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ゴスペルハウスコミュの「母がささげたいのち、父がささげたいのち」(父の日)

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ゴスペルハウスメッセージ 2021.06.20(父の日)
「母がささげたいのち、父がささげたいのち」ルカ15:25-32

25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

父の日、おめでとうございます。

ルカの福音書第15章は、3つのたとえ話で構成されています。
・いなくなった羊のたとえ(4-7節)
・失われた銀貨のたとえ(8-10節)
・放蕩息子のたとえ(11-32節)
今週の聖書の箇所は、3つ目のたとえ話の最後の部分です。

「いなくなった羊のたとえ」では、迷い出た1匹の羊は、自力で戻ることができません。
なので、99匹の羊を野に残して、羊の持ち主は1匹を捜しに行きます。
「失われた銀貨のたとえ」では、失われた1枚の銀貨は、もちろん自力で戻ることができません。
なので、持ち主は、家中を捜すのです。
「放蕩息子のたとえ」でも、放蕩の末に弟息子は、自力で家に戻っていません。
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」(20節)とあります。
3つのたとえの主題は、いずれも自力で立ち返ることができない者に対しての、神様のなりふり構わない愛なのです。
そして、
『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』(6節)
『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』(9節)
『だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』(32節)
と、その愛を喜んで欲しいと願っているのです。

さて、兄息子は、弟に示された父のなりふり構わない愛を知って、激怒します。
弟には、愛される資格がない、赦される資格がない、息子である資格がない、と考えたのです。

私が、日本の教会に行き始めた頃(約25年前)の話です。
ルカ15章が話題にのぼり、「私も1匹の羊です」「ボクも1枚の銀貨です」「私は放蕩息子です」と、感想を述べていました。
しかし、その同じ口が、別の話題ではこう言うのです。
「あの人は、無理。万が一、刑務所でイエスさま信じたって、救われないよ。」
その頃、地下鉄サリン事件などがあり、教祖についてこう言ったのです。
(私も、この凶行は許されるものではないと思います)

自身が1匹の羊、1枚の銀貨、放蕩息子であると言いながら、いつの間にか裁く立場、救いを決める立場に変わっているのです。
迷い出た1匹の羊から、99匹の怒れる羊へ。
失われた1枚の銀貨から、9枚の裁く銀貨へ。
放蕩息子から、兄息子へ。
自身が見事に変わってしまっているのに、気がついていないのです。

この章の冒頭の3章を読んでみましょう。

1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

そうです。
パリサイ人や律法学者たちに向かって、イエスさまはたえ話をしたのです。
これらの3つのたとえ話は、そんな怒れる99匹の羊への、9枚の銀貨への、兄息子への、神様の宣言なのです。
あなたが赦すことができない人への、惜しみなく注がれるなりふり構わない神様の愛が、この章のメインテーマなのです。

母の日礼拝で、あなたが生まれるために注がれた母の愛についてお話ししました。
母の愛は、(1)いのちがけの愛、(2)血を流し、痛む愛、(3)体を分け与える愛、(4)汚れ、呪われる愛、でした。
イエスさまが十字架で示した愛と同じ愛で、あなたのいのちは生まれたのです。

それに対して、父なる神様の愛は、「なりふり構わぬ愛」なのです。
その愛を受けた1匹の羊だったあなたが、1枚の銀貨だったあなたが、弟息子だったあなたが、今、99匹の羊になり、9枚の銀貨になり、兄息子になって、他の人に、あなたが赦すことができない人に注がれる愛を、本気で喜べるかどうかのチャレンジなのです。
「一緒に喜んでください。」と、神様は求めているのです。
神様の愛に従うか、あなたの感情に従うか、そこが問われているのです。

創世記第3章で、罪に堕ちたアダムとエバもそうでした。
「その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。」(創世記3:6)
サタン(蛇)からのそそのかしがあったとはいうものの、神様の愛よりも、自分の気持ちや感情を優先してしまったのです。

あなたも、私も、そのそそのかされたアダムの末裔です。
しかし、そのからくりを知り、神様の愛を知る者でもあるのです。
99匹の怒れる羊であり、9枚の裁く銀貨であり、兄息子でもある私たちへの、神様からの愛のチャレンジを、今日、喜んで受けましょう。

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