬから、すべての人を赦してくれ」というのです。
「正しい人が0人でも、私のいのちを差し出すから」というのです。
その結果、「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23後半)を得たのです。

聖書の主題は、「イエス・キリスト」です、「神様の愛」です、「十字架の救い」です。
そして、「無理筋なとりなし」なのです。

この無理筋なとりなしは、あなたに無関係ではありません。
無関係ではいられないのです。
イエスさまのとりなしは、徹底的な無理筋なとりなしだから、1人も漏らすことのない無理筋なとりなしだからです。

ソドムとゴモラは、滅ぼされました。
10人の正しい人がいなかったからです。
中途半端な無理筋なとりなしだったからです。

しかしあなたは、決して滅ぼされることはありません。
決して見捨てられることはありません。
徹底的な無理筋なとりなしが、あなたのために、なされたからです。

この愛の中に、無理筋なとりなしの中に、今日も生かされましょう。

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