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ゴスペルハウスコミュの「絶望・誤解・喜び」2023.09.02

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ゴスペルハウスメッセージ 2023.09.02
「絶望・誤解・喜び」使徒16:20-34

20 そして、二人を長官たちの前に引き出して言った。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町をかき乱し、
21 ローマ人である私たちが、受け入れることも行うことも許されていない風習を宣伝しております。」
22 群衆も二人に反対して立ったので、長官たちは、彼らの衣をはぎ取ってむちで打つように命じた。
23 そして何度もむちで打たせてから二人を牢に入れ、看守に厳重に見張るように命じた。
24 この命令を受けた看守は、二人を奥の牢に入れ、足には木の足かせをはめた。
25 真夜中ごろ、パウロとシラスは祈りつつ、神を賛美する歌を歌っていた。ほかの囚人たちはそれに聞き入っていた。
26 すると突然、大きな地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、たちまち扉が全部開いて、すべての囚人の鎖が外れてしまった。
27 目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
28 パウロは大声で「自害してはいけない。私たちはみなここにいる」と叫んだ。
29 看守は明かりを求めてから、牢の中に駆け込み、震えながらパウロとシラスの前にひれ伏した。
30 そして二人を外に連れ出して、「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言った。
31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
32 そして、彼と彼の家にいる者全員に、主のことばを語った。
33 看守はその夜、時を移さず二人を引き取り、打ち傷を洗った。そして、彼とその家の者全員が、すぐにバプテスマを受けた。
34 それから二人を家に案内して、食事のもてなしをし、神を信じたことを全家族とともに心から喜んだ。

パウロの第2回伝道旅行は、1回目に訪問した信徒たちを再訪するのが、パウロたちの当初の目的でした。
しかし神様は、パウロがマケドニアに行くように招きました(使徒16:9-10参照)。
それは、ヨーロッパに福音が伝わるという、大きな新しい一歩への招きでした。
パウロは、神様からの招きのとおりにマケドニアへ行き、大都市ピリピで占いの霊につかれた女奴隷からその霊を追放しました。
すると、占いによって金儲けしていた人たちから憎まれ、訴えられ、きちんとした裁きも受けずにむち打たれ、牢に入れられたのです。

神様は、全知全能で、何でもできます。
サタンも、悪霊たちも、ほとんど何でもできます。
ただ、目的がまったく違うのです。
神様は、人間を愛するがゆえに、その力をあらわします。
それに対し、サタンは、人間を神様から引き離すために、その力を発揮するのです。

パウロとシラスが牢に入れられ賛美していると、大きな地震が起き、すべての囚人が解放されてしまいます。
看守はあわてて、剣で自殺しようとしますが、パウロが止めました。
囚人たちは、だれも逃げていなかったからです。
そして、看守とその家族は、パウロからバプテスマを受けました。
パウロがバプテスマを授けた、数少ないケースです(1コリント1:14-17参照)。

この箇所から、「絶望・誤解・喜び」というテーマで、御言葉を開きましょう。

第一のポイントは、「神様の前に、絶望は無力」ということです。
パウロとシラスは、福音伝道の妨害をした占いの霊を追い出しました。
そのことで、利権を失った人たちに憎まれて、むち打たれて、牢に入れられ、足かせと鎖に繋がれました。
普通に考えて、絶望していい場面です。
伝道旅行のはずが、牢屋に閉じ込められているのですから。
しかし神様は、大きな地震を引き起こしてまで、2人を助け出します。

また看守は、囚人を逃してしまったら、責任を問われます。
それは、逃げた囚人が受けるべき罰を身代わりに受けるというものだったそうです。
すべての牢屋が開け放たれてしまったのですから、すべての足かせと鎖も解けてしまったのですから、逃げた囚人の身代わりをすべてしようとすれば、とてつもない罰になります。
自殺したくなるような絶望に、看守は襲われたでしょう。
しかし神様は、囚人を1人も逃しませんでした。
看守が責任に問われることはないのです。
絶望の淵にいた看守は、生きていていいんです。
それどころか、バプテスマを授けられ、永遠のいのちまで手に入れたのです。

