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ゴスペルハウスコミュの「信仰とは、」

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ゴスペルハウスメッセージ 2016.09.11
「信仰とは、」マルコ 10:46-52

46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

私たちキリスト者は、信仰をもっていると考えられています。
でも、信仰ってなんでしょうか。
実際の生活の中で、”信仰者っぽく”生きることは簡単ですが、信仰をもって生きるとはどうしたらいいのでしょう。
今週はバルテマイを通して、「信仰とは・・」をはっきりさせていきましょう。

バルテマイは、エリコの町にいる盲人のこじきでした。
エリコの町でのイエスさまの話は、バルテマイの耳にも届いていました。
きっと、イエスさまがザアカイの家に泊まったこともバルテマイは聞いていたでしょう。
バルテマイは、イエスさまがエリコの町を出たときに、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」(47,48節)と、叫び求めました。
そして、イエスさまが「あの人を呼んで来なさい。」(49節)と招くと、バルテマイは上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がってイエスさまのところに来たのです。
イエスさまが「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(52節)と宣言すると、バルテマイは見えるようになり、彼はイエスさまについて行ったのです。

以上がこの箇所の要約です。
箇条書きにすると、
1.バルテマイは叫び求めた
2.イエスさまに呼ばれて、上着を脱ぎ捨てて立ち上がった
3.「あなたの信仰があなたを救った」の宣言といやし
4.バルテマイはイエスさまについて行った
ということになります。

私たちも、イエスさまに叫び求めることはよくあることです。
ここで注目すべきは、バルテマイがイエスさまに呼ばれたことです。
イエスさまは多くの場合、困っている人、求めている人のところに歩んで行かれました。
また、イエスさまを求めて歩んでくる人も多くいました。
しかし、バルテマイのように「あの人を呼んで来なさい」と言われた人はありません。
彼が呼ばれたのには、理由があるのです。

こじきであるバルテマイにとって、上着はいわば全財産です。
起きているときには体を守り、寝るときには寝具にもなります。
上着はバルテマイにとって、「なくてはならないもの」だったのです。
しかし、彼はイエスさまに呼ばれると、すぐに上着を脱ぎ捨ててイエスさまのところに来ました。
きちんとたたんでおいて、あとで取りに来るということではありません。
なくてはならない全財産を脱ぎ捨てたのです。

イエスさまは、バルテマイの中にこのような信仰を見たからこそ、バルテマイを呼んだのです。
イエスさまが歩み寄るのも簡単なことです。
しかし、バルテマイの信仰をはっきりと示すため、呼ぶことが必要だったのです。
それはバルテマイのためであり、そこにいた弟子や群集のためであり、そして、私たちのためです。

バルテマイは目が開かれたあと、「ありがとね」と言って、上着を取りに戻ることはしませんでした。
彼は上着を脱ぎ捨てたまま、イエスさまについて行ったのです。

ここで、この箇所の少し前(10:17-22)に出てきた金持ちの青年と比べてみましょう。
彼は、善行をし、宗教的にも申し分なく、人間愛も持ち合わせていました。
とってもすばらしい人です。
でも、イエスさまについて行くことはできなかったのです。
「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(25節)とイエスさまは言いました。

しかし、果たして、金持ちだけが入りにくいのでしょうか。
わが家の子どもたちは、あまりおもちゃを壊さないので、わが家にはおもちゃは比較的いっぱいある方です。
にもかかわらず、ものの取り合いでケンカすることは少なくありません。
この前取り合っていたのは、「サランラップの使用済みの芯」です。
他にもちゃんとしたおもちゃがいっぱいあるのに、なぜか取り合うのです。
普段はゴミ箱に直行する芯が、なぜだかその日に限って奪い合うほどのものになってしまったのです。

そう、人間のモノに対する所有欲というものは、かなり大きなものなのです。
金持ちだろうが、貧乏だろうが、大人であろうが、子どもであろうが、関係ないようです。
バルテマイだって「上着一枚ぐらいいいでしょ・・絶対必要だし・・・」と考えることはできたはずです。
でも、彼は、そうしませんでした。
そこに信仰があるのです。

バルテマイを通して見えてきた信仰とは何でしょうか。
それは、「イエスさまをただ一つの持ち物にする生き方」です。

イエスさまは神様のひとり子です。
神の国のあらわれであり、神の義のあらわれでもあります。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)
まず、あなたの全財産を、ただ一つイエスさまにするのです。
そうすれば、その他のものは、神様の御心のままに、添えて与えられます。

お金も、地位も、名声も、他人の評価も、あなたの存在を支えることはできません。
もたれかかれば、こわれてしまいます。
それほど、あなたという存在は大きくて高価なのです。
ただ一つ、イエスさまだけがそれを支えることができるのです。
そのイエスさまを、あなたのただ一つの持ち物にして生きること、それが信仰です。

もう一度言います。
信仰とは、「イエスさまをただ一つの持ち物にする生き方」です。

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