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ゴスペルハウスコミュの「闇と光とあなた(レント-3)」2021.03.06

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ゴスペルハウスメッセージ 2021.03.06
「闇と光とあなた(レント-3)」ルカ18:35-43

35 イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた。
36 彼は群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事かと尋ねた。
37 ナザレ人イエスがお通りになるのだと人々が知らせると、
38 彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。
39 先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。
40 イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた。彼が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。
41 「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」
42 イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」
43 その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。

今週の聖書箇所は、エリコの町の近くの出来事です。
まもなく、イエスさまはエルサレムに入城し、そして、十字架にかかることになります。
レントのこの時期にふさわしい、十字架へ向かう歩みの中の場面です。
マタイ福音書(20:29-34)とマルコ福音書(10:46-52)に、並行箇所があります。
盲人の人数や、エリコの町に入る前か後か、などの少しの違いはありますが、より立体的に味わうことができると思います。

目の見えない男は、闇の中にいました。
それは、目が見えないという意味での、闇の中という意味もあります。
そして、出口・解決策がないという闇でもありました。
現代でも、目の見えない人は、その機能が回復しにくいものです。
2千年前には、眼鏡も、高度な医療もありません。
見えない状況から抜け出せるとは、望むことすらできなかったのです。

彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。(38節)
彼が、イエスさまのことを唯一の救いだと考えていたかどうかは、定かではありません。
彼は物乞いをして生きていましたから、「私をあわれんでください」とは、癒やしの要求ではないでしょう。
金銭や物を、与えてくれることを願ったのです。
若くて人気のあるラビが通るので、物乞いとして、大きな声で何度も願ったのです。

昨今の日本では、物乞いや乞食は、あまり見かけませんね。
ですから、彼の要求を、信仰の表明ととらえてしまうことがあるかもしれません。
私がブラジルに住んでいた頃、物乞いも乞食も、よく見かけました。
そして、ヨレヨレのTシャツと短パンとビーチサンダルの私を見て、「旦那さん、昼食をおごってください」とポルトガル語で何度も声をかけていました。
「ダビデの子のイエス様」という呼び掛けも、物乞いのための言い回しだと思うのです。

目の見えない物乞いの男は、闇の中で、文字通り闇雲に、叫び続けたのです。
群衆が黙らせようとしたのも、無理はありません。
むしろ、理にかなった行動と言えるでしょう。

しかし、この強い信仰心もない、闇の中からの叫び声に、イエスさまは答えるのです。
「わたしに何をしてほしいのですか。」(41節)
お金がほしいのか、食べ物がほしいのか、祝福してほしいのか。
様々な選択肢が考えられるでしょう。
そこで彼は答えました。
「主よ、目が見えるようにしてください。」(41節)
イエスさまの問いかけが、彼の本当の望みを引き出したのです。

本当の望みが見つかった人は、幸せです。
本当の望みを勘違いしていると、何度望みがかなっても、不満が残ります。
そして、その不満に、自分も他人も振り回されてしまうのです。

ともあれ、イエスさまは、男の本当の望みを引き出し、かなえました。
目の見えるようになった彼は、イエスさまについて行きました。
聖書には書かれていませんが、きっと、十字架のイエスさまも見たことでしょう。

闇の中にいる人に、本当の光を示し、新しい生き方を与えるイエスさま。
こういう視点で、この記事の前後の出来事を見ると、実に興味深いのです。

1つ前のエピソードは、「金持ちの青年」(マタイ19:16-30、マルコ10:17-22、ルカ18:18-30)です。
恵まれた環境にいた彼は、人知れない闇にいました。
イエスさまが光を示したのですが、ついて行くことができませんでした。

2つ前のエピソードは、「子どもの祝福」(マタイ19:13-15、マルコ10:13-16、ルカ18:15-17)です。
若くて主流派でもないラビのイエスさまに、道ばたで祝福してもらおうと子どもを連れてきた親子は、お金持ちではなかったことでしょう。
人生の闇を抱えた親子に、イエスさまは祝福と光を与えたのです。

1つあとのエピソードは、「ザアカイ」(ルカ19:1-10)です。
自他ともに認める闇中に生きる、取税人の頭であるザアカイに、イエスさまが光を示し、ザアカイは新しい命を生きることにしたのです。

エルサエム入城前のイエスさまは、闇に光を与え続けていたのです。

そして、これは2千年前に終わってしまった出来事ではありません。
それからずっと、イエスさまは何億人もの闇に、光を与え続けてきたのです。
私も、例外ではありません。

そしてもちろん、あなたの闇も、イエスさまは見過ごすことはないのです。
今、闇の中にいて、本当の望みが何であるかすらわからない状態でもいいんです。
信仰が弱くても、足りなくても、不十分でも、少なくても、それでいいんです。
そのまま、闇雲でもいいから、イエスさまをお迎えしましょう。
大声で、叫びましょう、「私をあわれんでください!」

あなたの本当の望みも、闇に打ち勝つ光も、新しい命も、新しい生き方も、イエスさまがあなたに与えてくれるのです。


【並行箇所】
マタイ20:29-34
29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。
30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」
33 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」
34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

マルコ10:46-52
46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。
49 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
50 その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
51 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」
52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。

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