人間の目から見たら、どうしようもない大きな絶望も、出口の見えないトラブルも、真っ暗闇に見える状況も、神様の前には、無力なのです。
パウロとシラスや看守だけでなく、自分ではどうすることもできない絶望から、神様によって助け出された人は、いくらでもいます。
過去も、今も、これからも、それは増えていくことでしょう。
絶望が千差万別なのですから、そこから救い出された証しも、幾万とあるのです。
礼拝の証詞などで聞いたこともあるでしょうし、あなたに実際に起ったこともあるでしょう。
はっきりと、「神様の前に、絶望は無力」ということなのです。

第二のポイントは、「神様の前に、誤解は無力」ということです。
看守が「先生方。救われるためには、何をしなければなりませんか」(30節)と言った時の「救い」と、パウロとシラスが「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(31節)と言った時の「救い」は、まったくの別物です。
看守は、囚人が逃げないで、自分の責任が問われないで、自殺しないで済むことを救いと考えています。
それに対してパウロとシラスは、イエスさまの十字架による救いという返事をしているのです。
しかし神様は、それらの食い違いや誤解を超えて、本当の救いと喜びを看守に与えました。
(これは、ゴスペルハウスの聖書解釈なので、異論のある人もいるでしょうが)

これは、現在でも同じです。
あなたが教会に行くことになったきっかけは、立派なものでしたか。
あなたがバプテスマを受ける決心をしたときには、完全な福音理解がありましたか。
少なくとも、私はそうではありませんでした。
しかし神様は、そんな誤解や欠けがあっても、本物の救いを、イエスさまの十字架により正真正銘の贖いを、永遠のいのちを、あなたに与えたのです。
誤解も不十分も、神様の愛の力、イエスさまの十字架の救いの力の前には、まったく無力なのです。

ちなみに、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(31節)は、あなたの信仰が、あなたの家族の救いを約束するものではありません。
家族を代表してとか親族を代表してとかではないのです。
人間は、一人ひとり、神様に出会い、救われるのです。
看守が、救い主を信じたら、看守が救われる。
家族のうちの1人が、救い主を信じたら、その人が救われる。
救いは、団体責任ではないのです(申命記24:16、エレミヤ31:29-30参照)。

第三のポイントは、「神様にあって、喜びは無敵」ということです。
パウロとシラスは、牢の中で賛美を歌っていました(25節)。
それは、賛美をしたら、神様が助けてくれるからでしょうか。
いいえ、違います。
それは、囚人たちに悔い改めを勧めるためでしょうか。
いいえ、違います。
看守の心を開いて、待遇改善を求めるためでしょうか。
いいえ、違います。
彼らは、ただ神様を喜び、賛美していたのです。

看守や家族は、神様を喜びました(34節)。
それは、神様を喜んだら、パウロたちも喜んで、囚人たちを逃げないようにしてくれるからでしょうか。
いいえ、違います。
彼らは、本当の救いを知り、それを自分のものとして受け取って、心から喜んだのです。
牢は壊れたままなのに、囚人の鎖は外れたままなのに。心から喜んだのです。

喜びは、義務ではありません。
神様が与える、あなたへのプレゼントなのです。
「いつも喜んでいなさい。」(1テサロニケ5:16)のように、聖書は何度も喜びを求めます。
ある先輩牧師によると、800回だそうです。
しかしそれは強制ではなく、命令ではなく、喜べるようにするという神様の約束なのです。
あなたは喜んでいいのです、喜べるのです、だから、喜びましょう。

「神様の前に、絶望は無力」、「神様の前に、誤解は無力」、「神様にあって、喜びは無敵」。
この3つのポイントは、今を生きるあなたにとっても、真実です。

神様を信じたって、絶望的な状況に陥ることもあります。
神様を信じたって、誤解や疎外感で苦しむこともあります。
しかし神様の前で、それらは無力なのです。
あなたは、絶望や誤解に縛られなくていいし、沈まなくていいのです。
神様に愛されているあなたに与えられる喜びは、揺らぐことはないのです。

絶望に沈ます、誤解に囚われず、神様を心から喜びましょう。
神様に愛されているあなたを、全身全霊で喜びましょう。
それが、あなたに与えられた、神様の約束なのです。

あなたのためにお祈りします。



【参照聖書箇所】
使徒
16:9 その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。

1コリント
1:14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
1:15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。
1:16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。
1:17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。

申命記 24:16 父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。

エレミヤ
31:29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。
31:30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。

ピリ 4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

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