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ゴスペルハウスコミュの「行いが信仰を生む--宗教改革記念日--」2023.10.28

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ゴスペルハウスメッセージ 2023.10.28
「行いが信仰を生む--宗教改革記念日--」ヤコブ4:7-10

7 ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。
8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。
9 嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。

今日は、宗教改革記念礼拝です。
今から506年前の1517年10月31日、ルターが95か条の論題を掲示したことで宗教改革が始まりました。
ゴスペルハウス礼拝では、毎週詩篇を1篇ずつ順番に読んでいくのですが、奇しくも今日は、ルターが特に好きだったという第118篇でした。
神様は、なかなか粋なことをしますね。

そして、今週の聖書箇所は、ヤコブの手紙です。
ルターは、ヤコブの手紙を「藁の書簡」と酷評し、価値を認めませんでした。
のちに、その酷評を訂正したとされてはいますが。

今日はここから、「行いが信仰を生む」というテーマで御言葉を開きましょう。

ルターの信仰の中心を表すものとして、「聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみ」という言葉があります。
それに対して、ヤコブの手紙は、「行い」を重視しているように読めます。
「行いがないのなら、信仰は死んでいる」のような主張に読めるのです(2:17,2:26など)。
そのうえ、「十字架」という言葉も「復活」という言葉も書かれていないので、ルターもはじめは価値を認めなかったのでしょう。

ヤコブが手紙を書いた頃、人々の間には「信じたら救われるんだから、何やっても十字架で赦されるんだから、自分の好き勝手に生きても大丈夫」という誤解が広まっていました。
いえ、誤解というよりは、論理の暴力といっていいものでしょう。
今でも、「何やってたって、神様は赦すんでしょ」と、自分を神様以上の立場に置こうとする人たちがいます。
その反動なのか、「良い行いが伴わない者は、信じたとしても地獄に行くんだ」と主張する人たちすらいます。
もちろん、どちらも間違いです。
ヤコブの頃の2000年前も、ルターの頃の500年前も、そして現代も、同じで、まったく前に進みません。
とらわれた罪人の姿がそこにあります。
手かせ足かせ、重いくびき、そこには自由もなにもないのです。

では、ヤコブの対策は、間違っていたのでしょうか。
そんなことはありません。
ヤコブの手紙はたしかに、行いを求めています。
今週の聖書箇所の7節も8節もそうです。
内面についての善行をも求めています。
そして、「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。」(9節)と続くのです。

もし行いによって救われるなら、行いによって神様に認められるなら、9節はこうなるはずです。
「歌いなさい。喜びなさい。笑いなさい。あなたがたの悲しみを笑いに、憂いを喜びに変えなさい。」
そうなっていないのは、行いでは、完全に救われることがないからです。
自分で自分を救うことはできず、自身を天の御国にふさわしいものに変えることができないからです。
だからこその、「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。」(10節)なのです。

自分の行いを誇りにせず、へりくだって、神様の力によって、引き上げてもらうのです。
自力での救いではなく、神様の恵みによって、救われなさい。
ヤコブはそう言っているのです。
そのうえでの15節なのです。
あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。(15節)

主の御心の中で、自分に与えられたものを、使命を、召しを、導きを、生きがいを、人生そのものを、生きて行うのです。
ヤコブは、「行いの限界を知って、神様によって救われ、その愛の中に生きよう」と主張しているのです。

今日のテーマは、「行いが信仰を生む」です。
それは、行いによって信仰を完成させるのではありません。
行いの限界に気づいて、信仰によってしか生きられないと知ることです。
信仰を完成させるのは、あなたではないのです。
あなたの努力でも、あなたの善行でも、あなたの信心でもないのです。
ヘブル第12章2節にあるように、信仰の完成者は、イエスさまです。
私たちは、そこから目を離してはいけないのです。

十字架の愛に、十字架の恵みに、無条件の救いに、いつもとどまることが大切なのです。
というより、それしかないのです。

「でもでも、ルカ第6章43-44節に、木は実でわかるって書いてあるよ」と、言いたい人もいるかも知れません。
お答えしましょう。
ヨハネ第15章5節に「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」とあります。
枝がよい実をつけるためには、よい木の枝であることが必要です。
そして、ローマ第11章17-18節にあるように、私たちは接ぎ木され、根に支えられているのです。
自分自身の行いによっては救われることもなく、切られて捨てられて焼かれるしかなかった私たちが、イエスさまの十字架に接ぎ木されて、生きるようになったのです。

あなたの行いの足りなさが、あなたの欠けの大きさが、開き直りや放縦を生むなら、そこに信仰は生まれません。
あなたが、足りなさや欠けにまっすぐに向き合い、あなた自身に絶望するとき、そして十字架を見上げるとき、そこに信仰が生まれるのです。

それは、「信じてるから安心」というレベルではありません。
イエスさまの十字架に接ぎ木され、人生すべてが変えられることです。
まさに、あなたの人生の大改革です。
それがあなたの、本当の宗教改革です。

今日が、今日こそが、あなたの宗教改革記念日でありますように。


【参考聖書箇所】
ヤコブ
2:17 同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
2:26 からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。

ヘブル
12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

ルカ
6:43 良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。
6:44 木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません。
6:45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。人の口は、心に満ちていることを話すからです。

ヨハネ
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

ローマ
11:17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

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