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ゴスペルハウスコミュの「まっすぐに立ちなさい」2023.08.06

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ゴスペルハウスメッセージ 2023.08.06
「まっすぐに立ちなさい」使徒14:8-19

8 さてリステラで、足の不自由な人が座っていた。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがなかった。
9 彼はパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼をじっと見つめ、癒やされるにふさわしい信仰があるのを見て、
10 大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は飛び上がり、歩き出した。
11 群衆はパウロが行ったことを見て、声を張り上げ、リカオニア語で「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と言った。
12 そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロがおもに話す人だったことから、パウロをヘルメスと呼んだ。
13 すると、町の入り口にあるゼウス神殿の祭司が、雄牛数頭と花輪を門のところに持って来て、群衆と一緒にいけにえを献げようとした。
14 これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んだ。
15 「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。
16 神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。
17 それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。」
18 こう言って二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げるのを、かろうじてやめさせた。
19 ところが、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにした。彼らはパウロが死んだものと思って、町の外に引きずり出した。

先週の礼拝で、パウロたちの伝道旅行を「まっすぐな道」とお話しました。
パウロの語る伝道・福音のメッセージは、まっすぐだったため、ユダヤ人の反感を招き、生命まで狙われることになりました。
それで、伝道する場所を、度々移動することになりました。

神様と救い主・イエスさま、民の罪と十字架の赦しを語るパウロに対して、心を動かされる人や人生を変えられる人がいる一方で、パウロの語ることに反発し嫌悪する人たちもいました。
それは、パウロがまっすぐに語っていたからです。
もし、パウロが「証し」や「体験談」や「道徳」や「自己紹介」を語っていたなら、反発する人も少なかったでしょう。
そして、本当の救いに気がつく人も、ほとんどいなかったに違いありません。
毒にも薬にもならないような話は、覚悟がなくてもできます。
パウロは覚悟を持って語っていたのです。
人々の歓心を買うためでなく、救いに導くいのちの言葉を、伝えていたのです。

それでユダヤ人からの迫害を受け、リステラに移動して来たのです(ルステラの方がわかりやすい人もいるでしょうね)。
そのリステラでのできごとが、今週の聖書箇所です。

パウロが、足の不自由な人に、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」(10節)と言ったところ、彼は歩くことができたのです。
群衆は、パウロとバルナバの力で起こされたことだと勘違いし、2人を神様扱いし、献げ物までしだしたのです。
それは、人々がパウロの言葉が引き起こした奇蹟に感動したからです。
パウロとバルナバは、全力で否定し、なんとか、かろうじてやめさせることができました。

自分たちを神様のように思わせて、しっかり聞く態勢を作ってから福音を伝えて、イエスさまを本当の救い主と信じさせることもできたでしょう。
しかし、パウロたちはそんなことはしませんでした。
自らを神様と同等にすることは、ユダヤ人にとって、神様への冒涜でしかないからです。
また、それでは、まっすぐな道ではないですからね。
それでも、パウロはこの後、ユダヤ人に石打ちにされてしまう(19節)のですが。

今日は「まっすぐに立ちなさい」という、10節の言葉をキーに、御言葉を開いていきましょう。

パウロは、足の不自由な人を見て、「癒やされるにふさわしい信仰があるのを見」(9節)ました。
それで彼に、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言ったのです。
では、「癒やされるにふさわしい信仰」とは何でしょう。
パウロの語ることを、何でも従順に聞くことでしょうか。
素直で謙遜な心で、パウロの前に、毎日来ることでしょうか。
私は、どちらも違うと思います。
もちろん、従順も素直も謙遜も、悪いものではありません。
しかし、「癒やされるにふさわしい信仰」とは、違います。

次の2つの事柄の違いがわかりますか、はっきりと分かりますか。
「父なる神様と子なる救い主・イエスさまの愛と救いを語るパウロの言葉を信じる」
「パウロが言葉を尽くして語る父なる神様と子なる救い主・イエスさまの愛と救いを信じる」
わかりにくい人もいるかも知れませんから、同じ内容をもう少し短くします。
「神様を語るパウロを信じる」
「パウロの語る神様を信じる」
もっと短くしましょう。
「パウロを信じる」
「神様を信じる」

このうちのどちらが、「癒やされるにふさわしい信仰」でしょう。
言うまでもありませんね。
足の不自由だった人は、はっきりと神様を信じたのです。
彼は、パウロの言葉を通して、神様を見上げ、信じ、まっすぐに神様につながったのです。
勘違いした群衆が、パウロやバルナバを信じてしまったのとは正反対です。

神様の力が、神様からの奇蹟が、まっすぐに彼に注がれることがわかっていたからこそ、パウロは「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言ったのです。
「私が手を添えるから」とか「肩を貸すから」ではなく、「私が祈るから」とかでもありません。
それは「あなたの信仰で、まっすぐに神様に向き合いなさい」ということです。

それは、今、あなたに向けられた言葉でもあります。
あなたがまっすぐつながるのは、まっすぐにつながらなくてはならないのは、教会ですか、教団ですか、牧師ですか、神父ですか、伝道師ですか、教理ですか、聖書解釈ですか、世話になった信仰の先輩ですか。
どれも違うと、わかっているでしょう。
でも、あまりに素敵な力ある牧師がいると、あまりに大きく祝福された教会があると、著名な信仰者や劇的な人生の証しがあると、つい、そこにつながってしまうことがあるのです。
わかりやすいし、頼りになるような気もするし。
しかし、そこには多くの罠があり、あなたを傷つけることもあります。
そして何よりの問題は、神様にまっすぐつながることができなくなってしまうのです。

だれかを介して間接的に結びつくことを、神様はあなたに望んでいません。
直接、まっすぐにあなたとつながるために、イエスさまは十字架にかかって、あなたの罪を贖ったのです。
十字架の赦しの結果、神様の愛は、あなたにまっすぐ注がれることになったのです。
そして神様は、あなたに「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言うのです。
それは、「まっすぐ、神様の愛を、受けなさい」ということです。
そして、その愛の中にとどまって、生きなさいということなのです。

勘違いした群衆のように、人を信じて、人につながりますか。
それとも、癒やされた足の不自由だった人のように、神様を信じて、神様につながりますか。
今、はっきりとそのふたつを分けましょう。
そして、歩むべき道に、しっかりと一歩を出すのです。

あなたのためにお祈りします。

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