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ゴスペルハウスコミュの「あなたが生きる時代」

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ゴスペルハウスメッセージ 2021.09.26
「あなたが生きる時代」ガラテヤ3:23-29

23 信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
24 こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
25 しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
26 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
28 ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。
29 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

聖書に親しんでいる皆さんは、聖書について知っていることも多いでしょう。
今週は、聖書を「数量」に着目して、神様の愛を味わってまいりましょう。

聖書は、旧約聖書と新約聖書からなっています。
ご存知の通り、旧約聖書が39巻、新約聖書は27巻で、合わせて66巻です。
では、全部で何章あるのかを知っていますか。
答えは、聖書は全部で、1189章です。1189「いい訳」と覚えてくださいね。
旧約聖書が929章で、新約聖書は260章です。
ページ数で言えば、旧約聖書がおよそ1500ページで、新約聖書は500ページです。
書簡の数で言えば1.4倍、章の数では3.5倍、ページ数では3倍、いずれも旧約聖書のほうが多いと言えます。

このことを踏まえて、次の数字を見てみましょう。聖書には、様々な言葉が記されています。
その中で、信仰生活に密接な言葉が、聖書のどれほど登場するのかを調べてみました。
今回使用したのは、新改訳2017ですが、他の訳でも傾向に大差はないと思います。

調べた言葉は、「神」「愛」「喜び」「望」「祈り」「平安」「感謝」「罪」「救い」「信仰」です。
これらの言葉が、聖書に記されている節の数を調べました。(坂本調べ)

「神」・・・旧約3080節・新約1323節
「愛」・・・旧約260節・新約280節
「喜」・・・旧約468節・新約205節
「望」・・・旧約191節・新約151節
「祈」・・・旧約164節・新約159節
「平安」・・・旧約58節・新約42節
「感謝」・・・旧約90節・新約66節
「罪」・・・旧約509節・新約273節
「救」・・・旧約505節・新約192節

ここまでの結果は、旧約・新約の量の比率に近いものとなっています。
最後の一つは、今週の聖書箇所にも繰り返し記されている「信仰」です。
新約聖書では、243節に記されている「信仰」ですが、旧約聖書には、わずか1回なのです。

「信仰」・・・旧約1節・新約243節

ハバクク書2:4
「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」

口語訳聖書では4節(うち不信仰が2節)、新改訳第3版では2節(うち信仰を捨てが1節)、新共同訳聖書では7節になりますが、いずれにしても、新約聖書の243節に比べて、異常なほどの格段の差があります。

この理由は何でしょう。
他の、キリスト教信仰に関する言葉の記されている割合と、「信仰」という言葉の割合の違い。
その答えが、今週の聖書箇所にあるのです。(23節)
「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。」

ここで言う信仰は、イエスさまそのものです。イエスさまの十字架の贖いそのものです。
ですから、「信仰が現れる前」という言葉が使われているのです。
イエスさま以前の旧約聖書に、信仰という言葉がほとんど記されていないもの、それを裏付けています。

イエスさま以前、信仰が現れる前は、律法の時代でした。
神様の求める基準に達しなければ、受け入れられることもなく、赦されることもなく、救われることもない時代です。
その基準に達することのできる人はほとんどいないので、押しつぶされてしまう時代です。
なんとか、ごまかしてすり抜けたいのですが、神様の目を欺くことは不可能です。
希望が希望にならない、ビクビクしていた時代です。

しかし、その時代は終わりました。
イエスさまが、来たのです。
信仰が現れたのです。
神様の求める基準に達する人は、同じようにほとんどいません。一人もいないと言っていいでしょう。
しかし、イエスさまの十字架の血潮が、身代わりの死が、覚悟の愛が、あなたを贖ったのです。
神様の子どもとして生きることができる、信仰の時代が来たのです。
血筋も、立場も関係ありません。ただ、イエスさまの十字架が、ただ信仰が、あなたを救ったのです。
この聖書箇所は、そのことを高らかに宣言しているのです。

少し前に、律法の時代と信仰の時代、両者の違いをたとえで説明するのに適した体験をしたので、紹介します。
それは、シートベルトです。ある集会に行くために、3人の先輩牧師・伝道者たちと一緒に車で向かいました。
私は運転が好きなので運転役をさせてもらい、少し遠いので、途中、高速道路を使って行きました。
高速道路に入るときのことです。
後部座席から、声がしました。
「ああ、高速道路か。シートベルト締めなくちゃ。警察に捕まるといけないから。」
私は、かなりびっくりしました。
というのも、私は、「警察に捕まるといけないから」という理由でシートベルトを締めたことがないからです。
いのちを守るために、良いことだから、が、私のシートベルトを締める理由です。
同じようにシートベルトを締めても、その動機が違うのです。

「警察に捕まるといけないから。」は、まさに律法の時代の動機です。
「いのちのために良いことだから。」は、信仰の時代の動機です。
律法の時代は、善を行うのは、義務か強制です。
信仰の時代は、善を行う自由が与えられているのです。

そしてあなたは、今、生きているあなたは、このメッセージを聞いているあなたは、もちろん2000歳以下ですね。
あなたは、信仰の時代に、信仰が現れたあとに、イエスさまの十字架のあとに、生きているのです。

先週のメッセージでもお話しましたが、あなたが神様を信じる理由・礼拝する理由も同じです。
「信じないと地獄に落ちるから」ではなく「人に言われたから」でもありません。
イエスさまがあなたに注いだ愛によって生かされた喜びで、あなたは神様を信じ、礼拝するのです。
神様を礼拝しなければならない義務や強制があるのではなく、神様を礼拝する自由があるのです。

あなたは奴隷ではなく、自由人なのです。
強制や義務の中に生きるのではなく、自由の中に生きる人なのです。

あなたが生きている今は、あなたが生きている時代は、
あなたを奴隷にする時代ではありません。
あなたに強制や義務を押し付ける時代でもありません。
あなたを自由にする時代なのです。

あなたが善を行なうのは、義務ではありません。強制でもありません。
あなたには、善いことを行なう自由が、善いことを選ぶ自由が、与えられているのです。
この時代を、自由の時代を、神様とともに生きましょう。

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