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ゴスペルハウスコミュの「批判者と当事者(レント-6)」2024.03.23

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ゴスペルハウスメッセージ 2024.03.23
「批判者と当事者(レント-6)」ルカ23:35-43

35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

いよいよ次回は、イースター礼拝になります。
今週は、イエスさまが十字架につけられた場面から「批判者と当事者」というテーマで御言葉を開いていきたいと思います。
批判者は外から見て、傍観者になって、意見を言う人で、当事者とは実際に体験する人というように考えていいでしょう。

この箇所には、何種類かの人々がイエスさまにかかわっています。
2週間前に「愛された5人」というテーマでお話しましたが、今日も5者の立場から見ていきましょう。

第1番目は民衆です。
5日前には、エルサレムに入城してくるイエスさまを、熱狂で迎えた群衆たちでした。
しかし、この日の朝には「イエスさまを殺せ」と叫んでいました。
まったく同一の群衆かどうかはわかりませんけれども、熱狂から憎しみへと変化したのです。
そして、イエスさまが十字架にかけられたこの時には、ただ立って眺めているのです。
一時は熱狂もしたし、一時は憎しみもしました。
けれど、もうあまり関心もなくなっているのです。
彼らは軽薄な批判者でした。
テレビやネットで日々新しい話題に飛びついて振り回されている現代人の姿のようです。

2番目は議員たちです。
彼らはイエスさまをあざ笑っていました。
聖書には、イエスさまが笑ったと記されている箇所がありません。
そして、イエスさまの周りの人たちが笑ったという記述もありません。
実際には、イエスさまがたくさん笑い、周りの人々を笑わせたことでしょう。
しかし、聖書にはそのような記述がありません。
そのイエスさまの笑顔、その周りの人たちの笑顔を見て、悔しさや憎しみを溜め込んでいたのが、議員やパリサイ人や祭司長たちではないでしょうか。
そして十字架につけられたイエスさまを見て、これ見よがしにあざ笑ったのです。
「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」(35節)
すべての人々は律法を成就することができず、不完全で罪があり、救いも赦しも必要だということを、彼らは知っています。
知っているのに、すべての人々の中に自分たちを含めていないのです。
まるっきり他人ごととして、自分たちには関係ないとあざ笑っているのです。
自分を批判者の立場に置くことで、批判者の位置に立つことで、物事をあざ笑うことができてしまうのです。

3番目は兵士たちです。
「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(37節)と嘲りました。
イエスさまをバカにしたのです。
彼らは、ユダヤ人ではなくローマ兵です。
ユダヤ人たちが信じる神は、自分たちとは無関係と思っているのです。
ですから、この争いも、十字架につけられているイエスさまも、少し興味深いアトラクション程度にしかとらえていないのです。
この十字架の死は、本当は全ての人の救いのためなのに。
自分の人生とイエスの十字架を切り離すことで、彼らはバカにする立場を取っています。
そして無意味な攻撃、無意味な批判をしているのです。
イエスさまの十字架の上にかけられた「これはユダヤ人の王」(38節)という札も、自分たちローマ人とは無関係であることを強調しています。

4番目は十字架につけられた犯罪人の一人です。
「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」(39節)とイエスさまをののしりました。
十字架は死刑です。
何時間か我慢したら許されるとか、何日間か我慢したら降ろされるのではなく、死ぬまで降ろされることはないのです。
しかも、息が絶えるまでに時間がかかる、苦しい死刑です。
ですから十字架につけられている彼は、もう死んでいるのと同じことなのです。
これから先は、苦しんで死ぬしかないのです。
絶望した彼は、諦めに囚われた彼は、最後の最後にイエスさまをバカにすることで、イエスさまを攻撃することで、安心しようとしたのです。
自分を死刑の当事者にするのでもなく、罪が赦されて神の国に行くとも思えず、ただイエスさまを攻撃して、無意味な気晴らしをしたのです。

最後の5人目はもう一人の犯罪人です。
ここまでの4人は、罪からも救いからも自分を遠ざけ批判し、バカにし攻撃していました。
みんな、批判者だったのです。
しかし、この男の人は当事者になりました。
「おまえは神を恐れないのか。」(40節)という言葉は、すべてを知っている神様の前で、自分の罪を棚上げできるのかという意味です。
そして、彼は自分の罪を認め、イエスさまには罪があったわけではないということを認めました。
彼は、三年間のイエスさまの働きを、少しは知っていたのでしょう。
だから彼は、イエスさまは天国に行けるだろうと考えたのです。
イエスさまを救い主とはわからず、自分の罪の大きさも知っていて、神様の聖さも知っていた彼だからこそ、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」(42節)が、精いっぱいだったのです。
それ以上を求めることは、彼にとって恐れ多いことだったのです。
彼は罪の当事者になり、神の裁きの当事者になり、イエスさまに思い出してもらえる当事者になることを願ったのです。
イエスの答えは、まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)でした。
これは、「あなたは天国の当事者だよ」、「あなたは救いの当事者だよ」、「あなたは赦しの当事者だよ」、「あなたは永遠のいのちの当事者だよ」という宣言です。

罪の当事者であることを認められなかった4人は、批判者になりました。
罪の当事者であることを認めた1人は、天国の当事者、神様の愛の当事者、赦しの当事者、永遠のいのちの当事者になったのです。
ルカの福音書18章9-14節に、「パリサイ人と取税人の祈りのたとえ」があります。

9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

これはイエスさまが語ったたとえなのですが、この十字架の場面で、このたとえは現実のものとなったのです。
パリサイ人は批判者で、取税人は当事者です。

あなたは、自分の罪から目を背けて、批判者になりますか。
それとも、自分の罪から目をそらさず、愛の当事者になりますか。
神様の愛は、もう、あなたのものなのです。

あなたのために、お祈りします。

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