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ゴスペルハウスコミュの「盛大な宴会のたとえ --非常識な招き--」2021.07.25

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ゴスペルハウスメッセージ 2021.07.25
「盛大な宴会のたとえ --非常識な招き--」ルカ14:15-24

15 イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」
16 するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。
17 宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。
18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』
19 別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』
20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』
21 しもべは帰って来て、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』
22 しもべは言った。『ご主人様、お命じになったとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』
23 すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。
24 言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。』」

今週の聖書箇所は「盛大な宴会のたとえ」として知られています。
当時のユダヤの社会では、こういう宴会にお客さんを招待するときには、2回招くのが普通の手順となっていました。
1回目は、何月何日にするという招待です。
そして、当日、準備ができたらもう一度招待するのです。

1回目の招待を受けて了解したにもかかわらず、当日の2回目の招待を断ること(ドタキャンですね)は、非常に大きな失礼で、侮辱行為です。
また、非常識な行動です。
反対に、2回の招待を受けていないのに宴会に行ってしまうのも、せっかちで非常識な行動でした。
どちらも普通にはあり得ないことなのです。

しかし、このたとえばなしでは、その「あり得ないこと・非常識なこと」が次々と起こるのです。

1人目は「畑」を2人目は「牛」を理由に招待を断りました。
畑や牛は、仕事や財産です。
仕事や財産は、それ自体悪いものではありません。
大切なことと言ってもいいでしょう。
しかしなぜ、1回目の招待で日程は知っていたにもかかわらず、この日なのでしょう。
畑も牛も、買う前にしっかり見ているはずです。
どうしても宴会当日にそれを見に行かなければならない理由はありません。
宴会の次の日でも、まったく問題ないのです。

なんでこんな日に、ということは、イエスさまの行動にもありました。
イエスさまは、何人もの人を、安息日に癒やしたのです。
何年も苦しんできたのだから、次の日でも我慢できたはずなのに、イエスさまは、次の日を待つことなく安息日に癒やしたのです。
しかしイエスさまは、愛を注ぐことを、神様からの罪の赦しを、彼らの喜びを、待たせることなく与えたかったのです。
それで、安息日にも関わらず、癒やしたのです。

今回の招待を断った人は、愛や喜びを与えるためでなく、愛や喜びを踏みにじるために、この日を選んだのです。

3人目は、もっと悪質です。
彼は「結婚」を理由に、招待を断りました。
結婚については、申命記第24章5節にこのようにあります。
「人が新妻を迎えたときは、その人を戦に出してはならない。何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、迎えた妻を喜ばせなければならない。」

彼は結婚(家庭)というよりも、宗教を理由にしたのです。
「聖書に書いてあるんだから、招待を断るのは当然のこと」というのです。
「あんた、聖書に反抗する気?」とでも言わんばかりです。
実際は、自分の行為を正当化するために、聖書の言葉を利用しただけです。
だったら、1回目の招待の段階で断るべきで、ドタキャンする理由にはなりません。

宴会を催した主人が怒るのも無理はありません。
同じようなたとえばなしを記したマタイの福音書では、「町を焼き払った」のです(マタイ第22章参照)。

仕事も財産も宗教も家庭も、悪いものではありません。
どれもすばらしい、神様からのプレゼントです。
ただ、一番大切にしなくてはならないものは、「神様の招き」です。
それは、「愛の招き」であり、「喜びの招き」でもあります。
彼らは、それを台無しにしたのです。
神様の愛を踏みにじったのです。
神様の愛を、愛とも喜びとも思わなかったのです。

このたとえばなしは、神様の愛を忘れた、パリサイ人や律法学者たち、いえ、神の民イスラエルに対して語られたのです。
「神様の愛の宴会に戻ってきなさい」と。

主人は言います。
「無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。」(23節)
これは、無理やり引っ張ってこいという意味ではありません。
宴会には2回の招待が必要ですから、当日だけの招待は無茶で非常識なことなのです。
無茶を承知の上で、非常識を承知の上で、無理なお願いをするということなのです。
懇願すると言い換えてもいいでしょう。

愛の宴会をしたいから、喜びの宴会をしたいから、ともにお祝いしたいから、資格もない人たちを、招きもしなかった人たちを、非常識な方法で宴会に招いたのです。
当時「貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たち」(21節)は、神様に招かれるはずがないと、勝手に考えられていました。
「街道や垣根のところ」(23節)とは、神様の救いに関係ないと考えられていた異邦人のエリアです。
彼らを、喜びの宴会、愛の宴会に招くため、神様はなりふり構いませんでした。
そして、その無理を通すために、イエスさまが十字架に付く必要があったのです。

コリント人への第二の手紙第5章17-20節にこうあります。
17 ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
18 これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。
19 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。
20 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。

17節は有名な箇所なので、皆さん知っておられるでしょう。
その少しあとの20節「勧めておられる」は、以前の訳では「懇願しておられる」とされていました。
まさに、この宴会の招待と同じことなのです。

このたとえばなしは、
「資格がないと自他ともに認める人への、本当の愛への招き」であり、
「神様の愛を裏切り、自分の思うままに生きようとする人への、立ち返りの求め」であるのです。

畑を見に行こうとして、「やっぱり」と思い直して、向きを変えることを、神様は求めているのです。
牛を見に行こうとして、「やっぱり」と思い直して、向きを変えることを、神様は赦しているのです。
妻を理由に拒否しようとして、「やっぱり」と思い直して、向きを変えることを、神様は喜んでいるのです。
その愛と赦しの覚悟のために、イエスさまの十字架があったのです。

あなたの人生にも、神様からの無理な非常識な無茶な招きがあります。
「・・・だから無理」「・・・だからできません」という思いへのチャレンジです。
神様からの愛の挑戦、無理を承知の懇願です。
あなたとの、愛の宴会を、喜びの宴会を、神様は望んでいるのです。

さあ、神様からの招待状は、あなたのもとに届いています。
この招待状を、この愛の懇願を、あなたは、どうしますか。

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