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ゴスペルハウスコミュの「その日の夕方」2024.04.13

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ゴスペルハウスメッセージ 2024.04.13
「その日の夕方」ルカ24:36-43、ヨハネ20:19-24

□ルカ24:36-43
36 これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
37 彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。
39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」
40 こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。

□ヨハネ20:19-24
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

今日は、「その日の夕方」というテーマで御言葉を開いていきましょう。
「その日」(ヨハネ20:19)とありますが、これは、具体的にはイエスさまがよみがえった日、復活のイースターの日のことです。
夕方ということは、それまでがあってのことです。
つまり、その日の朝、その日の昼があって、その日の夕方があるということです。

その日の朝にあったこと、それは、女性たちが墓に行ったことです。
彼女たちは、墓をふさいだ石をどけることができるか、それが心配でした。
しかし、行ってみると、石は取り除けられていて、亜麻布だけが残されていました。
そして、御使いが、「イエスさまはよみがえった」と言うのです。
さらに、彼女たちは、復活のイエスさまにも出会いました。
ペテロとヨハネも、墓を確認しました。
その日の昼過ぎには、エマオに行く途中で二人の弟子がイエスさまに出会いました。
イエスさまと語り、イエスさまに目を開かれ、イエスさまに心燃やされました。
これは先週のメッセージでお話した通りです。
そしてルカの福音書24章35節には、シモン・ペテロがイエスさまに出会ったということが記されています。
そして、すべてのできごとは、すべての証人は、すべての情報は、弟子たちのもとへ集められていました。

それだけのことがあった「その日の夕方」なのです。
弟子たちは、どうあるべきだったのでしょうか。
弟子たちは、どうするべきだったのでしょうか。
イエスさまは墓にも、エマオにも、そしてここにもいないのです。
イエスさまは、確かに復活したのです。
証人は、たくさんいるのです。
イエスさまは、3日前に十字架につけられた死刑囚なのです。
もし、ユダヤの指導者やローマ兵が、先にイエスさまを見つけてしまったら、再逮捕されるかもしれません。
再び十字架で死刑になるかもしれません。
しかも、証人たちの話によると、イエスさまは一人っきりです。
だれも身を守ってくれる人がいないのです。

弟子たちは、イエスさまを見つけるために、イエスさまを迎えるために、イエスさまを助けるために、街へ飛び出すべきだったのではないでしょうか。
弟子である以上、その行動は当然です。
しかし、彼らはできませんでした。
ユダヤ人を恐れて、鍵をかけた部屋に閉じこもっていたのです。
ヨハネ20章24節に、トマスについての記事があります。
「十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」
熱血漢・トマスの状況を想像すると、彼だけは、もしかしたら聖書に書いてはありませんが、街へ飛び出して行って、イエスさまを探していたのではないでしょうか。
しかし、彼とともに行く弟子は、いませんでした。
自殺したユダとトマスを除く十人の使徒は、鍵のかかった部屋にとどまっていたのです。

本来するべきことができなかった弟子たちが、そこにいたのです。
ユダヤ人たちを恐れていた弟子たちが、そこにいたのです。
イエスさまの約束があったのに疑った弟子たちが、そこにいたのです。
約束どおりの現実を見たのに、知ったのに、信じられなかった弟子たちがそこにいたのです。
そんな「できなかった弟子たち」の部屋に、鍵がかかっていた部屋に、イエスさまが来たら何というでしょう。
私なら、「こらあぁぁぁっ!」と怒るでしょう。
しかし、イエスさまはそうされませんでした。
「強くあれ」でもなく、「ああ、愚かな人たち」でもなく、「なぜ心を騒がせるのですか」でもなく、「平安があなたがたにあるように」、つまりシャロームです。
いわば、普通のあいさつの言葉です。
イエスさまは、その言葉とともに、弟子たちの真ん中に来たのです。

弱くて、臆病で、愚かで、信じることも中途半端で、約束を受け取ることもできなかった、頑固な弟子たちの現実の真ん中に、イエスさまは来たのです。
壁を越えて、鍵がかかった扉を越えて、壁を壊すのでもなく。扉を叩いて開けさせることでもなく、イエスさまは来たのです。
それが、イエスさまの愛なのです。
イエスさまの約束がわかるように弟子たちが努力したから来たのではなく、分からないままの弟子をそのまま受け入れて、愛して、ともにいれてくれるイエスさまなのです。
「強くあれ」でなく、「いつも一緒だよ」の弟子訓練が、イエスさまの愛の弟子訓練なのです。

マタイの福音書には、イエスの誕生に関する言葉があります。
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(マタイ1:23)
誕生前に約束されたこの言葉は、十字架にかかっても徹底されていたのです。

そうすると、「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)という言葉も、新たな意味を持つようになります。
父なる神様はイエスさまを遣わすときに、イエスさまといつもともにいました。
一人でがんばって行ってこいではなく、いつも、ともにいてくださったのです。
そして、イエスさまも弟子たちにそのようにするというのです。
つまり、いつもともにいるという約束なのです。
「がんばって行け」ではなく、「一緒に行こう」という約束なのです。

復活したイエスさまは、このあと40日後に、天に戻られます。
けれども、ペンテコステにおいて、聖霊様が降り、この約束は成就されました。
「一緒に行こう」の約束が、「一緒に行こう」の愛が、成就されたのです。

これが「その日の夕方の真実」です。
そして、あなたが今生きる、ペンテコステ後の時代にも、この「その日の夕方の真実」はあなたにとって真実なのです。
神様は、あなたとともにいてくれる方です。
あなたに与えられるのは、「一人でがんばれ」の激励ではなく、「いつも一緒だよ」の愛なのです。
マタイの福音書巻末のイエスさまの言葉は、この愛の改めての宣言です。
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

「その日の夕方の真実」に生きましょう。
「いつも一緒のイエスさまの愛」に生きましょう。
それは、あなたのためのものなのです。

あなたのために、お祈りします。

【参考聖書箇所】
マタイ
1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

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